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「こんにちは! トリシア様」
「おぅっ、トリシア様じゃねぇか。焼きたてのパン持ってきな!」
「トリシア様、今度うちにもちょっと寄ってってくれよ。どうも商売がうまくいかなくて、行き詰まっちまってるんだよ」
トリシアが町を歩くたびに、あちらこちらから声がかかる。そのほとんどは、商売や困り事の相談だった。
「えぇ。わかったわ。明日の午後ならどうかしら? ハンナ特製のアップルパイを持ってうかがうわ」
「そりゃありがてぇ! ハンナにもよろしく伝えてくんなっ」
皆、年々寂れていく一方のこの辺境地でどうにか暮らしていくために必死なのだ。本来ならば領主がするべきその役割を、ガイジアはまったく果たしていなかった。
だからトリシアはそのひとつひとつに丁寧に応え、多少なりとも改善が見込める手段を提案してやっていた。
そんなことを繰り返しているうちに、気がつけばすっかりトリシアは町に溶け込んでいた。
ある日トリシアが階下に降りていくと、慌てた様子のハンナに呼び止められた。
「トリシア様! ようやく動き出したみたいですよ。『町でトリシア様を見かけなかったか』って、お屋敷の使用人たちが必死の形相で聞き回ってたらしいんです」
トリシアが屋敷を出て、早いものでもう二週間以上が過ぎていた。
ここにきてようやく、ガイジアたちが自分の不在に気がついたのだ。最初は一向に行方がつかめなかったものの、似た風貌の見慣れない女性を領内で見かけたという行商人の証言を得たらしい。もっとも行商人はたまに辺境地に訪れる程度で、確実性のある証言では当然なかったようだが。
トリシアはやれやれと首をすくめた。
「随分と気がつくのに時間がかかったわね。ガイジア様がやっと屋敷に戻って、大騒ぎになったってとこかしら」
「まったく今頃になって気がつくなんて、どうかしてますよ! どこまで皆してトリシア様を馬鹿にしてらっしゃるんだか。屋敷にいないなんてこと、すぐに気がついて当然じゃないかっ」
ハンナが腕組みをしながら、盛大に鼻を鳴らした。
さすがに結婚したばかりの妻に家出をされたとあっては、領主として格好がつかないのだろう。家出に至った詳しい経緯については町の者には口をつぐんでいるようだけれど、大分焦った様子だったらしい。
「ということは、ここにいることがもうばれてしまったのかしら? あなたに迷惑をかけるのは本意じゃないのだけれど……」
ハンナが部屋を貸してくれ町の者たちにもうまく口添えしてくれたおかげで、ここまで居所を知られずにやってこられたのだ。そのハンナが大変な思いをする事態だけは避けたい。
けれどハンナはそれを快活に笑い飛ばした。
「もちろんトリシア様がここにいるってことは、町の者は誰も言いやしませんよ。皆ガイジア様やお屋敷の使用人たちがどんな仕打ちをトリシア様にしてきたか、知ってますからねぇ! それにトリシア様は今やあたしらの救世主みたいなもんですから。死んだって教えてやるもんですか」
威勢のいいハンナの言葉に、トリシアは笑った。
町の皆が領主の要請を無視してトリシアの居場所を黙っている辺り、ガイジアがいかに領民の信頼を得ていないかがわかる。
「ふふっ。でも私を探し回っているってことは、いよいよここでの暮らしも終わりが近いってことね。なんだか寂しいわ。ようやく町の人たちにも慣れたところだったのに」
最初はこの辺境地に何の感情もなかった。どうせ長くはいるはずのない土地だと思っていたし、ガイジアとあの屋敷の使用人たちから身を隠しつつ未来の備えができればそれでいいと思っていた。
けれどハンナをはじめこの町の人たちに慣れ親しんだ今となっては去るのが少し寂しくもあり、皆を残していくことが不安でもある。
トリシアの考えた計画の準備は、着々と進んでいた。生まれ育った自領でも、今頃ヒューとユイール家の前家令だったヒューの父親が暗躍してくれているはず。そしてこの辺境領での調べも一通り済んだ。
あとは計画を動かすだけだった。自分を縛りつける何もかもを捨て、自分の人生を新しく動かすための計画を。
(できるだけ、自領の領民にも辺境地の皆にも今後混乱が起きないようにできることはしたつもり。でもしばらくは大変な状況に陥るのは間違いないわ。それが心残りね……)
トリシアの心にほろ苦い思いが広がった。けれどそんな物思いを打ち消すように、ハンナが明るい声を上げた。
「大丈夫ですよ! 辺境地がこんなに寂れちまったのは、ガイジア様がちっとも領民に心を配ってくださらないせいなんですからね。トリシア様が気に病む必要はありません」
「それはそうでしょうけど、でも……」
「なぁに、後のことはあたしらがどうにかしますよ。いくら辺鄙なところといっても、ここは自分たちの大事な土地なんだからね。でも……」
ハンナは大きなため息を吐き出した。
「それでももしもガイジア様や屋敷の使用人たちがトリシア様のことをちゃんと奥方様として大事に扱ってくださってたら、この辺境領の未来は安泰だったかもしれないのにって思いますけどねぇ……。残念ですよ。トリシア様がここからいなくなるのは」
「ハンナ……」
ハンナの顔に、寂しそうな笑みが浮かんだ。
「でも何より大事なのは、トリシア様自身の幸せですからね。トリシア様がこの先どこで何をなさろうともあたしらは皆、応援してますとも!」
「ありがとう、ハンナ。あなたにもこの町の人たちにも、本当に感謝しているわ。この結婚には何の利もないと思ってたけど、あなたたちに出会えたことはかけがえのない宝物よ」
「トリシア様……!」
ぎゅっとふくよかなハンナの体を抱きしめれば、ハンナが鼻をすんっ、とすするのが聞こえた。




