家鳴り
音を扱う仕事を生業にしているせいか、私は昔から、人より耳が良いと云われてきた。
いや、正しくは『耳が良い』のではない。『耳が過敏』なのだ。雑踏の中から特定の足音を、オーケストラの総奏の中から僅かな音程の狂いを、意識せずとも拾い上げてしまう。
それは時として武器にもなったが、日常生活においては、むしろ枷であった。
そんな私が、仕事場を兼ねて鎌倉の外れにある谷戸の奥、古びた一軒家に移り住んだのは、夏の盛りもとうに過ぎた頃のことだ。
切り通しを抜けた先にひっそりと佇むその家は、湿気をたっぷりと吸い込んだ木々の匂いと、何より、耳を塞ぎたくなるほどの静寂に満ちていた。
私にとっては、これ以上ない仕事環境に思われた。
そう、最初の頃までは。
異変は、決まって丑三つ時、私がヘッドフォンを外し、深い静寂が訪れた瞬間に起こった。
二階の、使っていない部屋の方からだ。
ぎ、と軋む音がする。
最初は、古い木造家屋にありがちな、気温の変化で木材が伸縮する音だろうと高を括っていた。
家鳴り、と云うやつだ。
だが、その音は、夜毎にその輪郭をはっきりさせていった。
ぎしり、みしり。
それは、単なる物理現象としての軋む音ではなかった。明確な意思と、そして、重さがあった。
誰かが、床を踏みしめている音だ。
それも、片足を引き摺るように、ゆっくりと、一定の間隔を置いて、部屋の隅から隅へと移動している。
ぎしり……みしり……。
その音は、私の鼓膜を通り越し、直接、頭蓋の内に響いた。
眠っているのか起きているのか判然としない意識の狭間で、私はその音の主を想像する。
どんな顔をした、どんな体躯の、何者なのか。いや、そもそも、それは本当に者なのか。
ある夜、私は耐え切れずに、録音機材を手に二階へと上がった。
音の正体を白日の下に晒してやろうと云う、半ば自暴自棄的な試みであった。
しんと静まり返った部屋の中央に高性能マイクを設置し、私は階下で息を潜めた。
案の定、暫くすると例の音が始まった。
ぎしり……みしり……。
私は録音を続けながら、ヘッドフォンでその音を聴いた。
すると、どうだ。マイクが拾った音は、私が普段聴いている音とは、まるで異質であった。
そこには、床の軋む音と共に、微かな、しかし聞き逃しようのない、別の音が混じっていたのだ。
ひゅう、ひゅう、と云う、乾いた息遣い。
そして時折、く、と喉を鳴らす、苦悶のような音。
それは、まるで、死に瀕した何者かが、最後の力を振り絞って部屋を徘徊しているかのようであった。
私は、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、慌ててヘッドフォンを外した。
翌日、私は殆ど無意識のうちに、旧知の男の元を訪れていた。
男は大学で建築史、特に、古民家の構造力学なぞと云う、風変わりな分野を専門にしている男であった。名を、木島と云う。
書斎と云うよりは、最早、木材と図面の倉庫と化した部屋で、私の憔悴しきった顔と、持参した録音データとを交互に見比べた木島は、やがて、呆れたようにこう言った。
「君ともあろう者が、物の怪にでも取り憑かれたような顔をするな。これは、幽霊の仕業などではない。断じてね」
「だが、この音は……」
「音、か。君は音の専門家だが、その実、音の本質をまるで理解していないようだ」
木島は、傍らの棚から、歪な形をした木材の切れ端を取り上げた。
「いいかい。木は生きている。伐採され、建材とされた後も、呼吸を続ける。湿気を吸い、吐き出し、気温によって伸び、縮む。特に、君が住んでいるような谷戸の家は、湿度の変化が激しい。木材は、昼夜、絶えず悲鳴を上げているようなものだ。それが家鳴りの正体だよ」
「そんなことは知っている。だが、このリズムと、この息遣いはどう説明する」
「それこそが、君の『呪い』だ」
木島は、私の目を真っ直ぐに見据えた。
「君の耳は過敏だ。そして、君の脳は、無秩序な音の中に、意味のあるパターン、即ち『リズム』を見出そうとする。これを音響的パレイドリアとでも呼ぶべきか。君は、家が発するランダムな軋みを、己の脳内で『足音』として意味付けし、編集してしまっているのだ。そして、一度そう認識してしまえば、脳はますますそのパターンを強化しようとする。息遣いなぞ、その最たるものだ。それは、君自身の緊張した呼吸音か、或いは、木材の隙間を風が通り抜ける音を、君の脳が『それらしく』解釈したに過ぎん」
木島の理路整然とした説明は、しかし、私の恐怖を完全には拭い去れなかった。
「では、この家が、何かを記憶しているとでも云うのか」
「記憶、か。面白いことを言う」
木島は、にやり、と笑った。
「記憶と云うよりは、癖、或いは、歪みと云うべきだろうな。家と云うものは、そこに住まう人間の生活に合わせて、物理的に変形してゆく。毎日同じ場所を歩けば床は撓み、同じ柱に寄りかかれば柱は傾ぐ。それは、云わば、家が人間の生活様式を学習し、その身体に刻み込む過程だ。もし、君の家の前の住人が、永い間、病か何かで、あの部屋を夜毎に同じように徘徊していたとしたら? その反復運動によって生じた家全体の微細な歪みが、特定の湿度、特定の気温になった時、まるで蓄音機が音を再生するように、嘗ての軋みのリズムを再現している……そう考えることは、果たして非科学的かね?」
――家が刻んだ、人間の癖。
その言葉に、私は頭を殴り付けられるような衝撃を受けた。
私を脅かしていたのは、幽霊でも物の怪でもない。この家に嘗て住んでいた、名も知らぬ誰かの、絶望か、苦痛か、或いは諦念に満ちた、日々の繰り返しの痕跡そのものだったのだ。
その夜、私は、もう二階へは上がらなかった。
階下の仕事部屋で、じっと耳を澄ませる。
やがて、始まった。
ぎしり……みしり……。
だが、その音は、もう私を脅かす怪異の足音ではなかった。
それは、この家が記憶している、遠い誰かの物語。
壁が、柱が、床が、私に語り掛けてくる、声なき声。
私は、ヘッドフォンを装着すると、仕事に戻った。
家鳴りは、続いている。だが、もう気にはならなかった。
それは、この静寂に満ちた家で、私と共に在る、唯一の隣人の息遣いなのだと、そう思うことにしたからである。
そのせいなのかは定かでないが、私はいつになく仕事に没頭することができた。
山場に差し掛かった頃、部屋のドアが開け放しになっているのがふと気にかかった。
顔を向ける。
そこには、床を這う手足の捻じ曲がった男の姿があった。
男が体を動かす度に床の軋む音がする。
ぎしり……みしり……。
ああ、家鳴りだ。
構うことはない。これは、単なる家の歪みなのだから。
手足の捻じ曲がった男は喉を鳴らし、床を這いずりながらこちらに近付いてくる。
私は、気にせず仕事机に向き直った。
ぎしり、みしり。




