表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

なんでも欲しがる妹に「婚約者を交換しましょう?」と言われ吸血鬼と噂される変わり者の公爵に嫁ぎましたが、完全に棚ぼたでした。

作者: 月ノ水
掲載日:2026/05/26

「ねぇ、リリカお姉様。ライオス様とヴィルガー様を交換してくださらない?」


「──は?」


そう言って、妹は笑った。まるで「そのリボンかわいいわね、貸して?」とでも言うみたいな気軽さである。


家族揃っての夕食の席。

家庭教師の指導が長引き、遅れてやってきた私を待つことなく当たり前に食事は始まっていた。

ダイニングの左側にはジンゼル公爵である父と、それから三つ歳下の妹ミオンが仲良く夕食に舌鼓を打っている。


私はそれを尻目に少し離れた右側の自分の席へ腰掛け、家庭教師から教わった内容を頭の中で反芻しながら黙々と食事を進めた。


そしてデザートが運ばれて来たタイミングで、ミオンは言ったのである。婚約者を交換してほしい、と。


「次のパーティーで婚約発表がありますでしょう?でもわたくし、やっぱりヴィルガー様じゃなくてライオス様の方がいいなって思ったんです!」


ふわふわの桃色の髪を揺らしながら、ミオンは無邪気に笑った。


次のパーティー。私は皇太子であるライオス・エイデン殿下と、そしてミオンはヴィルガー公爵家現当主であるギルバート・ヴィルガー公爵と婚約を結ぶ。

これはずっと前に決まっていたことだった。


「な、何言って……?」


はくり、と喉が動く。なにを、何を言っているのだろう。婚約者を交換……?真面目に言っているのだとしたら、正気じゃない。

信じられない気持ちで私はミオンを見つめた。


「いい考えだと思いませんか?なんの取り柄もないお姉様よりわたくしの方が皇太子妃に向いていると思うの!」


まるで本気で名案だと思っているかのような声色でミオンはペラペラと語る。それから「ね?」と父に同意を求めた。

父はミオンにとびきり甘くて、私は父がミオンのお願いを断っているところをみたことがない。だから今回もすぐに頷いてもらえると思ったのだろう。


「……ミオン、それは」


しかし流石の父も困ったように言葉を濁す。当然だ。婚約は家同士の問題であり、子供の気まぐれで変えられるようなものではない。

少しだけ安心しかけた、その時だった。


「でも、もうライオス様にはお話していますわ!」


「……え?」


漏れ出た声は誰のものだったのだろう。その場の空気が急速に温度を消した。


ライオス様に話した?何を?“婚約者を交換する”ことを……?


わからないことばかりが頭に浮かんでぐるぐると嫌な方へ向かっていく。


しかしミオンはそんなことを気にも止めず嬉しそうに頬へ手を当てる。


「ライオス様ったら『君の方が皇太子妃に相応しい』って!」


「きゃー!」とはしゃぐミオンの姿は、何か別世界の生き物に見えた。

頭の中が、ぐらりと揺れる。なんの根拠もないが、私は心のどこかでライオス様は、私を選んでくださっているのだと思っていたのだ。愛はなくても、少なくとも信頼はあるのだと。


「リリカ、お前は残りなさい」


「はい……」


背後で扉が閉まる音がする。部屋の中には私と父のニ人だけが取り残された。


「リリカ」


父が低い声で私を呼んだ。


「お前がもっと殿下を繋ぎ止めておけば、こんなことにはならなかった」


「え……」


「妃教育も満足にこなせん。愛想もない。殿下がお前に飽きられるのも当然だ」


「申し訳、ございません……」


気づけば、口から勝手に謝罪の言葉が出ていた。反論しても無駄だと知っているから。黙って嵐が過ぎるのを待つ方が楽だと、もうずっと前から知っているから。


「……もう良い。下がれ。明日、エイデンとヴィルガーに婚約者入れ替えの打診を送る。その結果次第では覚悟しておくことだな」


その言葉を最後に、私は部屋へ戻ることを許された。私はメイドの静止も聞かずに自室へ飛び込んで鍵をかけ、ベッドに飛び乗り枕へ顔を埋める。


「……なんで」


私はジンゼル公爵家の嫡子として生まれ、今日まで真面目に努力してきたはずだった。

皇太子妃になるため、そしてジンゼルの家紋に泥を塗らないため、家庭教師の厳しい授業も、辛い花嫁修行も必死にこなして来た。


「どうして私ばっかり……っ」


いつもそうだ。割を食うのは、父に甘やかされて何もしないミオンより、必死に努力して来た私の方だった。


『わたしもおねえさまと同じものがいいわ!』


それがミオンの口癖だった。

私の後をぴったりと付いてまわり、私のやることなすことすべてに興味を持って同じことをしたがり、同じものを欲しがる。

ミオンは“私から奪う”という行為自体に意味を見出した悪魔だった。

自分がそれを気に入っていようがいまいが関係ない。ミオンは私が欲しがったものを横から攫い、見せびらかすことで優越感を感じていたのだ。

「かわいい妹の頼みだろう」?

冗談を言わないでくれ。貴方(親)にとっては末っ子の可愛らしいおねだりかもしれないが、私にとってはたまったものではない。

目につくもの全てを欲しがり、父を味方につけて私から全てを取り上げる生き物を「かわいい妹」だ、と愛せるほど、私は博愛主義じゃなかった。


だから私は心に蓋をした。

欲しいものが手に入らないなら、最初から欲しがらなければいい話である。

何も愛さないように、何にも関心を抱かないように。

そうしていれば少しは心が楽だった。


でも、まさか。


「まさか、婚約者まで“欲しい”なんてね……」


こればかりは流石に予想外だった。

だって婚約者はものじゃない。ひとりの人間だ。そして、この先の人生を共に歩んでいく相手でもある。それを“私(リリカお姉様)のものだからそっちがいい”だなんて馬鹿げた理由で選び変えるなんて、やっぱり正気とは思えなかった。


「なんかもう、どうだっていいや……」


ベッドに寝転び、目を閉じる。瞼の裏に見えたのが星空だったら、私はいくらか幸せになれただろうか。


その日、私は初めて宿題をやらず眠りについたのだった。




◼️




パーティーの日は、あっという間にやって来た。


あれから“婚約者交換”という前代未聞の申し出は、なぜかエイデン王家にもヴィルガー公爵家にも受け入れられ、私は父から「ミオンに感謝しろ」と意味のわからない叱責を受けた。……まぁ「覚悟しておけ」と言われたわりに勘当されなかっただけマシだと思うことにする。


「……」


私は壁際でシャンパンを傾けながら、会場をぼんやり眺める。王城の大広間は、眩しいほどに華やかだった。磨き上げられた大理石の床。天井を彩る巨大なシャンデリア。甘い花の香りと、貴族たちの笑い声。

本来なら、私はあの中央に立っているはずだった。

自然と視線が向かうのは、ホール奥の大扉。このパーティーの主役たちが入場するための場所だ。……そこから現れるのは、もう私ではない。

私は皇太子妃候補の座を失い、代わりにヴィルガー公爵家へ嫁ぐことになった。もっとも、その婚約者であるギルバート・ヴィルガー本人は「急用ができた」とやらで欠席しているのだけれど。


「ほんと、どんな人なんだろ……」


思わず小さく呟く。ヴィルガー公爵についての噂は、嫌というほど耳にしていた。公爵という位にあるにも関わらず、社交界には滅多に姿を現さない変人。吸血鬼だとか、人を殺しただとか、領地に呪いを撒いただとか、彼の周りにまでいつも不穏な噂が飛び交っていた。


「きっとロクな男じゃないんだわ」


それでもジンゼルにずっといるより噂の変人公爵殿と結婚した方がまだマシだと思ってしまう私は、いよいよ末期だろうか。

そんなことを考えてしまう自分に苦笑をこぼした、その時だった。

バンッ!と大扉が勢いよく開かれる。


「ライオス・エイデン皇太子殿下と、ミオン・ジンゼル公爵令嬢のご到着です!」


会場がどっと沸いた。

鮮やかな新緑色の髪に、スッと高い背丈。タキシードをスマートに着こなすのはライオス・エイデン殿下だ。そして彼の隣には甘いピンク色のドレスを纏い柔和に微笑むミオンの姿がある。二人は歓迎の拍手に包まれながらホールの中央へと足を進めた。

綺麗、と。素直にそう思う。まるで最初から、あの二人こそが正しかったみたいだ。


私はなるべく人々の目につかないよう身を縮め、彼らのそばへ駆け寄る。けれど周囲の声は嫌でも耳に入った。


「婚約者が入れ替わったのでしょう?」

「ジンゼルは何を考えているのかしら……」

「皇太子殿下もよく許されたものだ」


好奇と嘲笑の混ざった視線が、私へ突き刺さる。

しかし恥ずかしさで小さくなった私とは対照的に、ホールの中央を陣取ったライオス様とミオンは揃って会場中へ目配せをした。

 

「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます!」


会場の中央で、ライオス様が晴れやかに笑って言った。


「この場をもちまして、私はミオン・ジンゼルとの婚約を正式に発表いたします!」


再び拍手が起こる。ミオンは頬を染め、幸せそうにライオス様へ寄り添った。……その姿を見ていると、胸の奥がじわりと痛んだ。


胸の痛みを見ないふりをして、私は前へ出た。


「ライオス・エイデン皇太子殿下と妹、ミオン・ジンゼルの婚約をわたくしごとのように嬉しく思い、ご祝福申し上げます。また並びに私事ではございますが、わたくしリリカ・ジンゼルとギルバート・ヴィルガーの婚約をここに宣言させていただき、揃ってのご挨拶が叶わなかったご無礼をギルバート・ヴィルガーに変わって謝罪いたします」


言い切って、ゆっくりと、けれど深く深く頭を下げる。


なんか私、謝ってばっかだな。

私自身はなにも悪いことをしていないはずなのに、ずっと謝罪を口にしてばかりだ。慣れているとはいえ、こうも続くと辟易する。


そんなことを考えながら顔を上げると、再び拍手が鳴る。けれど、その音はどこか遠く聞こえた。


ようやく挨拶が終わり、私は逃げるように壁際へ戻る。あぁ、疲れた……なにか甘いものでも食べて頭を休めようか。そう思って、立食コーナーへ向かおうとした時だった。


「リリカお姉様」


聞き慣れた声に、肩が強張る。

振り返れば、そこにはミオンが立っていた。


「おひとりで寂しくありませんこと?」


「……別に」


「まぁ。でも仕方ありませんわよねぇ。婚約者様、いらしてませんもの」


ミオンはくすくすと笑った。いつもと同じ、私を心底馬鹿にしたときの顔だ。


「やっぱりライオス様は素敵ですわ。お姉様にはもったいないくらい」


「……そう」


もう言い返す気力すらなかった。静かに目を伏せて、彼女をやり過ごそうとしたその時、ミオンの後ろからライオス様がやって来た。


「ミオン、急にいなくなるから探したぞ── ……リリカ」


彼は私を見ると一瞬だけ、気まずそうな顔をした。けれど次の瞬間には、穏やかな笑みをたたえる。


「今回の件は急だったが……まぁ、お互い良い結果になったんじゃないか?」


「良い、結果……?」


「君も妃教育が大変そうだったしな。これで楽になっただろう?」


彼の言葉に悪気はないのだろう。だからこそ、ひどく苦しかった。

確かに妃教育は大変だった。でもそれを頑張れたのは、ひとえにライオス様のためだったのだ。

彼の隣で、いつか笑って並び立つためだった。


「……えぇ、そうですね」


私はとっさにライオス様から顔を背けた。彼の隣から、ミオンの笑い声が聞こえる。

ミオンはきっと、今とても満足そうな顔をしているのだろう。優越感に満ちた歪な顔で笑っているに違いない。


あぁ、嫌だ。早く嵐が去ればいいのに。


俯いてきつく瞑った目から、涙が一粒、こぼれ落ちた。


結局、その日のうちにヴィルガー公爵が現れることはついぞなかった。




◼️





「もうすぐヴィルガー領に入られますよ」


タタン、タタン。

馬車の揺れと、規則的な蹄の音。御者の声に、私は浅い眠りからゆっくり目を開けた。


少し伸びをして、窓の外を見る。

そこに広がっていたのは、どこまでも続く荒野だった。空は澄み切った青なのに、大地は赤ッ茶けて乾ききっている。草木も少なく、風に土埃が舞っていた。


「……すごい景色」


思わず呟いてから、私はそっと視線を落とす。

王都とはまるで違う。活気も、華やかさもない。まるで世界から切り離された土地みたいだった。

 

あの日。

婚約披露のパーティーを終えて屋敷へ戻ると、私の部屋ではメイドたちが慌ただしく荷造りをしていた。


『な、何をしているの……!?』


慌てて止めに入った私へ、父は煩わしそうに眉をひそめた。


『婚約が決まったんだ。いつまでも家に置いておく必要はない』


父はまるで厄介払いでもするみたいに淡々として言った。……まぁ、実際そうだったのだろう。もともと、この家に私の居場所なんてなかったのだから。

 

それから私は、私はヴィルガー公爵邸で花嫁見習いとしてお世話になることになった。

「ヴィルガー様は変わったお方とお聞きします。お姉様がお辛い思いをしないか心配ですわ」と1ミリも思っていなさそうな餞別の言葉をくれたミオンの顔が記憶に新しい。


実際、社交界で囁かれるヴィルガー公爵の噂はどれもまともではなかった。


曰く、社交界に姿を見せないのは吸血鬼だから。曰く、領地が荒れているのはヴィルガー家が呪われているから。曰く、使用人が少ないのは公爵に殺されているから。


馬鹿げた噂ばかりだ。……なのに、この荒れ果てた景色を見ていると少しだけ現実味を帯びてくるから困る。

 

「ヴィルガー公爵邸に到着しました」


馬車がゆっくり止まる。私は荷物を受け取り、御者へ頭を下げた。


「ありがとう。ここからは一人で大丈夫です」


去っていく馬車を見送り、私はひとつ深呼吸をする。そして、目の前の屋敷を見上げた。


「……うわぁ」


実家から持参したボストンバッグをひとつだけ抱え、私は目の前のお屋敷を仰ぎ見た。


白い壁はところどころひび割れ、蔦がびっしりと絡みついている。庭の草木は枯れ放題で、門も少し傾いていた。まるで幽霊屋敷である。


「ほ、本当に吸血鬼が住んでたりしないわよね……?」


嫌な想像が頭をよぎる。けれど、今さら逃げ帰る場所もない。私は意を決して、重たい扉を叩いた。


「ご、ごめんください……!」


コンコン、とノックの音が2回、シーンと静まり返った公爵邸に響き渡る。

しかし返事はない。もう一度叩いてみても、やはり静寂が返ってくるだけだった。


「……留守?」


いや、そんなはずはない。今日私が来ることは伝わっているはずだ。

恐る恐る扉へ手をかけると、年季の入ったそれはギィ……と鈍い音を立てた。


「お、お邪魔します……」


そっと足を踏み入れる。屋敷の中は薄暗かった。だが外観とは違い、内装は驚くほど豪奢だった。


薄暗い室内の床一面に真っ赤なカーペットが敷かれており、天井には大きなシャンデリア。左右に通路があって、それが奥へ奥へと続いている。


「すごい……」


思わず周囲を見回していると、正面階段の先に大きな絵画が飾られているのが目に入った。


湖のほとりに立つ天使と、黒い翼を持つ悪魔。


私は何となくその絵が気になってそばまで寄ってみることにした。粗雑なタッチで描かれた油絵。上手いけど、どこか不気味で見ていると落ち着かない気持ちになる。なんというか……


「悪趣味だわ……」


額縁を撫でてぽつりと呟いた、その瞬間だった。


「オレの屋敷を悪趣味呼ばわりとは、随分な客人だな」


「ッ!?」


突然、背後から声が降ってくる。声と同時に、生ぬるい鉄臭さが鼻を掠めた。驚いてバッと振り返ったそこには、口からダラダラ血を垂らして胸元を真っ赤に染めた大男が立っていた。


「きゅ、吸血鬼……!?」


「は?──おい待てッ!!」


病人のように白い肌、腰までありそうな黄金の長い髪、鋭く尖った2本の牙。

柘榴みたいに真っ赤な瞳を見た瞬間、私はなんだか意識が遠くなるのを感じた。


噂は本当だったんだ……


なぜだか焦ったような男の声を聞いたのを最後に、私は遠のく意識をそのまま手放した。




◼️





夢を見ていた。遠い昔の夢。私が幼い頃に亡くなってしまったお母様の夢だ。


『いい子ね、リリカ』


夢の中のお母様の手が私の頭を撫でてくれる。

お母様。優しくて、暖かくて、大好きだった。あぁお母様、どうして私をおいて死んでしまったの──


「お母様じゃねぇよ」


その声で、ハッと私の意識は覚醒した。

見開いた目の先に見えるのは知らない天井。私はどうやら眠ってしまっていたらしい。やけに肌触りのいいシーツと寝心地のいい枕だ。


「やっとお目覚めか」


声のした方へ顔を向ける。

そこには、椅子へだらしなく腰掛けた男がいた。長い金髪に、恐ろしいほどに整った顔立ち。気怠げに頬杖をついた姿は絵画みたいに綺麗なのに、口から出る言葉は随分と雑だった。


「随分アホっぽい寝顔してたぞ」


「あ、あなたは……」


思わず身を起こしかけて、私は目を瞬く。

あれ、この人の瞳の色って……


「みどり……?」


「は?」


「い、いえ……なんでもありません」


意識を失う直前に見た瞳は、もっと赤かった気がした。それに牙も、もっと鋭かったような。

けれど今目の前にいる彼は、ただ顔のいい不機嫌な男にしか見えない。……見間違いだろうか。変な噂と馬車の長旅の疲れが見せた幻覚だったのかもしれない。


「それより……あなたが運んでくださったんですか?」


「物音がしたから見に行ったら、お前が勝手に倒れてただけだ」


男は面倒そうに肩を竦めた。


「放っとくのも後味悪ぃし、部屋まで運んだ。以上」


「あ、ありがとうございます……」


慌てて頭を下げる。


「ええと、私はリリカ・ジンゼルです。あなたは……」


「ギルバート・ヴィルガー」


ぶっきらぼうに告げられた名前に、私は息を呑んだ。


「ヴィルガー……公爵様」


「まぁ、一応な」


じゃあ、この人が私の婚約者、か……そう思った瞬間、


「先に言っとくけど、オレは結婚する気ねぇから」


「……え?」


あまりにもきっぱりした声に、私は思考が止まった。ギルバート様はそんな私など気にも留めず、つらつらと続ける。


「仕事が忙しいし、嫁に構う気もない。そもそも結婚願望なんざ最初からねぇ。この婚約だって、先代のジジイがうるせぇから了承しただけだ」


「……」


「だからお前も、適当な頃合いで出てけよ」


ギルバート様は大きなあくびをしながら言った。

──出てけよ。

さらりと言われたその一言が、胸へ突き刺さる。


「じゃ、オレは仕事戻るから。なんかあったらハルに言え」


そう言って立ち上がったギルバート様を、私は咄嗟に引き止めた。


「あの……!」


掴んだ袖越しに伝わる体温。しかし掴んでから、どうしようと思う。でも言わなくちゃ。ここを追い出されたら、私には帰る場所がないって。だから使用人でもなんでもいいから私をここにいさせてくださいって。


本当はそう言いたかったのに。


「なんだよ」


緑色の瞳に見下ろされて、喉がきゅっと詰まる。


「……いえ」


結局、私は手を離してしまった。

ギルバート様は怪訝そうに眉を寄せたが、それ以上は何も言わず部屋を出て行く。


扉が閉まる音がやけに大きく響いた。私はそのままベッドの上で膝を抱える。


追い出されたら、私はどうなるんだろう。

ジンゼルにはもう居場所がない。ヴィルガー家からも追い出されてしまったら私は──


「……っ」


想像しただけで苦しくなって、ぎゅっとシーツを握る。その時だった。


コンコン、と扉が叩かれる。


「失礼いたします、リリカ様」


入ってきたのは、一人の女性だった。

スラリと高い背丈。明るい茶色の髪を高い位置で結び、清潔感のあるメイド服を綺麗に着こなしている。


彼女は柔らかく微笑むと、ぺこりと頭を下げた。


「私はヴィルガー家に勤めております唯一の使用人で、ハルと申します。旦那様から、リリカ様のお世話を任されました」


「リリカ・ジンゼルです……よろしくお願いします」


ぎこちなく頭を下げ返すと、ハルさんはにっこりと笑う。


「まずはお部屋をご案内いたしますね。お荷物も既に運んでありますよ」


案内された隣室は、想像していたよりずっと綺麗だった。大きな窓に、白いレースのカーテン。丁寧に整えられたベッドに、小さな化粧台。花瓶には、赤い薔薇まで飾られている。


「……すごい」


思わず呟くと、ハルさんは嬉しそうに笑った。


「気に入っていただけましたか?」


「はい……でも、こんな立派なお部屋、私にはもったいないです。きっとお世話になるのだって短い間ですし……」


「短い間?」


ハルさんは私の言葉に首を傾げた。

あれ、もしかしてギルバート様からお話が行ってないのだろうか。

私はさっきの出来事をかいつまんでハルさんに説明した。


「まぁ、旦那様がそのようなことを」


私が話し終えると、ハルさんは驚いた表情で目をぱちくりさせた。


「ですが、旦那様はなんだかんだお優しい方です。なので本気でリリカ様を追い出そうとしているわけではないと思いますよ」


「え……?」


「倒れていたリリカ様をわざわざご自分でここまで運んで、リリカ様のお部屋までご用意なさったんです。興味のない相手なら、私に任せて終わりですから」


思いもよらない言葉に、私は目を瞬かせた。


「だからそんなに悲しそうなお顔をなさらないでください。少なくとも私は、リリカ様にここにいてほしいと思っています」


俯く私の手をハルさんは両手で包み込んだ。温かい。


「リリカ様は、ヴィルガー家の奥様になるお方ですから」


「奥様、ですか……」


戸惑う私に、ハルさんはふわりと笑う。


「さぁ、まずはお食事にしましょう!」


ハルさんはぱっと明るい声を出した。

「お腹が空いてはなんとやら、ですからね」と優しく笑う彼女に、私は戸惑いながらも頷きを返す。


……ヴィルガー家での生活は、思っていたより悪くないのかもしれなかった。





◼️





「……申し訳ございません……」


「い、いえ!と、とっても美味しそうです!」


ガックリと肩を落としたハルさんを私は慌てて励ました。

テーブルについた私の前には、ハルさんが用意してくれた綺麗な食器が並べられている。

銀細工で作られた綺麗なお皿。しかしその上に乗っているのは、なんというか、炭……である。

つまり、焼け野原であった。真っ黒焦げになった食材たちの悲鳴が聞こえる気がする。


私は震える手でフォークを持ち、メインディッシュの皿に乗った魚?だったものをそっとつついた。

ガン、と硬い音。明らかに食べ物から鳴る音ではない。魚というかもう石であった。


「リリカ様、どうかご無理をなさらないでください。すぐに作り直してまいります」


ハルさんは恥ずかしそうに皿を下げた。

ヴィルガー家には、噂通り最低限の使用人しかいない。つまり、この炭……ごほん、ムニエルもハルさんが作ってくれたもので。

ハルさんはどうやら、料理が苦手なようだった。


可哀想に肩を落とした彼女に、私は少し迷ってから声をかける。

迷惑かな。迷惑かもしれなくても、でも。


「あの、よければ一緒に作りませんか?」


「そんな!奥様になる方にそのようなこと……」


ハルさんは焦った様子で首を振った。

しかし自分の手に持ったムニエルを見て、おずおずと頷く。


「ほ、ほんとによろしいのですか……?」


「もちろんです!」


その様子が可愛らしくて、私は思わず笑顔になる。


連れ立って入ったヴィルガー家のキッチンは、予想通りというかなんというか、かなり殺風景だった。

広さはある。し、調理器具も一通り揃っている。しかし全体的に生活感が薄いのだ。

壁際に並ぶ鍋はぴかぴかのままほとんど使用された形跡がなく、棚も半分以上空っぽ。調味料に至っては最低限のものしか用意されてなかった。


「……あまり料理はされないんですね」


「旦那様は基本的に決まったものしか召し上がらないので……」


ハルさんは申し訳なさそうに肩を竦めた。


「私も頑張ってはいるのですが、なかなか上達せず……」


ちら、と視線が先ほどの炭……もといムニエルへ向く。私は慌てて励ましの言葉を探した。


「で、でも!お魚の形はちゃんと残っていましたよね!」


「リリカ様、それ慰めになってません……」


「あっ」


しゅん、と見えない耳まで垂れそうな勢いで落ち込むハルさんに、私は思わず笑ってしまった。最初は清廉で猫みたいな人だと思っていたけれど、話してみるとハルさんは犬っぽい人懐っこさがある。


「まずは簡単なものからチャレンジしてみましょう」


「簡単なもの……」


「ポトフとか」


「ポトフ……!」


何故かハルさんは決死の表情になった。

そんなに難しいだろうか、ポトフ。

私は少し首を傾げつつ、棚から鍋を取り出した。


「野菜はありますか?」


「はい!」


ハルさんが木箱を勢いよく調理机に乗せる。中にはじゃがいも、玉ねぎ、にんじん、それからしなびかけた葉野菜が所狭しと入っていた。


「わぁ、充分です。それではまず野菜を切りましょう」


「はい!」


元気よく返事をしたハルさんは、にんじんを手に取りにこにこと包丁を握った。そして。


ドンッ!!


「きゃあ!?」


凄まじい轟音と振動のあと、まな板とにんじんは見事、真っ二つになった。


「…………」


「…………」


私とハルさんは揃って、二つに分断されたまな板を見つめる。もともと一つだったはずのものはプシュゥ、と煙をあげていた。


「え、えぇと……力がお強いんですね……?」


「昔から加減が苦手で……」


泣きそうな顔で言われ、私は慌ててフォローを入れる。


「だ、大丈夫です!まな板は替えがありますから!」


たぶん。いや、あると信じたい。


「なるほど。ヤケにまな板の購入届が多い思ったら、原因はこれか」


「旦那様!?」


低い声に振り返る。いつの間に来ていたのか、キッチンの入口にはギルバート様が立っていた。彼は腕を組み、呆れた顔でこちらを見ている。


「ち、違うんです! これは事故で!」


「毎回事故だろ」


「うぅ……」


ハルさんが撃沈した。ギルバート様はそんな彼女を鼻で笑ってから、ふと私を見る。


「お前、何してんだ」


「何って……料理を」


「見りゃわかる」


低く返されて、私はびくりと肩を揺らした。……しまった。勝手なことをするな、と怒られるかもしれない。ジンゼル家では、“余計なことをするな”と何度も言われてきたから。


思わず視線を落とした私に、ギルバート様は怪訝そうに眉を寄せた。


「……じゃなくて」


「は、はい」


「なんでお前がやってんだって聞いてんだよ」


怒っている、というより純粋に不思議そうな声音だった。私は少しだけ目を瞬かせてから、おずおずと口を開く。


「お、お腹が空いたので……」


「……」

 私の返答に、ギルバート様が変な顔をした。そして数秒後、ぶはっと吹き出す。


「っはははは!!」


「えっ」


豪快な笑い声がキッチンに響いた。私はぽかんとしてしまう。


「お前、ほんと変な女だな」


「そ、そうでしょうか?」


「あぁ。普通の令嬢は皿に乗った炭出されたら泣くかキレる」


「で、でもハルさん頑張ってくださったので……」


「だからって一緒に作るか?」


ギルバート様はまだ笑って言った。……怒らないんだ。私はいつのまにか強張ってしまっていた肩からほっと力を抜いて、目尻に涙まで浮かべて楽しそうにケラケラお腹を抱えているギルバート様におずおずと問いかけた。


「あの、ギルバート様も召し上がりますか?」


「あ?」


「今から作るので簡単なものになっちゃうんですけど……」


すると彼は一瞬だけ目を丸くした。それから私と食材たちを交互に見比べて、まぁ、と言う。


「……まぁ、腹は減ってる」


「では三人分ですね」


そう言って笑えば、ギルバート様は何故か居心地悪そうに視線を逸らした。


「ハル」


「は、はい!」


「まな板割るなよ」


「努力します……!」


真剣な顔で頷くハルさんに、私はまた吹き出してしまった。ギルバート様も笑って、じゃ、とキッチンをあとにする。


綺麗な金髪が靡く背中を見送って、私は包丁を握り直した。……料理をするのに、こんなに楽しい気持ちになったのは初めてかもしれない。


「おいしいポトフを作りましょうね」


「はい!」


誰かのために何かを作るのは、たぶん世界で一番温かいことだった。




◼️




「おいしい〜!」


ハルさんはポトフを一口食べると、幸せそうな表情でほっぺを抑えた。

先ほど炭を生み出していた人物とは思えないほど嬉しそうで、こちらまでなんだか嬉しくなってくる。


「よ、よかったです……!ちゃんと食べられるものになって……!」


「ハルさんもちゃんと切るのはお上手でしたよ」


「ほ、本当ですか!?」


「はい。途中からまな板も無事でしたし」


「リリカ様ぁ!」


感極まったように私の手を握るハルさん。そんな彼女を見ていると、こちらまで楽しくなってくる。ジンゼル家では、一度だってこんな食事をしたことがなかった。マナーを間違えれば叱責され、少しでも失敗すれば責められる。笑い声が聞こえても、それは大抵、私を馬鹿にするためのものだった。

だからだろうか……こうして誰かと同じ料理を囲んで、「美味しいね」と笑い合えるだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。


「それにしても、リリカ様は本当にお料理がお上手ですね」


「そんなことありません。昔、少しだけ厨房の方に教えていただいただけの、付け焼き刃ですから」


公爵令嬢として、皇太子の妃として育てられた私は、本来なら厨房へ立ち入ることすら好ましくないとされていた。けれど私は、料理人たちが誰かのために食事を作る姿を見るのが好きだった。焼き立てのパンの匂い、鍋から立ち上る湯気、「美味しい」と言われて嬉しそうに笑う料理人たち。そこには、ジンゼル家の食卓にはなかった温かさがあったから。


「こっそり教わっていたので、見つかるとよく怒られましたけど」


「えぇっ!?」


ハルさんが目を丸くする。


「“令嬢が厨房に立つなんてはしたない!”って」


苦笑しながら答えると、ハルさんはむむ……と眉を寄せた。


「でも、料理って素敵です。こうして皆で美味しいものを食べると幸せな気持ちになりますし」


「……そうですね」


私が頷くと、ハルさんは嬉しそうに笑った。


「それに偏食の旦那様でもこーんなに美味しそうに食べられているんですから、やっぱりリリカ様の料理の腕は素晴らしいです!」


「おい余計なこと言うな」


その言葉に、夢中でポトフを食べていたギルバート様が顔をしかめる。


「偏食なんですか?」


「肉ばっか食べるんですよこの人」


「うるせぇ」


ハルさんに言い返す姿を見て、私は思わず小さく笑ってしまった。するとギルバート様がキッと私に鋭い眼光を向ける。しかし耳の端が赤くなっているのが見えて、私はさらにおかしくなってしまった。


「……なんだよ」


「い、いえ」


誰かとする食事がこんなに楽しいことを初めて知りました……なんて。そんなことを言ったら、ギルバート様はどんな顔をするだろう。そんなことを考えていれば、彼はなぜか居心地が悪そうに視線を逸らした。


「……チッ」


小さく舌打ちをして、乱暴にスプーンを置く。けれどその皿の中身は、もうほとんど空っぽだった。


「旦那様、おかわりもありますよ?」


「いらねぇ」


そう言いつつも、ギルバート様の視線はちらりと鍋へ向く。ハルさんはその様子を見て、ふふ、と楽しそうに笑った。


「ほんと、わかりやすいんですから」


「ハル、お前クビにされてぇのか?」


「このお屋敷、使用人は私しかいないので困るのは旦那様ですよ」


「……くそ」


ギルバート様は不機嫌そうに眉を寄せる。でもその声には、本気の怒気は含まれていなかった。きっとギルバート様もハルさんも、お互いのことを本気で大切に思っているのだろう。それがわかって、私はまた小さく微笑んだ。しかしギルバート様は、今度こそ本格的に気まずそうな顔をする。


「……笑うな」


「す、すみません」


「謝んな」


ぶっきらぼうに返される。そっぽを向いて寄越されたはずの言葉をどこか暖かく感じてしまうのはなぜだろう。


そしてバツの悪そうな顔をしたギルバート様は、誤魔化すように「まぁ、美味かっ……悪くなかった」と言って、空になったポトフの皿を残して席を立った。


「あ、旦那様……」


ハルさんが心配そうにその背中を見送る。


「最近はずっと執務室に籠りきりなんです。領地の問題が山積みみたいで……」


「領地の?」


「はい。土地が痩せているので作物の収穫量が安定しませんし、今年は特に干ばつの影響もありまして」


なるほど、と私は頷いた。確かにここへ来る途中に見た景色は酷かった。土は赤く乾き、畑も荒れていた。


「私はおいえのお仕事はサッパリなので、旦那様おひとりで公爵家の仕事を全てなさっていて……」


「……」


寂しそうに言うハルさんを前に、私は少し考え込む。王家へ嫁ぐ予定だった私は、幼い頃から妃教育を受けてきた。政治、経済、領地経営、外交、税制度……王妃として持っておくべき最低限の知識嫌になるほど叩き込まれている。それにライオス様の手伝いで書類仕事をすることも少なくなかった。


「あの」


「はい?」


「私、お手伝いできるかもしれません」


ハルさんがぱちりと目を瞬かせた。


「旦那様のお仕事のですか?」


「はい。妃教育で領地運営についても学んでいたので……」


正直、役に立つ保証はない。むしろ邪魔になる可能性の方が高いかもしれない……が、ここへ来てからの私は、食事をもらって、部屋を与えられて、優しくしてもらってばかりだ。私に何か出ることがあるなら、少しでも恩返しがしたかった。


私の言葉に、ハルさんは嬉しそうに微笑んだ。


「リリカ様ならきっと旦那様のお力になれるに違いありません!」


そう言われると、少しだけ胸がむず痒くなる。

お力になれる、か……その言葉を、私はずっと欲しかったのかもしれない。


「食べ終わったら、ギルバート様に話してみようと思います」


「はい!」


嬉しそうに笑ったハルさんに、私も微笑みを返す。少し冷めてしまったポトフは、それでも今までで食べたものの中で一番美味しかった。




◼️





コンコン、と執務室の扉を叩く。


「……誰だ」


「リリカです」


それからしばらくして、「入れ」と低い声が返ってくる。恐る恐る扉を開くと、部屋の中は紙の山だった。机の上にも床にも書類が積み重なっていて、その中心でギルバート様が片手で額を押さえている。


「うわぁ……」


「なんだその顔」


「い、いえ……思ったより大変そうだなと……」


「実際大変なんだよ」


疲れた声だった。私は書類の山を倒さないように注意して、そっと机へ近づく。一番近くにあった書類を手にとって一枚一枚に目を通した。


「これ、収穫量と税収の報告書ですよね?」


「……読めんのか?」


「はい」


ギルバート様が怪訝そうに眉を寄せる。


「女は数字が苦手だと思ってた」


「失礼ですね」


むっとして言い返すと、彼は少しだけ目を丸くした。あ、しまった……反射的に言い返してしまったけれど、こんな風に誰かへ反論したことなんて今までほとんどない。怒られるかもしれないと思い、慌てて口を閉ざす。

しかし、


「……ぷっ」


ギルバート様は何故か吹き出した。


「お前、案外気ぃ強ぇのな」


「えっ」


自覚はなかった。だって私は、ずっと耐えてばかりの人間だったから。怒られれば謝って、理不尽でも飲み込んで、波風を立てないように息を潜めて生きてきた。少しでも早く嵐が過ぎ去ることを願って、じっと静かに俯いていた。そんな私の、どこが強いのだろう。


「……あの、私、そんなつもりでは……」


「別に悪い意味じゃねぇよ」


ギルバート様は椅子の背にもたれながら、面倒くさそうに続ける。


「普通、オレみたいなの相手にしたらもっとビビんだろ。なのにお前はビビるどころか真っ向から向かって来やがる」


「そ、それは失礼なことを言われたので……」


「はっ、やっぱ変な女」


からかうように笑われ、私はむっと唇を尖らせた。でも、なんだか不思議なことに彼に笑われるのはちっとも嫌じゃなくて、私は内心ドギマギしてしまった。

変なふうに鳴った心臓を抑えるように息をついてから、私は手に持った書類をギルバート様の前に掲げる。


「……あの、お手伝いをしてもよろしいでしょうか」


おそるおそる尋ねる。ギルバート様は少しだけ私を見つめ、それから積み上がった書類の束をどさりと私の目の前へ置いた。


「逃げるなよ」


「はい!」


勢いよく頷くと、彼はまた少し笑った。


その日から、私はヴィルガー公爵の執務室へ通うようになった。





◼️





ヴィルガー家にやってきて、早くも1ヶ月が経った。最初こそ不気味に思えたこの屋敷にも、今では随分と慣れたものである。

朝はハルさんと一緒に簡単な朝食を作り、昼は執務室でギルバート様の仕事を手伝う。夜になると三人で食卓を囲み、時々ハルさんが炭を量産しては皆で頭を抱える。


──穏やかだった。


少なくとも、誰かの顔色を伺って、常に怯えて過ごしていたジンゼル家よりずっと。


「……これで最後です」


私は積み上げていた書類の最後の一枚へサインを入れ、ふぅと息を吐いた。

向かい側ではギルバート様が椅子へ深く腰掛けたままこちらを見ている。


「終わったか?」


「はい。ついでに東地区の収穫報告書も修正しておきました。数字が合っていなかったので」


「どれ?」


書類を受け取ったギルバート様は、目を通した瞬間ぴたりと動きを止めた。


「……これ、オレも気づかなかったんだけど」


「税率の欄が去年のままになっていたんです。たぶん王都から届いた時点ですでに間違っていたんだと思います」


「よく見つけたな」


感心したように呟かれて、私は少しだけ肩を竦める。


「妃教育で散々やらされましたから」


かつての日々を思い出し、私は遠い目をしてしまう。ライオス様との婚約がお釈迦になったときは無駄なことをしたと思っていたが、まさかこんな形で活きるとは思わなかった。


「……お前、ほんとになんで皇太子の婚約者クビになったんだ?」


「え?」


ギルバート様が不思議そうに眉を寄せる。


「気も回るし、仕事もできるし、飯も作れる。顔だって悪くねぇ」


「か、顔……!?」


「なんだその反応」


急に変なことを言われ、私は思わず両手で頬を押さえた。だって、ジンゼルではそんなこと一度も言われたことがない。みんなミオンを褒めるばかりで……というか、基本的に私は「地味」「華がない」「愛想が悪い」としか言われてこなかったので、私は驚いてギルバート様をまじまじ見つめた。


「お前、褒められ慣れてなさすぎだろ」


「……そもそも、そんなに褒められた人間ではありませんので」


ぽつりと零す。するとギルバート様は目を大きく開いて黙り込んでしまった。


「ギルバート様?」 


「いや」


彼は視線を逸らし、乱暴に万年筆を置いた。


「お前さ、もっと堂々としてろよな」


「堂々?」


「あぁ。少なくともオレはお前に助けられてる。ハルもそうだ。お前がヴィルガーに来たおかげで仕事も捗るし、毎日美味い飯も食える。だから、あー、なんだ……もっと『どうだ、すげーだろ』って顔してろ」


その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。お前がヴィルガーに来たおかげで……そんな風に言ってもらえるなんて思ってもみなかった。じわり、と目尻が熱くなる。私は慌てて下を向いた。


「……す、すみません」


「な、泣くなよ」


「ないてないです……」


絞り出した声は掠れていて、きっとギルバート様には私が泣いていることがバレていた。その証拠に、彼はさっきまで目を通していた書類そっちのけでハンカチを差し出してきたりなんだりとわたわたしている。


「あー!旦那様がリリカ様を泣かせてる!」


「泣かせてねぇよ!」


紅茶をトレイに乗せてやって来たハルさんは、私とギルバート様を見比べるとぷんすか怒ったように腰へ手を当てた。それから優しく私を抱きしめてくれる。


「旦那様、また素直じゃない言い方したんでしょう!」


「してねぇ!」


「絶対しました!旦那様、褒めるの下手くそですもん!」


「うるせぇな!大体なんでオレが怒られてんだよ!」


「リリカ様、誤解しないであげてくださいね。旦那様、顔は怖いですけど悪い人じゃないんです!」


「それフォローになってねぇだろ」


眉を下げて言うハルさんに、私は彼女の腕に抱かれたまま頷いた。


「まぁ、たしかに怖い顔はしてますね」


「お前なぁ……」


ギルバート様は深くため息を吐いて額を押さえた。その姿がおかしくて、私はつい吹き出してしまう。


「ふふっ……」


「あっ、今笑いましたね!」


「……笑ったな」


二人の視線が同時に向いて、私は慌てて口元を押さえた。


「す、すみません……」


「もう、なんで謝るんですか!リリカ様の笑顔はとーっても素敵なので、笑ってくださると私たちまで嬉しくなります!ね、旦那様?」


「あー……まぁ、そう、だな……」


ギルバート様は気まずそうに頭を掻きながら、ぼそりと呟く。


「……笑ってる方が、お前らしいしな」


「え……」


思わずギルバート様の顔を見つめる。新緑色の瞳はは、しまった、とでも言いたげに目を逸らした。


「だからその……暗い顔してるより、今みたいに笑ってる方がいいんじゃねーの」


ぶっきらぼうで、乱暴な物言い。けれどそれがどこまでも優しい思いを含んでいることくらい、もうわかっていた。胸の奥が、きゅうっと締め付けられる。


「……ずるいです」


ぽつりと零れた声に、ギルバート様が眉を寄せた。


「何がだよ」


「そんな風に優しくされたら、勘違いしてしまいます……」


ここにいても、許されるんじゃないかって。

そこまでは言えなくて、私はまた誤魔化すように笑った。


「……別に、いいんじゃねぇの」


「え?」


思いもよらない言葉に固まると、ギルバート様は新緑色の瞳でこちらを睨む。


「ッだから、別に勘違いしたっていいだろ!お前はオレのこ、婚約者なんだし……」


言い切った瞬間、ギルバート様は盛大に顔を背けた。その耳が真っ赤なのを見て、私は呆然としてしまう。……婚約者。そうか。ギルバート様は私をそう思ってくれていたんだ。

ふと、ヴィルガー家に来た日のことを思い出す。冷たい目を向けられて、ここにも私の居場所はないのだと思った。

でも、きっと今は。


「ギルバート様」


「……おう」


「ありがとうございます」


私は彼の目をしっかりと見た。こんなに真正面から人に感謝を伝えるのは初めてかもしれない。でもこの気持ちだけは1ミリだって溢れて欲しくはなかった。


ギルバート様は驚いたように目を見開く。しかしふっと表情を緩めて、「やっぱそっちの方がいいわ」と彼は優しい顔で笑った。


「リリカ様!私、私にもありがとうございますください!」


「なんだそれ」


「ふふ、はい。ハルさんもありがとうございます」


「きゃー!嬉しい!私もありがとうございます!」


飛びついてくるハルさんを受け止める。ギルバート様はそれを呆れたような顔で見た。


「旦那様も混ざりますか?」


「混ざるわけねぇだろ!」


「あはは!」


……あぁ、暖かい。きっと今日の瞼の裏側は、満点の星空だろう。





◼️





リリカがヴィルガー家へ移り、ミオンが皇太子の正式な婚約者になってはや一ヶ月。

王都では問題が起こっていた。


ライオス・エイデンとミオン・ジンゼル。社交界中から祝福を受け、華やかに始まった二人の婚約生活は、急速に綻び始めていたのである。


「どうしてわたくしの言う通りになさらないの!?」


ミオンは乱暴に叫び、目についた花瓶を壁へ叩きつけた。ガシャンッ、と甲高い破砕音が響く。床へ散らばった陶器の破片を見て、ようやく少しだけ胸がすいた。


「あぁもう、ほんとイライラする……!」


苛立ったままソファへ腰を落とし、ガリ、と親指の爪を噛む。昔から思い通りにならないことなんてほとんどなかった。綺麗なドレスも、宝石も、周囲の愛情も。とりわけあの姉に与えられたものは簡単で、当たり前のように自分のものになった。欲しいと口にすれば、誰かが与えてくれた。


だから当然だと思っていたのに。

皇太子ライオスも、自分だけを見て、自分だけを優先してくれるのだと。そう信じて疑わなかった。


しかし現実は違った。

最近のライオスは、以前ほど甘やかしてくれない。会いに来る回数も減った。少し不機嫌になったくらいでは、困ったように眉を下げるだけで終わる。


「ミオン様、本日は社交界でのマナーの復習を」


そしてさらに良くないのは、山のように待ち構えた妃教育の数々だった。

家庭教師の言葉に、ミオンは露骨に顔を歪める。


「またぁ?」


「来月には夜会もございますので」


「そんなの適当でいいじゃない」


そう吐き捨てた瞬間、家庭教師の表情がキッと鋭くなる。


「皇太子妃ともなれば、そういうわけにはまいりません。リリカ様も夜会の前は必ずマナーの確認をなさっていましたよ……それに夜会には王妃様もご出席なされます」


女はにこりと微笑んだ。けれどその目はまったく笑っていない。ミオンは小さく舌打ちをした。


家庭教師の次にミオンを煩わせたのは、ライオスの母──つまり現王妃の教育指導だった。


『姿勢が悪いわ』

『言葉遣いがなっていません』

『まぁ、こんなこともご存知ないの?』


優雅に紅茶を口へ運びながら告げられる剣呑を含んだ言葉たち。

ミオンは最初こそ愛想笑いで誤魔化していたものの、すぐに限界を迎えた。

テーブルマナーから公務に必要な最低限の知識まで……皇太子妃として備わっていて当然なはずの教養を、彼女はほとんど身につけていなかったのである。


今までなら、それでもよかった。少し甘えれば許された。可愛く笑えば誰かが助けてくれた。父が、姉が、ミオンの隠れ蓑になってくれた。


だが王宮で、それは通用しない。


『リリカ嬢はもう少しまともだったのだけれどねぇ……』


王妃の何気ない一言に、ミオンは唇の端を引き攣らせた。……またリリカ。またお姉様。

最近はどいつもこいつも、今さらあの女の話ばかりする。


『リリカはこんな初歩的な作法で躓いたりしなかった』


『リリカはもっと落ち着いていたぞ』


『リリカは──』


と、ライオスまでそう言い始める始末。

何よ、今さら。婚約者を交換しようと言った時、ライオスは嬉しそうに笑っていたくせに。


「あんな女のどこがいいのよ……!」


ギリ、と扇子の柄の部分を強く握りしめる。


昔から、あの女は気に入らないところばかりだった。大抵のことを卒なくこなし、そのくせなんでもないような顔をする。気に入らない。あのすべてを俯瞰したような目で見据えられると、ミオンはたちまち自分がちっぽけな人間に思えてしまうのだ。


だから、全部奪った。奪って、自分の方が上だと証明してやった。

お前(姉)なんて取るに足らない存在だと、私の方が優れているのだと、見せつけてやったはずなのに。


「なんでまだその目で私を見るのよ……!」


記憶の中の姉は、すべてを見透かしたような瑠璃色の瞳で、ただ退屈そうにミオンを眺めていた。





◼️





「殿下、婚約者様がお呼びです」


「……見てわからないか。私は忙しい。後にしろと伝えてくれ」


皇太子の執務室で、ライオスは深くため息を吐いた。机の上には、山積みになった書類たち。


「いけません、婚約者様!」


「ライオス様、どうして最近会いに来てくださらないの?」


従者の静止も聞かず、執務室へやって来たミオンは甘えるような声で言いながら、机へ身を乗り出す。その拍子に、積み上がっていた書類がばさりと床へ散らばった。


「あっ……」


侍従たちが慌てて駆け寄る中、ライオスは深く息を吐いた。


「……ミオン、少し落ち着いてくれ」


「だってライオス様が全然構ってくださらないんですもの!」


頬を膨らませ、不満を隠そうともしないミオン。以前ならそんな姿も可愛らしく思えた。コロコロ変わる表情が好きだった。天真爛漫な彼女を守ってやりたいと思っていた。


けれど婚約してから見えたのは“愛らしい妹”ではなく、感情のまま周囲を振り回す幼い少女の姿だった。

気に入らないことがあればすぐ不機嫌になる。公務中だろうと構わず押しかけてくる。少し注意されただけで、露骨に顔へ不満を浮かべる。

その度に周囲は気を遣い、従者たちは怯えたように頭を下げた。

そしてライオス自身もまた、少しずつ疲弊していた。ミオンは、自分が誰かに優先されることを当然だと思っている。


気づけばライオスは、ミオンが執務室へ来るたび無意識にため息を吐くようになっていた。


「殿下、こちらのご確認を」


「あぁ……」


差し出された書類を受け取りながら、ライオスはふとリリカの顔を思い出した。

もし、あのまま彼女と婚約を結んでいたら……と叶わないたらればを考えてしまう。物静かで多くを求めず、与えられるよりも与えることを好んでいた彼女。決してミオンのような華やかさはなかったけれど、彼女はきっとあのまま自分を支え続けてくれたはずだ。

「……ッ」


ライオスは苦々しく顔を歪めた。

ただいくら悔やんだところで後の祭りだ。もう、すべてが遅かったのである。











イケメンに「おもしれー女」と言わせたかったので、言わせることができて満足です。

これからどんどん仲良くなってくれるといいですね。

あと後半を書くにあたって吸血鬼設定は別に忘れていたわけではありません。本当なんです。信じてください。


機会があればギルバート様の吸血衝動が暴走する回なんかも書きたいです。ミオンとライオスの断罪パートなんかもあると嬉しくなりますね。まぁ書くのは私なんですが……


以上、長らくお付き合いいただきありがとうございました!よければ評価や感想いただけますと励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ