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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、感情がデータベースで埋まったから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/13

「ティセラ・ノーヴ。君との婚約を、本日をもって破棄する」


王宮中央ホールで開かれた、国家認証・記録年次更新式典。


通称、年次更新式。


王族、高位貴族、中央省庁の責任者、軍上層部など、国家中枢に関わる者たちが年に1度、一堂に会する。


式典そのものは、今年度の身分と役職、権限を確認するためのもの。だが、本番はその後だった。


出席者は式典終了後、それぞれの身分と職務に応じて、首の後ろにある国家標準ジャックから認証情報の更新を受ける。


身分情報。役職。閲覧権限。契約認証鍵。職務上必要な記録。


何を更新されるかは、人によって異なる。


王族と一部の国家記録保持者には、さらに国家中央記録の同期が加わる。


そのため今日の会場には、王国中央情報局と王立医療局の担当者まで控えていた。このあと数時間をかけ、出席者たちの年次更新が行われる予定だった。


その直前。


王太子ユル・アーデンは、大広間の中央で婚約破棄を告げた。


天井を覆う透明な投影板には王家の紋章が浮かび、その周囲を淡い青色の情報光が流れている。


集まった者たちの視線が、一斉にティセラへ向けられた。


上座には国王オルド・アーデンと王妃ソイラ・アーデン。


その全員が見守る中、ティセラはほんの少し首を傾げた。


「承知いたしました」


それだけだった。


泣きもしない。怒りもしない。驚きもしない。


それがまた、ユルを苛立たせたらしい。


「……やはり君はそうなのだな」

「何がでしょう?」

「何を言われても、その顔だ」


ユルの隣には、子爵令嬢ネア・キルドが立っていた。赤みのある髪を肩で切り揃えた、小柄な少女だ。


緊張しているのだろう。胸元で両手を握っている。


「ネアは違う」

「笑う。泣く。怒る。人が傷つけば、自分も傷つく」


ティセラはネアを見た。


ネアと目が合う。彼女は困ったように視線を伏せた。


「それは何よりですわ」

「そういうところだ!」


ユルの声が大広間へ響いた。


「君には感情がない!」


ティセラは少し考えた。


感情。


当然、知っている。


人間の行動分類として登録されている。


喜び。怒り。悲しみ。恐怖。嫌悪。愛着。恋愛感情。


それぞれがどういう生理反応を伴い、どういう判断傾向を生むのかも知っている。


王立医療局の基礎記録にもある。公開済みの外交事例や歴史記録にもある。


そして、ティセラの中に保存されている国家中央記録の索引にも。


怒りを主要因とする交渉決裂。


愛情関係を背景とした条約締結。


近親者の喪失を契機とする軍事判断。


そうした分類が並んでいる。


ただし、分かるのはそこまでだった。


国家中央記録の実データは、高度に圧縮され、暗号化された状態で生体領域へ保存されている。


保持者が意識して把握できるのは、保存範囲、日時、分類、検索用の索引情報まで。


その先にある外交交渉の会話も、軍事作戦の詳細も、諜報員の名前も、ティセラ自身の意識へ展開することはできない。


本文を取り出すには、外部端末による復号処理と正規の閲覧権限、そして保持者本人の出力同意が必要になる。


自分の脳に保存されているからといって、自分の知識になるわけではない。


それでも。


情報としてなら、感情を知っていた。


「それが婚約破棄の理由でしょうか?」

「それだけではない」


ユルは投影端末へ手をかざした。


空中に複数の記録が展開される。


「君はネアを王族専用回線から排除した」

「はい」

「上級認証室からも追い出した」

「はい」

「僕が彼女に与えた臨時権限まで停止した!」

「はい」


ざわめきが広がる。


ティセラは続けた。


「いずれも事実です」


ネアが顔を上げた。


ユルは勝ち誇ったように言う。


「認めるのだな」

「行為については」

「同じことだ!」

「いいえ」


ティセラは空中の記録へ視線を向けた。


「王族専用回線への接続には王家登録、または国王権限による個別認証が必要です。王太子個人の臨時許可では入れません」

「僕は王太子だぞ」

「国王ではございません」


一瞬、大広間が静かになった。


「上級認証室には国家保全情報を扱う端末があります。子爵令嬢に閲覧権限はございません」

「だから僕が――」

「そして、殿下が発行した臨時権限そのものが権限外でしたので停止いたしました」


ユルの顔が赤くなる。


「屁理屈を!」

「規則です」

「君はいつもそうだ!」

「規則、規則、規則!」


ティセラは瞬きをした。


規則を守ることの何が問題なのか分からなかった。


「ネアがどれほど傷ついたか、考えたことがあるのか!」


ティセラはネアを見る。


「傷つかれました?」


突然聞かれ、ネアが目を見開いた。


「え……」

「王族専用回線へ接続できなかったことで」

「い、いえ、その……困りはしましたけど……」

「ティセラ!」

「彼女を責めるな!」

「確認しただけです」

「その冷たさが人を傷つけると言っているんだ!」


また、それか。


ティセラは少しだけ考えた。しかし、答えは同じだった。


「それで、わたくしをどうなさるおつもりです?」


ユルは一瞬詰まり、それから胸を張った。


「婚約を破棄する」

「それは先ほど承りました」

「そして君の行為について正式に調査する」

「どうぞ」


ユルはティセラを睨んだ。


「結果によっては、国外追放もあり得る」


「いけません!」


王妃ソイラの声が飛んだ。


あまりに早い制止だった。


大広間がざわめく。ユルも驚いたように上座を見た。


「母上?」


ソイラは椅子から身を乗り出していた。


「国外追放など――」

「ソイラ」


低い声が重なる。


国王オルドだった。


王妃ほど取り乱してはいない。だが、その表情は先ほどまでとは明らかに違っていた。


「ユル。その先を、この場の勢いで決めるな」

「決めてなどいません」

「正式な調査の結果、罪が認められた場合の話です」

「それでもだ」


ティセラは王夫妻を見た。


妙だった。


婚約破棄には止めに入らなかった。調査にも異を唱えなかった。


だが。


国外追放。


その言葉が出た途端、2人とも態度を変えた。


特に王妃は、明らかに慌てている。


「王妃様」


ソイラがティセラを見る。


「何かしら」

「なぜ、国外追放ではいけませんの?」


王妃の口が止まった。


「それは……」


答えない。


ユルも不審そうに母を見る。


「母上。僕も聞きたい。なぜティセラだけ処分を制限されるんです?」

「そういうことではありません」

「では、どういうことです?」


ソイラは答えられない。ティセラには、なおさら分からなかった。


「わたくしは嫌疑を認めておりません」


確認するように言う。


「ですが、正式な手続きによって有罪と判断され、その刑が国外追放なのであれば、追放される。それだけでは?」

「ティセラ」

「あなたまで、そのようなことを……」

「事実を申し上げております」


ユルの苛立ちは収まらなかった。


「国外追放が駄目だというなら、もっと重い罪だった場合はどうするんです」


王妃の顔が強張る。


「ユル」

「国家に対する重大犯罪なら、死刑だってあり得るでしょう」


「おやめなさい!」


今度こそ、ソイラが立ち上がった。


椅子が後ろへずれる。


大広間が静まり返った。ユルも言葉を失う。


ティセラは王妃を見た。


追放だけではない。


処刑という言葉にも、同じように反応した。


いや。


先ほどより強い。


「王妃様」

「……何かしら」

「先ほどから、なぜそのように慌てていらっしゃるのです?」


ソイラの唇が震えた。


国王が低い声で言う。


「ティセラ」


ティセラは彼を見る。


「命の話だ」


少し考える。


「存じております」


オルドの眉が寄った。


ティセラは続けた。


「ですが、命の話であることと、処分が変わることは別の話でしょう?」


誰も答えない。


「わたくしは無罪を主張いたします。ですから、現時点で処刑されるつもりはございません」


一拍。


「ですが、正式な手続きの結果、死刑に相当する罪が認定されたのであれば、わたくしの命だからという理由で刑を変更なさるのですか?」

「そういう意味ではない」

「でしたら、やはり分かりません」


ティセラは王妃を見る。


「国外追放も駄目」

「……」

「処刑も駄目」


婚約破棄そのものでは、そこまで慌てていなかった。


違いは何か。


婚約を失うこと。国内で裁かれること。国外へ出ること。死ぬこと。


後ろ2つに共通するもの。


自分が、この国からいなくなる。


「……ああ」


小さく声が出た。


王妃が息を止める。


ティセラは、自分のうなじへ手をやった。


「わたくしが王国内から失われることに、何か問題がございますの?」


今度は国王も答えなかった。


その沈黙が、妙だった。


自分が持っているもので、国家が困るもの。


答えは1つしかない。


「国家中央記録ですか?」


ユルが眉を寄せた。


「何だ、それは」


ティセラの視線が、ゆっくりユルへ向いた。


「……はい?」

「国家中央記録とは何だと聞いている」


ティセラは数秒、何も言わなかった。


今度は王夫妻を見る。


王妃は目を逸らした。国王は黙っている。


そこで初めて、先ほどまでとは違う疑問が生まれた。


「殿下」

「何だ」

「ご自身が、どの国家記録を保持していらっしゃるか、ご存じないのですか?」


ユルの眉間に皺が寄る。


「僕が?」

「はい」

「なぜ僕が持っている」


ティセラは黙った。


おかしい。


「国家中央記録は、王国の最高機密を含む直近30年分の完全記録です」


ゆっくり説明する。


「外交。軍事。財政。諜報。研究。行政判断。その詳細記録」


ユルがティセラを見る。


「君は、その全部を知っているのか?」

「いいえ」


ティセラは即答した。


「わたくしが分かるのは、保存範囲と分類、索引情報までです。実際の内容は暗号化されておりますので、保持しているという理由だけでは閲覧できません」

「自分の頭の中にあるのに?」

「ええ」


ティセラは当然のこととして答えた。


「記憶ではなく、記録媒体として使用されておりますので」


その言葉に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


ティセラには、その理由が分からなかった。


「そして、同一の完全記録を4名が独立して保持することになっております」


指を折る。


「国王」

「王妃」

「王太子」

「王太子婚約者」


ティセラ自身も、幼少期に王太子婚約者として登録された時から、第4保持者としての適応訓練を受けてきた。


それが特別なことだとは思っていなかった。


王家へ入る者として必要な役目。ただ、それだけだと思っていた。


「ですから、わたくしが国外追放になったとしても、本来なら国家中央記録そのものは失われません」


ティセラはユルを見る。


「殿下にも、同じものが残るはずですから」


ユルは何も言わなかった。


理解していない顔だった。


ティセラの視線が王妃へ移る。


「……王妃様?」


答えない。


国王へ。


「陛下?」


オルドの表情は硬い。


それだけだった。


そこでティセラは、初めて自分の認識を疑った。


「主任技官」


上座近くに控えていた王国中央情報局主任技官、イオ・ベルトが一歩前へ出る。


年次更新の責任者の1人として、最初から会場にいた男だ。


「はい」

「殿下の国家記録領域を確認してくださいませ」


イオはすぐには動かなかった。国王を見る。


オルドが短く頷いた。


「……確認しろ」

「承知しました」


イオはユルへ向き直る。


「王太子殿下。接続許可を」

「待て。何を調べる」

「国家中央記録領域の同期状況です」


ユルが眉を寄せた。


「今日の更新で確認するものとは違うのか」

「一部は重なりますが、別です」


イオは答えた。


「毎年の年次更新では、殿下も身分情報、王位継承順位、認証鍵、閲覧権限などを正常に更新されています」


少し間を置く。


「今から確認するのは、国家中央記録そのものの完全同期履歴です」


この国で生まれた者のほとんどは、首の後ろに国家標準ジャックを持っている。


出生後まもなく施される処置だ。ティセラも同じだった。


物心ついた頃には、すでにそこにある。


日常生活では、自宅システム、医療、契約、決済、個人認証などに使用される。


そして年に1度、その人間が社会の中で何者であり、何を扱う権限を持つのかが更新される。


一般国民のデータ負荷は、おおむね10%前後。


家門情報や領地運営まで扱う貴族で15%から20%程度。


その延長線上に、国家記録保持者がいる。


ただし。


国家中央記録は、通常の年次更新とは桁が違う。


イオが細い接続線をユルのうなじへ差し込んだ。


青白い表示が空中に開く。


"IDENTITY VERIFIED"

"YUL ARDEN"

"ROYAL SUCCESSION CLASS: 01"


ここまでは正常だった。


今年度の認証情報も更新対象として登録されている。


続いて、国家中央記録領域。


"ARCHIVE DATA LOAD: 38.2%"


ティセラは表示を見た。


「……38.2%?」


イオが固まっている。


「主任技官」

「……はい」

「これは現在値ですの?」

「はい」

「最終完全同期は?」


イオが履歴を開いた。


その顔色が変わる。


「15年前です」


大広間の空気が変わった。


今日は年次更新式だった。


この場にいる者たちは、このあと全員、自分の役職や権限に応じた更新を受ける。


ユルも例外ではない。実際、王太子としての認証情報は毎年更新されていた。


それなのに。


国家中央記録だけが。


15年前で止まっている。


「15年?」


国王の声が低くなる。


「はい」

「故障か」

「いいえ」


イオが停止記録を表示する。


「正式な同期停止命令が残っております」


王妃が目を閉じた。


ティセラはその姿を見る。


先ほどの慌て方。国外追放を止めたこと。処刑という言葉に立ち上がったこと。


ようやく、そこまでが繋がった。


「王妃様」


長い沈黙。


ソイラはゆっくりと息を吐いた。


「……私です」


ユルが振り返る。


「母上?」

「あなたの完全同期を止めさせたのは、私です」

「僕の……同期を?」

「ええ」


ユルは空中に浮かぶ38.2%を見る。


しばらく数字を見ていた。


「……僕は」

「これが普通だと思っていた」

「違いますわ」


ティセラが答えた。


「国家記録保持者としては、途中で止まった数字です」


ユルの視線がティセラへ向いた。


「なら」


38.2%を見る。


またティセラを見る。


「その後の記録は、どこにある?」


ティセラは答えようとして、止まった。


そこまでは、自分も知らない。


自分の中に何が保存されているか、その分類は分かる。


だが、どの系統がどこへ退避されたかというシステム管理情報まで、保持者であるティセラへ自動的に開示されるわけではなかった。


「……それを」


王妃を見る。


国王を見る。


「今から確認する必要がありそうですわね」


ソイラが息子を見た。


「あなたは幼い頃、同期のたびに苦しんでいたでしょう」


ユルは黙った。


「頭が痛いと泣いて、熱を出して、接続の日が来るたびに嫌がって……」


ソイラの声が震える。


「私は、あなたを王太子である前に、1人の子供として育てたかった」


一度、息を呑む。


「自由に。笑って。怒って。泣いて。好きな人を好きだと言える人に」


ティセラは黙って聞いていた。


なるほど。


それなら、王太子の38.2%にも理由がある。


「ですが」


ティセラは尋ねた。


「停止した後の第3系統は、どちらで保持されていたのです?」


王妃が黙る。


ティセラはイオを見る。


「確認を」

「はい」


イオの指が空中を走った。


表示が切り替わる。


"NATIONAL ARCHIVE"

"REPLICATION FACTOR: 4"


"NODE-01 KING"

"NODE-02 QUEEN"

"NODE-03 CROWN PRINCE"

"NODE-04 CONSORT CANDIDATE"


一見、正常だった。


4系統。


しかしイオが現在の有効ホスト表示へ切り替える。


"ACTIVE PHYSICAL HOSTS: 1"


誰も声を出さなかった。


国王が眉を寄せる。


「待て。ユルには38.2%が残っている。私や王妃にも、過去に同期した記録はあるはずだ」

「ございます」


イオが答えた。


「ですが、この表示が示しているのは、現在まで連続した完全記録を保持し、現役ノードとして成立している物理ホストです」


イオはユルの38.2%を示した。


「王太子殿下には、15年前の完全同期停止時点までの記録が残っております」


続いて王夫妻の履歴を呼び出す。


「国王陛下、王妃陛下にも、それぞれ最後に完全同期された時点までの記録は残っております」

「ならば3人ともホストではないのか」

「過去の記録を保持する個体ではあります。しかし、現行の完全記録を保持する有効ノードではございません」


イオは再び表示へ視線を戻した。


「現在まで欠損なく連続した国家中央記録を保持している有効な物理ホストは、ティセラ様お1人です」


続いて保存先が表示される。


"NODE-01 → NV-04-771-TIS"

"NODE-02 → NV-04-771-TIS"

"NODE-03 → NV-04-771-TIS"

"NODE-04 → NV-04-771-TIS"


全部同じだった。


ティセラ自身の登録番号。


ティセラはしばらく表示を見た。


「全部」


誰に尋ねるでもなく呟く。


「わたくしですの?」

「……はい」


イオの声は小さかった。


国王が立ち上がった。


「待て。なぜそうなる」


イオは履歴を展開する。


「国家中央記録は、いずれかの系統で同期遅延が生じた場合、欠損防止のため、他の適格ホストへ一時的に複製されます」

「一時的に?」

「はい。本来は、停止した系統が復旧するまでです」


イオは4本の線を表示した。


15年前、そのうち1本がティセラへ重なる。


「緊急退避として、一時的に同一ホストへ重複配置すること自体は規程上許可されています。ただし、物理的な冗長性が失われますので、速やかに分離を復旧することが前提です」


国王の顔が強張る。


「復旧勧告は?」

「継続して出ております」


一瞬、オルドが目を閉じた。


イオは時系列を進める。


「まず15年前、王太子殿下の完全同期が停止しました。その時点から、第3系統の新規記録はティセラ様へ退避されています」


さらに時間を進める。


「その後、王妃陛下の同期頻度が徐々に低下しました」

「完全に停止したのか?」

「いいえ。当初は頻度を落としただけです。同期自体はしばらく継続されています」


ソイラが顔を伏せた。


「続いて国王陛下も、同期間隔を延長するようになりました。お2人とも最初から15年前に停止されたわけではございません」


表示上、4本だった独立線が、時間とともにティセラへ重なっていく。


「しかし同期間隔は次第に長くなり、10年以上前には、国王陛下、王妃陛下ともに現行の完全記録を保持する状態ではなくなりました」


「つまり」


ティセラは時系列表示を見る。


「殿下の分から始まり、その後に王妃様、国王陛下の未同期分まで、段階的にわたくしへ集まった」

「はい」

「そして、誰も物理分離へ戻さなかった」

「……はい」


国王は4つの登録先を見る。


「システムは正常に動いた、と?」

「はい」


イオは答えた。


「記録を失わない、という目的に対しては」


ユルが自分の38.2%と、4つ並んだティセラの登録番号を交互に見た。


「僕の分は……15年間?」

「殿下の系統については、15年間です」


イオは王夫妻の表示へ視線を移す。


「陛下方については、それより後です。同期頻度を落とされた時期も、完全な現行ノードから外れた時期も異なります」


国王が表示を指す。


「だが、論理上は4系統ある」

「はい」

「ならば冗長性は――」

「ございません」


イオが即答した。


「4つの論理系統が、同一個体へ収容されています。ティセラ様に物理障害が発生すれば、すべて同時に失われます」


表示を見る。


「これは4重冗長化ではありません」


間を置く。


「単一障害点です」


ティセラは王夫妻を見る。


「お互いに完全なバックアップを保持していらっしゃるものと思っておりました」


王妃は顔を上げられない。


国王が言った。


「私と王妃の同期履歴を詳しく出せ」


表示が追加される。


ユル。15年前、完全同期停止。


王妃。その後に同期頻度低下。


国王。さらに後に同期頻度低下。


そして10年以上前には、王夫妻ともに現在まで連続する完全同期状態から外れていた。


「……なぜですの?」


ティセラは純粋に疑問だった。


ソイラが答える。


「最初は……ユルの分だけでした」

「はい」

「あなたが問題なく受け入れていたから」


ティセラは黙る。


「その後、私も同期後の不調が年々辛くなって……少しずつ間隔を延ばしました」

「最初から、おやめになったわけではない」

「……ええ」


ソイラは小さく頷いた。


「最初は1度だけ。次は少し延期して。その次は、もう少し」


ティセラは履歴を見る。


確かに、突然途切れてはいない。間隔が延びている。


1つの例外が、次の例外になっている。


国王が続けた。


「私もだ」


ティセラは彼を見る。


「公務への影響が大きかった。同期後、数時間判断力が落ちる。外交日程にも差し支える」


オルドは表示から目を逸らさなかった。


「王妃の頻度を落としてもティセラ側に記録が残った。ならば私も、必要な時期だけ調整してよいと考えた」

「その必要な時期が増えた」

「……そうだ」


ティセラは少し考えた。


「なるほど」


それだけだった。


「わたくしの現在負荷を確認していただけます?」


イオの表情が強張った。


「……よろしいのですか」

「ええ」


接続線が運ばれる。


ティセラは自分で髪を持ち上げた。


うなじの中央。銀色の接続口。


出生後まもなく埋め込まれたものだ。物心ついた頃には、もうそこにあった。


痛いかどうかなど、考えたこともない。


イオが端子を差し込む。


軽い刺激。


表示が開く。


"IDENTITY VERIFIED"

"TISERA NOVE"

"NV-04-771-TIS"


そして。


"ARCHIVE DATA LOAD: 203.8%"


大広間が静まり返った。


ユルだけが、自分の表示を見た。


38.2%。


次に、ティセラを見る。


203.8%。


もう一度、自分。


38.2%。


その口がわずかに開いたが、声は出なかった。


国王が聞いた。


「203.8%とは、何に対する値だ」

「完成した国家記録保持者の同年齢平均を100.0%とした比較値です」


王妃が青ざめる。


「私が20歳の頃は?」

「現王妃の20歳時記録、98.6%です」

「……ティセラは?」

「203.8%です」


王妃の唇が震えた。


国王が低く問う。


「この異常値は、いつからだ」

「標準値を大きく超過していること自体は、12年前から年次報告へ記載されております」


国王の顔が止まった。


「12年前から?」

「はい」

「私への報告にも?」

「はい」


ティセラがイオを見る。


「わたくしは、その数値を聞いた覚えがございませんが」


イオが僅かに目を伏せた。


「当時の規程では、国家記録負荷の詳細値は王家保全情報に分類されておりました」

「本人にも?」

「はい」


大広間がまた静かになる。


「保持者本人への詳細値の開示義務はございませんでした」


ティセラは少し考えた。


「わたくしの脳ですのに?」

「……はい」


「そうですか」


それだけだった。


国王は203.8%という数字から目を逸らさなかった。


同じデータを4系統で保持しているため、単純な400%にはならない。


共通部分は圧縮される。ただし、それぞれに独立した暗号鍵、誤り訂正情報、同期履歴、認証情報が必要になる。


結果として、ティセラの負荷は標準の2倍を超えていた。


そして、その負荷は15年前に一度に203.8%へ跳ね上がったわけではない。


最初に王太子の系統が加わった。その後、王妃の未同期分が増え、さらに国王の未同期分が重なった。


例外が積み上がるたびに、ティセラの負荷も少しずつ増えていった。


「では」


ティセラは言った。


「保持できているのでしたら、問題ないのでは?」


王立医療局の医官、サナ・クレイが顔を上げた。


彼女もまた、今日の年次更新に備えて会場に配置されていた医官だった。


「問題ございます」


ティセラの脳活動図を拡大する。


「生体記録領域という名称から誤解されがちですが、人間の脳に最初から記録専用の器官があるわけではございません」


サナは表示を操作した。


「一般国民の日常利用や、通常の国家記録保持者1系統程度であれば、人格形成や情動発達と共存できます」


そして王妃を見る。


「現王妃が、その実例です」


王妃は笑う。怒る。泣く。


国王を愛し、息子を愛した。


国家記録保持者でありながら。


「では」


国王がティセラの図を見る。


「これは何だ」

「過剰適応です」


サナは答えた。


「幼少期から予定を超える情報が流入し、その後も負荷が段階的に増加し続けた結果、まだ十分形成されていなかった神経経路まで記録保持へ転用されています」

「どの経路だ」

「情動処理。愛着形成。感情記憶。衝動形成。喪失反応。共感応答」


大広間が静まり返る。


「ティセラ様の脳は、増え続ける記録を保持するために、自分自身の発達予定領域を使ったものと考えられます」


ティセラは表示を見る。


そこには色分けされた領域が並んでいた。


自分の脳だ。


「つまり」


ティセラは確認する。


「感情になるはずだった場所に、データが入っているということでしょう?」

「……概ね、その理解で結構です」


サナは一度言葉を切った。


「ただし、感情が完全に存在しないという意味ではございません」


ティセラが彼女を見る。


「形成と発達が著しく阻害されている、という方が正確です。弱い情動反応が残っている可能性はあります」


「そうですか」


ティセラは頷いた。


ならば辻褄が合う。


「笑う?」

「怒る?」

「泣く?」


少し考える。


「愛?」


ユルの顔が歪む。


ティセラは続けた。


「情報としては存じておりますが?」


誰も動かない。


「人は嬉しい時に笑う。悲しい時に泣く。怒れば判断が攻撃的になる。愛着対象の喪失には強い苦痛を伴う」


淡々と列挙した。


「記録にも、そのような分類は多数ございます」


そして、本当に分からないという顔で首を傾げる。


「ですが、運営に必要なのですか?」


誰も答えない。


「外交記録の保存に?」

「軍事情報の保持に?」

「暗号鍵の維持に?」


ティセラは王妃を見る。


「必要ございませんでしょう?」


ソイラが口元を押さえた。


ティセラは続ける。


「王妃様は、国家記録保持者でいらした」

「……ええ」

「20歳で98.6%」

「ええ」

「笑えました?」

「……ええ」

「怒ることも?」

「ええ」

「泣くことも?」

「……ええ」


ティセラはユルを見る。


「国王陛下を愛することも。殿下を愛することも、おできになった」


王妃は答えなかった。


答える必要もない。


息子が苦しむ姿を見て制度を曲げるほど、愛したのだから。


「では」


ティセラは203.8%を見る。


「わたくしがこうなったのは、国家記録保持者だからではございませんのね?」


サナが答える。


「はい。本来の設計どおりであれば、こうはなりません」

「そうですか」


ティセラは頷いた。


それだけだった。


ユルが203.8%を見た。


「僕が受け取らなかった分が……そこに?」

「そのようですわね」

「僕は……知らなかった」

「わたくしもです」


それ以上、ティセラは言わなかった。


知らなかった。今はそれで十分だった。


「ところで」


ティセラはネアを見る。


「そちらの子爵令嬢は、どれほどなんですの?」

「私?」

「はい」


ユルが顔を上げる。


「今それが何の関係がある」

「殿下がお選びになった方でしょう?」


ティセラは答えた。


「将来、王太子妃となる可能性があるのであれば確認は必要です」


イオがネアを見る。


「接続許可をいただけますか」


ネアは戸惑いながらも頷いた。


簡易端末がうなじへ繋がる。


今日このあと受ける予定だった年次更新と同じ接続方式だった。ただし今は、現在負荷の確認だけ。


数秒。


"NEA KILD"

"PERSONAL DATA LOAD: 17.4%"


ティセラは数字を見る。


「……まあ。普通の方ですのね」


ネアが自分の表示を見上げた。


「17.4%……」

「貴族平均の範囲です」


ティセラは続ける。


「その方は、自分のために脳を使って育ったのですね」


ユルが息を呑む。


「殿下がお好きになるのも分かりますわ」


よく笑う。泣く。怒る。人を愛する。


「当然です」


ネアは17.4%。


ユルは38.2%。


ティセラは203.8%。


「お2人は、ずいぶん似ていらっしゃいますもの」


ネアはしばらく自分の数字を見ていた。


やがて、ゆっくり顔を上げる。


「もし……私が殿下と結婚するなら」


ティセラが彼女を見る。


「私も、その4人目になるんですか?」

「本来なら」

「私も100%まで?」


サナが答えた。


「段階的な適応訓練を受けていただきます」


ネアの視線が203.8%へ移る。


「私も……ティセラ様のようになる?」


「いいえ」


サナは即座に否定した。


「本来の運用なら、なりません」


ネアが顔を上げる。


「通常の1系統、100.0%前後であれば、情緒形成との共存を前提にしています。現王妃がそうでした」

「笑える?」

「はい」

「泣ける?」

「はい」

「誰かを好きなままでいられる?」

「はい」


ネアは203.8%を見る。


「では……」


サナが静かに答えた。


「ティセラ様がこうなったのは、王太子妃になるためではありません」


一拍。


「4人で持つべきものが、段階的に1人へ集中していったからです」


ネアは何も言わなかった。


17.4%。


38.2%。


203.8%。


3つの数字を順番に見る。


やがて、自分のうなじへ触れた。


「王太子妃になるって」

「殿下と結婚するだけじゃないんですね」

「そうですわね」

「私も、国の記録を持つ」

「本来なら」


ネアはユルを見る。


「殿下を嫌いになったわけではありません」


ユルの表情が揺れた。


「でも」


ネアは自分の17.4%の表示を消した。


「知らないまま好きでいることと、知った上で選ぶことは違います」


ティセラは少し考えた。


判断材料が増えれば、結論が変わる可能性がある。


合理的だ。


「そうですわね」


ネアはそれ以上、何も言わなかった。


結婚するとも、しないとも。


ただ、もう何も知らない少女ではなくなった。


国王が重い声で言う。


「ならば、記録を機械へ移せ」


イオが振り返る。


「ティセラ1人に依存していることが問題なのだろう。全記録を機械記憶庫へ移せばいい」


イオは首を振った。


「現行設備では不可能です」

「なぜだ」

「機械式の完全バックアップは、直近1年分を維持するのが限界です」

「それ以前は?」

「30年前以前については、重要事項の概要のみ超圧縮保存されています」

「では、1年から30年前は?」

「生体記録が主です」


国王の顔が強張る。


「機械側にはないのか」

「詳細な判断過程まで含めた完全記録は、ございません」


ティセラが尋ねる。


「つまり?」


イオが答える。


「何が起きたかは残ります」


少し間を置く。


「なぜ、そうしたのかは残りません」


ティセラは頷いた。


「王国の歴史は残る」


皆が彼女を見る。


「王国の経験が消えるだけですわね」

「その理解で結構です」


国王が尋ねる。


「全30年分を機械で保持するなら?」

「同等の冗長性、暗号化、冷却、災害対策まで含めれば、現行国家予算の約2倍です」


ユルが呟く。


「そんな……人間1人でできていることだぞ」


イオが彼を見る。


「はい」


少し間を置く。


「人間の脳は、非常に安価ですから」


その言葉に、イオ自身が顔を歪めた。


「正確には、これまで国家が正当な費用を支払ってこなかっただけですが」


誰も否定しなかった。


王妃が顔を上げる。


「歴代王妃の保存脳は?」


イオが黙る。


「地下保存庫にあるでしょう?」

「ございます」

「そこから復元できないの?」

「断片のみです」


イオは静かに続ける。


「生体記録は、生きた神経活動と本人認証を前提にしています。死後保存脳から拾えるのは、固定された記録断片と一部の復号情報のみです」

「どれくらい?」

「最高状態の保存脳でも、完全復元率は6.2%です」


王妃が座り込む。


国王が尋ねた。


「歴代国王は」


そこで言葉が止まった。


答えは分かっている。


国王は葬儀後、即日土葬される。保存処置はされない。


死した王の肉体を国家設備として利用することは、現王の権威を損なう。


王は自然へ還る。


王妃の脳は保存される。


ティセラはその制度を知っていた。今まで疑問に思ったことはない。


「国王陛下は、死ねば土へお還りになる」

「王妃様は、脳を保存される」


誰も口を挟まない。


ティセラは自分のうなじに触れた。


「そして、わたくしは」


銀色の端子。


「生きている今から保存装置ですのね」


ソイラの顔が歪んだ。


だが、まだ何も言わなかった。


ティセラはイオを見る。


「では、復旧可能な範囲を」


イオが履歴を展開する。


直近1年。機械側に完全記録。


それ以前。旧バックアップ。断片保存。歴代保持者由来の残存情報。


ティセラは15年前から現在までの線を追った。


王太子の完全同期停止。


その後の王妃。


さらに国王。


そして10年以上前、ティセラ以外の現行完全ノードが消える。


「殿下の停止から危険は始まった。ですが、その時点ですぐにわたくし1人になったわけではない」

「はい」


イオが頷く。


「両陛下の同期頻度が下がるにつれ、他の物理ホストから復元できる範囲が狭くなりました」


ティセラは直近1年を示す。


「ここだけは機械側に完全記録がある」

「はい」

「でしたら、最も危険なのは、それ以前。わたくし以外の完全ノードが失われた後の期間ですのね」

「その通りです」


ティセラは表示を閉じた。


「まあ」


事実として言った。


「ずいぶん長い時間をかけて、わたくし1人へ集めてくださったのですね」


誰も答えなかった。


ティセラには、その理由が分からなかった。


「さて」


少し間を置く。


「では、先ほどの処分のお話へ戻りましょう」


ユルの肩が揺れた。


「わたくしは嫌疑を認めておりません」

「……」

「ですが、国外追放や処刑の可能性については確認いたしました」


ティセラは自分のうなじへ触れた。


「国外追放なら、この脳ごと国外へ参ります」


「国家機密の国外流出を許せないのであれば」


ティセラは自分の表示を操作した。


"EMERGENCY ZEROIZATION AUTHORITY"

"HOLDER: NV-04-771-TIS"

"STATUS: AVAILABLE"


「でしたら消去いたします」


大広間が固まった。


王妃が息を呑む。


ティセラは静かに続ける。


「このデータを消去する権限は、わたくしにしかございませんのよ」


国王が低く問う。


「王命でもか」

「ええ」


即答した。


「王命でも、ですわ」


イオが補足する。


「敵国による拉致、強制接続、王都陥落時を想定した最高位保全規則です。緊急消去権限は保持者本人にのみ付与されます」


一拍。


「王家が定めた規則です」


ティセラは頷いた。


「そして、セキュリティ上」


表示を切り替える。


"OUTPUT CONSENT: HOLDER REQUIRED"


「わたくしの同意なしに、データは外部出力できません」

「拘束しても?」


国王が聞く。


イオが首を振った。


「強制状態では同意認証が成立しません」

「処刑後に保存しても?」

「死亡時点で本人認証が失われます」


ティセラは続ける。


「処刑なさるなら、死亡とともにロスト」

「王国内に残して利用なさりたいのであれば、わたくしの同意が必要」


そして、38.2%を見る。


「本来なら、このようなことにはなっておりませんのよ?」


ユルの顔が上がった。


「貴方様にも、わたくしと同じ完全データがあるはずでしたもの」


王夫妻を見る。


「4人で保持していれば、わたくし1人が国外へ出ようと、死のうと、王国の記録は残った」


203.8%へ視線を移す。


「皆様が、自分がバックアップであることを少しずつおやめになった結果ですわ」


ユルが掠れた声を出した。


「それでは……国を人質に取るのと同じじゃないか」


ティセラは彼を見る。


「逆ですわ、殿下」


そして言った。


「王国が、わたくしを記憶媒体にしたのでしょう?」


ユルが黙る。


「本来の役目を殿下から外したのは王家です」


ティセラは38.2%を見る。


「殿下には、国のために背負うはずだった役目を外す自由をお与えになった」


今度は203.8%。


「その分まで背負わされたわたくしには、今になって国のために残れと?」


沈黙。


「ずいぶんと都合のよろしい『国のため』ですこと」


ユルの顔が歪んだ。


「僕は……」

「存じております」


ティセラが言う。


「殿下ご自身がお決めになったことではございません」


ユルが顔を上げる。


「ですが」


ティセラはそこで切った。


「その結果として得たものを使って、先ほどわたくしを国外追放、あるいは処刑なさろうとしたのは殿下です」


今度こそ、ユルは何も言わなかった。


ティセラは王夫妻を見る。


「そして」


国王を見る。


「15年前、殿下の同期停止を認可なさったのは陛下」

「……そうだ」

「その後、王妃様がご自身の同期頻度を落とされた」

「……ええ」

「さらに国王陛下も」

「そうだ」

「誰も完全な物理分離へ復旧しなかった」

「そうだ」

「復旧勧告も出ていた」

「……そうだ」

「異常負荷は12年前から報告されていた」

「そうだ」


最後に。


「その詳細を確認なさらなかったのは?」

「私だ」


即答だった。


大広間が静まり返る。


オルドは203.8%を見る。


長い間、誰も口を挟まなかった。


やがて国王は言った。


「これは事故ではない」


王妃が顔を上げる。


「機械が壊れたわけではない。制度が想定外の挙動をしたわけでもない」


15年前の王太子同期停止。


その後の王妃の同期頻度低下。


さらに国王自身の同期頻度低下。


復旧勧告。12年前からの異常負荷報告。


そして現在。


38.2%。


203.8%。


4系統。


有効物理ホスト1。


すべてを順番に見た。


「王妃が願い、私が認可した」

「その後、王妃が負担を避けることを許した」

「さらに、私自身も同じことをした」


少しずつ。


例外を重ねた。


「復旧勧告も、異常値も報告されていた」


そしてティセラを見る。


「それを止めなかった」


一度、息を吐く。


「これは、私の統治判断の結果だ」


国王は階段を下りた。


ティセラの前まで来る。


そして頭を下げた。


誰も動かなかった。


「許してほしい」


ティセラはそれを見る。


国王が頭を下げている。


歴代記録にもほとんどない光景だった。


正確には、そうした記録が存在するかどうかを索引で確認することはできる。


だが、その時の王がどんな顔で頭を下げ、何を思っていたのかまでは、ティセラ自身には読めない。


目の前の国王を見るしかなかった。


「そして」


国王は頭を下げたまま続ける。


「王国の記録を、今後も守ることに協力してほしい」


ティセラは考えた。


怒りはない。喜びもない。満足もない。


ただ、判断する。


その前に。


王妃が階段を下りた。


ティセラの前に立つ。


顔は涙で濡れている。


「ティセラ」

「はい」

「私は、ユルに笑ってほしかった」


ティセラは黙って聞く。


「苦しまないでほしかった。王太子である前に、1人の子供として育ってほしかった」


声が震える。


「笑って、泣いて、怒って。誰かを好きになって」


ティセラは頷いた。


「そのようにおっしゃっていましたわね」


ソイラは203.8%を見る。


「でも、そのために」


声が途切れる。


「あなたが笑うための場所を使っていた」


ティセラは少し考えた。


「正確には」


王妃が顔を上げる。


「王妃様がお1人でそうなさったわけではございません」


ソイラの瞳が揺れる。


「王妃様が停止を望まれ、国王陛下が認可なさった」

「その後、王妃様ご自身も少しずつ同期を減らした」

「国王陛下も同じように減らした」

「それを復旧させないまま、複数の人間が例外運用を継続した」


ティセラは王妃を見る。


「その結果です」


王妃は泣いたまま、ほんの少し笑った。


「そんな時まで、正確なのね」

「事実ですので」

「……ええ」


ソイラは頭を下げた。


「それでも、ごめんなさい」


ティセラは少し考える。


「ええ」


そして答えた。


「謝罪は受け取りました」


王妃が顔を上げる。一瞬、救われたような表情になる。


「ですが」


ティセラは続けた。


「謝罪と、今後のデータ利用への同意は別問題ですわ」


王妃の表情が止まった。


ティセラは国王を見る。


「協力をお求めになるのであれば、条件がございます」

「言ってくれ」


「まず、わたくしへの嫌疑を正式な司法手続きへ移してくださいませ」


ティセラはユルを見る。


「この場の感情で、追放も処刑も決めないこと」


ユルが俯く。


「婚約は解消いたします」

「……分かった」

「殿下がお望みになった破棄、という形ではございません」


ティセラは訂正した。


「国家契約の重大な前提条件が王家側の行為によって失われていたため、契約そのものを無効としてくださいませ」


国王は少し黙った。


「……分かった」


「次に」


ティセラはイオを見る。


「4系統を再び物理的に分離してください」

「すぐには不可能です」

「存じております」

「新たな保持者を育成するには年単位を要します」

「ですから、計画を作ってくださいませ」


203.8%を見る。


「わたくし1人を前提にしない計画を」


イオが深く頷いた。


「承知しました」

「機械バックアップも直近1年から拡張を」


国王が口を開く。


「費用が――」


そこで止まった。


203.8%を見る。


「いや」


首を振る。


「予算を組む」


ティセラは少しだけ首を傾げた。


国王は続ける。


「必要な費用だった」


イオが静かに頷く。


「はい」


ティセラが言った。


「これまで安かったのではございません」


国王を見る。


「支払っていなかっただけです」

「その通りだ」


「そして」


ティセラは自分の表示を見る。


203.8%。


「わたくしの負荷を、100.0%以下へ戻すこと」


サナが言った。


「すぐにはできません」

「ええ」

「急激なデータ除去も危険です」

「では、可能な速度で」

「はい」


ティセラは続ける。


「健康状態と負荷上限を明文化してくださいませ」

「データ出力の範囲」

「保持者への報酬」

「第三者監査」

「代替バックアップ構築期限」

「緊急消去権限」

「そして、保持者本人への負荷情報の完全開示」


ティセラは国王を見る。


「本人の脳の状態を、本人だけが知らない制度は改めてくださいませ」

「分かった」


「いずれも契約へ」

「分かった」

「王族だから例外、は認めません」


国王は苦い顔をした。


それでも頷いた。


「分かった」


ティセラはサナを見る。


「情緒の方は?」


サナは少しだけ言葉を選んだ。


「分かりません」


それだけで、大広間の空気が重くなる。


「王太子殿下の系統が追加されたのは15年前です。その後も負荷が増え続けています」


サナはティセラの脳活動図を見る。


「長期間にわたり、発達期の神経経路が記録保持へ適応しております」


ティセラを見る。


「負荷を下げることで再形成される可能性はあります。ただし、完全な回復は保証できません」

「そうですか」


ティセラは頷いた。


それだけだった。


王妃が泣いている。


ネアも、少し離れたところで黙って目元を拭っていた。


だが、もう何も言わない。


自分が知ったことを、自分の中で処理しているようだった。


「ティセラ」


ユルが呼んだ。


ティセラは振り向く。


ユルはまだ、自分の38.2%を表示したままだった。


「僕は……君が冷たいと思っていた」

「はい」

「僕を嫌っているんだと」

「嫌う?」


ティセラは少し考える。


「情報としては存じております」


ユルの顔が歪む。


「僕は笑えた」

「はい」

「泣けた」

「はい」

「怒れた」

「はい」

「ネアを好きになった」

「そのようですわね」


ユルは203.8%を見る。


「その間、君は……」


ティセラが訂正する。


「殿下の分まで、国家記録を保持しておりました」


ユルが黙る。


「そこは間違えないでくださいませ」


ユルは俯いた。


ティセラは彼の38.2%を見る。


自分の203.8%。


その差が、数字として並んでいる。


王妃は息子を自由に育てたかった。


実際、その通りになった。


ユルは笑った。怒った。泣いた。恋をした。


好きな女のために婚約を破棄した。


感情のまま、国外追放を口にした。処刑さえ口にした。


その15年間。


少なくとも、ユルが受け取るはずだった国家記録は、ティセラの脳へ流れ続けた。


さらにその後、王妃が減らした分も、国王が減らした分も、少しずつ重なった。


王太子の脳で感情になった時間が。


ティセラの脳では、データになった。


しかも。


そのデータは、ティセラの知識にすらならない。


ただ保存されているだけだった。


「殿下」

「……何だ」


ティセラは静かに言った。


「感情豊かにお育ちになりましたのね」


ユルは何も言わない。


「王妃様のお望みどおりに」


沈黙。


「よろしかったのではありません?」


王妃が嗚咽を漏らした。


ユルは両手で顔を覆った。


国王は泣かなかった。


ただ、12年間見なかった数字を、今度は目を逸らさず見ていた。


ネアは何も言わなかった。


ティセラには、それがなぜ皆をさらに悲しませるのか分からなかった。


やがて、イオが接続線を抜く。


うなじの端子が閉じる。


表示されていた203.8%が消える。


だが、なくなったわけではない。


王国30年分の記録は、まだそこにある。


外交。軍事。財務。研究。諜報。


王家が成功した記録。失敗した記録。


誰かが怒った記録。


誰かが泣いた記録。


誰かが誰かを愛した記録。


正確には。


そう分類された記録。


その全部を、ティセラは持っている。


保存している。


だが、外交官が何を言ったのかは知らない。


誰が泣いたのかも知らない。


誰が誰を愛したのかも知らない。


暗号化された本文は、彼女の脳を使って存在している。


彼女自身には開かれないまま。


ただし。


自分では読めない。


「ティセラ様」


イオが言った。


「今後の出力許可については?」


ティセラは彼を見る。


国王も、王妃も、重臣たちも。


全員が答えを待っている。


先ほどまで罪人として追放するか、処刑するかを口にされていた女の同意を。


そして。


彼女自身には読むことのできない情報を、今後も国家が読むための同意を。


ティセラは少し考えた。


「本日のところは、継続を許可いたします」


大広間に、かすかな安堵が広がる。


「ただし」


全員が固まった。


「暫定です」


ティセラは続ける。


「新しい契約が成立するまでの間に限ります」

「分かった」


国王が答えた。


「では」


ティセラはドレスの裾を整えた。


「本日のところは、それで」


歩き出す。


「どこへ行く」


ユルが聞いた。


ティセラは振り返る。


「帰ります」

「今、この状況で?」

「式典は終了したのでしょう?」


イオがわずかに顔をしかめた。


本来なら、ここから年次更新が始まる予定だった。


王族。高位貴族。中央省庁。軍。


今日1日で、国家中枢に属する者たちの認証情報が新年度仕様へ切り替わる。


だが現在、その更新に使用する国家情報制度そのものに、重大な運用障害が発覚している。


国王がイオを見る。


「今日の更新は」

「中止を具申いたします」


即答だった。


「原因と影響範囲を確認するまで、国家中枢に対する新規同期処理を行うべきではありません」


オルドは頷いた。


「全面停止しろ」

「承知しました」


年に1度の更新式。


国家中枢の情報を最新の状態へ揃えるための日。


その日に判明したのは。


王国で最も重要な記録を守るはずだった4系統のうち1つが、15年間、独立したバックアップとして機能していなかったことだった。


「それに」


ティセラは広間を見渡した。


「わたくし、少々疲れておりますの」


サナが慌てて端末を見る。


「当然です。今日だけで通常時を大きく超える接続が――」

「そうではなく」


ティセラは止めた。


自分でも珍しかった。


身体の中央に、妙な感覚がある。


胸が少し重い。呼吸が浅い。


不快ではある。


だが頭痛とは違う。同期後の倦怠感とも違う。


先ほどサナは言った。


感情が完全に存在しないわけではない。


弱い情動反応が残っている可能性はある。


「医官」

「はい」

「胸が、少し痛みます」


サナの顔色が変わる。


「循環器症状ですか?」

「分かりません」


ティセラは王妃を見る。


泣いている。


国王を見る。


203.8%が消えた空間を見ている。


ネアを見る。


涙の跡を残したまま、もう俯いてはいない。


最後にユルを見る。


彼も泣いていた。


「この感じは」


ティセラは胸元へ手を置いた。


「何でしょう?」


サナはすぐには答えなかった。


やがて、ごく慎重に口を開く。


「もしかすると」


少し間を置く。


「悲しい、という感情かもしれません」


ティセラは瞬きをした。


悲しい。


知っている。


情報としてなら。


医学的定義も。


身体反応も。


国家中央記録の索引に、どれほど多く《悲嘆》という分類があるのかも。


けれど。


そのどれも、自分の悲しみではなかった。


「そう」


胸の痛みを確かめる。


30年分の記録の本文は読めない。


そこに残された誰かの悲しみも、ティセラ自身には分からない。


けれど今。


これは、自分の中にある。


誰かの記録ではない。


索引でもない。


分類でもない。


自分だけの反応。


ほんのわずかなものだった。


それでも、そこにある。


ティセラは初めて、それを消さずに置いておくことにした。


「これが」


小さく呟く。


「悲しい、ですのね」


そして今度こそ、大広間をあとにした。


その夜。


国家認証・記録年次更新式は、制度開始以来初めて途中停止となった。


予定されていた国家中枢の年次更新は、すべて延期。


王国中央情報局では、そのまま建国以来最大規模の情報保全監査が開始された。


王太子の記録負荷、38.2%。


ティセラ・ノーヴ、203.8%。


論理バックアップ、4系統。


有効物理ホスト、1。


機械完全保存、直近1年。


長期詳細記録、最大30年。


15年前。王太子系統、完全同期停止。


その後。王妃系統、同期頻度低下。


さらに後。国王系統、同期頻度低下。


10年以上前。ティセラ・ノーヴ以外の完全現役物理ホスト、消失。


そして12年前から記録されていた、異常負荷。


後世、その夜に提出された最初の報告書には、原因がこう記された。


《生体記録システムの技術的障害ではない》


《本来の運用下では、人格および情動形成への重大な影響は確認されない》


《王太子系統の完全同期停止後、他系統についても段階的な同期頻度低下が発生》


《冗長性喪失の主要因は、複数の権限者による長期的な例外運用、および監督不全》


《一時的な同一ホスト退避は規程上許容されていたが、物理分離の復旧勧告が長期間履行されなかった》


《異常負荷については、発生初期より複数回の報告記録あり》


《当時の規程では、負荷詳細値の保持者本人への開示義務なし》


《国家中央記録の実データは暗号化・圧縮状態で生体領域に保存され、保持者本人が直接閲覧することはできない》


《結果として、国家記録4系統の現行完全記録が単一個人へ集中した》


その報告書の分類欄には、一度だけ《事故》と入力された記録が残っている。


だが、その文字は提出前に削除された。


代わりに記された分類は、


《統治上の人為的障害》


だった。


そして最後に。


最大の損失について、医療局はこう追記した。


《国家記録の欠損は発生していない》


《ただし》


《本来1人の人間の情緒として形成されるはずだった神経資源の一部が、国家記録保存に使用された》


王国30年分の機密は、無事だった。


失われていたのは。


ずっと。


ティセラ・ノーヴの方だった。

お読みいただきありがとうございました。


悪役令嬢が冷たい。


なら、その「冷たさ」に理由をつけたらどうなるんだろう。


そんなところから始まりました。


気づけば婚約破棄より、国家規模の情報管理事故の話になっていました。


昔、サイバーパンク系の本を好んで読んでいた時期がありまして。


最初からサイバーパンクを書こうと思っていたわけではないのですが、考えているうちにどんどんそっちへ寄っていきました。


昔好きだったものって、案外残ってるものですね。


そして最近、あとがきで「どうしてこうなった」と書くことが増えた気がします。


今回も例に漏れず。


悪役令嬢を書いていたはずなんですけどね。


どうしてこうなった。


楽しんでいただけましたら幸いです。

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王太子のイチャモン嫌疑は王太子の越権行為 国王夫妻の国家保全に関する反逆行為の方は罰せられないのか?
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