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家鳴り

作者: すかいはい
掲載日:2026/07/08

 音を扱う仕事を生業なりわいにしているせいか、私は昔から、人より耳が良いと云われてきた。


 いや、正しくは『耳が良い』のではない。『耳が過敏』なのだ。雑踏の中から特定の足音を、オーケストラの総奏そうそうの中からわずかな音程の狂いを、意識せずとも拾い上げてしまう。


 それは時として武器にもなったが、日常生活においては、むしろかせであった。


 そんな私が、仕事場を兼ねて鎌倉の外れにある谷戸やとの奥、古びた一軒家に移り住んだのは、夏の盛りもとうに過ぎた頃のことだ。


 切り通しを抜けた先にひっそりとたたずむその家は、湿気をたっぷりと吸い込んだ木々の匂いと、何より、耳をふさぎたくなるほどの静寂せいじゃくに満ちていた。


 私にとっては、これ以上ない仕事環境に思われた。


 そう、最初の頃までは。


 異変は、決まって丑三うしみつ時、私がヘッドフォンを外し、深い静寂が訪れた瞬間に起こった。


 二階の、使っていない部屋の方からだ。


 ぎ、ときしむ音がする。


 最初は、古い木造家屋にありがちな、気温の変化で木材が伸縮する音だろうと高をくくっていた。


 家鳴やなり、とうやつだ。


 だが、その音は、夜毎にその輪郭りんかくをはっきりさせていった。


 ぎしり、みしり。


 それは、単なる物理現象としての軋む音ではなかった。明確な意思と、そして、重さがあった。


 誰かが、床を踏みしめている音だ。


 それも、片足を引きるように、ゆっくりと、一定の間隔を置いて、部屋の隅から隅へと移動している。


 ぎしり……みしり……。


 その音は、私の鼓膜を通り越し、直接、頭蓋ずがいの内に響いた。


 眠っているのか起きているのか判然としない意識の狭間で、私はその音の主を想像する。


 どんな顔をした、どんな体躯たいくの、何者なのか。いや、そもそも、それは本当に()なのか。


 ある夜、私は耐え切れずに、録音機材を手に二階へと上がった。


 音の正体を白日の下にさらしてやろうと云う、半ば自暴自棄的じぼうじきてきな試みであった。


 しんと静まり返った部屋の中央に高性能マイクを設置し、私は階下で息を潜めた。


 案の定、しばらくすると例の音が始まった。


 ぎしり……みしり……。


 私は録音を続けながら、ヘッドフォンでその音を聴いた。


 すると、どうだ。マイクが拾った音は、私が普段聴いている音とは、まるで異質であった。


 そこには、床の軋む音と共に、かすかな、しかし聞き逃しようのない、別の音が混じっていたのだ。


  ひゅう、ひゅう、と云う、乾いた息遣い。


 そして時折、く、と喉を鳴らす、苦悶のような音。


 それは、まるで、死にひんした何者かが、最後の力を振り絞って部屋を徘徊はいかいしているかのようであった。


 私は、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、慌ててヘッドフォンを外した。


 翌日、私はほとんど無意識のうちに、旧知の男の元を訪れていた。


 男は大学で建築史、特に、古民家の構造力学なぞと云う、風変わりな分野を専門にしている男であった。名を、木島きじまと云う。


 書斎と云うよりは、最早、木材と図面の倉庫と化した部屋で、私の憔悴しょうすいしきった顔と、持参した録音データとを交互に見比べた木島は、やがて、呆れたようにこう言った。


「君ともあろう者が、物の怪にでも取り憑かれたような顔をするな。これは、幽霊の仕業などではない。断じてね」

「だが、この音は……」

「音、か。君は音の専門家だが、その実、音の本質をまるで理解していないようだ」


 木島は、かたわらの棚から、歪な形をした木材の切れ端を取り上げた。


「いいかい。木は生きている。伐採され、建材とされた後も、呼吸を続ける。湿気を吸い、吐き出し、気温によって伸び、縮む。特に、君が住んでいるような谷戸の家は、湿度の変化が激しい。木材は、昼夜、絶えず悲鳴を上げているようなものだ。それが家鳴りの正体だよ」

「そんなことは知っている。だが、このリズムと、この息遣いはどう説明する」

「それこそが、君の『呪い』だ」


 木島は、私の目を真っ直ぐに見据みすえた。


「君の耳は過敏だ。そして、君の脳は、無秩序な音の中に、意味のあるパターン、すなわち『リズム』を見出そうとする。これを音響的パレイドリアとでも呼ぶべきか。君は、家が発するランダムな軋みを、己の脳内で『足音』として意味付けし、編集してしまっているのだ。そして、一度そう認識してしまえば、脳はますますそのパターンを強化しようとする。息遣いなぞ、その最たるものだ。それは、君自身の緊張した呼吸音か、あるいは、木材の隙間を風が通り抜ける音を、君の脳が『それらしく』解釈したに過ぎん」


 木島の理路整然とした説明は、しかし、私の恐怖を完全にはぬぐい去れなかった。


「では、この家が、何かを記憶しているとでも云うのか」

「記憶、か。面白いことを言う」


  木島は、にやり、と笑った。


「記憶と云うよりは、癖、或いは、歪みと云うべきだろうな。家と云うものは、そこに住まう人間の生活に合わせて、物理的に変形してゆく。毎日同じ場所を歩けば床はたわみ、同じ柱に寄りかかれば柱はかしぐ。それは、云わば、家が人間の生活様式を学習し、その身体に刻み込む過程だ。もし、君の家の前の住人が、永い間、病か何かで、あの部屋を夜毎に同じように徘徊していたとしたら? その反復運動によって生じた家全体の微細な歪みが、特定の湿度、特定の気温になった時、まるで蓄音機が音を再生するように、かつての軋みのリズムを再現している……そう考えることは、果たして非科学的かね?」


 ――家が刻んだ、人間の癖。


 その言葉に、私は頭を殴り付けられるような衝撃を受けた。


 私をおびやかしていたのは、幽霊でも物の怪でもない。この家に嘗て住んでいた、名も知らぬ誰かの、絶望か、苦痛か、或いは諦念ていねんに満ちた、日々の繰り返しの痕跡そのものだったのだ。


 その夜、私は、もう二階へは上がらなかった。


 階下の仕事部屋で、じっと耳を澄ませる。


 やがて、始まった。


 ぎしり……みしり……。


 だが、その音は、もう私を脅かす怪異の足音ではなかった。


 それは、この家が記憶している、遠い誰かの物語。


 壁が、柱が、床が、私に語り掛けてくる、声なき声。


 私は、ヘッドフォンを装着すると、仕事に戻った。


 家鳴りは、続いている。だが、もう気にはならなかった。


 それは、この静寂に満ちた家で、私と共に在る、唯一の隣人の息遣いなのだと、そう思うことにしたからである。


 そのせいなのかは定かでないが、私はいつになく仕事に没頭することができた。


 山場に差し掛かった頃、部屋のドアが開け放しになっているのがふと気にかかった。


 顔を向ける。


 そこには、床を這う手足の捻じ曲がった男の姿があった。


 男が体を動かす度に床の軋む音がする。


 ぎしり……みしり……。


 ああ、家鳴りだ。


 構うことはない。これは、単なる家の歪みなのだから。


 手足の捻じ曲がった男は喉を鳴らし、床を這いずりながらこちらに近付いてくる。


 私は、気にせず仕事机に向き直った。


 ぎしり、みしり。

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― 新着の感想 ―
文章がうまいですね。話も贅肉が削がれ、無駄がない(*^-^*)
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