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それからまもなくして、ガイジアのもとに不穏な知らせが飛び込んできた。
「ガイジア様! 大変ですっ。兵たちがいません! 兵舎にこんな手紙が……」
置き手紙があったと聞いて、ガイジアの顔から血の気が引いた。
「どういうことだ、それは⁉」
ジールの手から手紙をひったくるように奪い取り、目を通した。
「これは……まさか、そんな……」
そこには兵たちが国に辺境地の過酷な現状について陳情に行く、と書かれていた。
「陳情だと……⁉ 一体何が不満だというのだっ。兵舎も直し待遇も改善したではないかっ! これ以上何を……」
ガイジアは何もわかっていなかった。ガイジアがしたことなど無意味に等しかったことを。
雨漏りのする屋根を少し補修しただけで、兵舎はいまだボロボロのまま。上位の兵たちの使う武器や防具ですら、とうに耐久年数を超えているのだ。食事や支給品などの待遇だってほんの少しましになっただけで、兵たちの働きに見合うほどのものではない。
何より、ガイジアの兵たちへの態度が問題だった。
「私が兵たちを使い捨ての駒としてしか考えていない、だと? 兵というものは端からそういうものだろうが! 何をふざけたことを……」
「ガイジア様、もし兵たちがすでに王都に向かっているとなればこれはなんとも由々しき事態に……」
「ぐっ……!」
バタンッ!
急ぎ兵たちを止めに行かねばと歯噛みしていると、ノックもなしにドアが勢いよく開いた。
「大変です。旦那様っ! 国境沿いで獣が暴れ回っていると領民から急ぎの知らせが! このままでは我が領内にも被害が及びかねないと皆怯えておりますっ」
「今度は獣か! くそっ。こんな忙しい時に限って一体何なのだ!」
兵たちが兵舎から消えた今となっては、剣を扱えるのはガイジアだけだ。いくらガタイの大きな領民と言えども、剣を握ったことなど皆無なのだから。が、実のところガイジアの剣の腕はあまりほめられものではなかった。というより、戦いにはまるで不向きだった。
「領民たちで追い払えと伝えろ! 兵たちは皆逃げ出して誰も戦える者はいないのだっ。自分の身は自分で守れっ! 私は今それどころではない。今すぐ王都に向かわねば!」
「ええええっ……。ですが、それはさすがに無理が……」
「早く行け! 領民たちで足りなければ、お前たちも包丁でも箒でも使って獣を追い払えっ!」
「そ、そんな無茶な……」
さすがのジールも、あまりの言葉にあんぐりと口を開いた。
「我々の仕事は屋敷の中を整え守ることにございます。国境を越えてこようとする獣と戦うことではございません! それはむしろご領主であられるガイジア様の務めではございませんかっ!」
「ジール! お前までそんな生意気な口を……。もういいっ。今はそれどころじゃない! 私は今すぐに発つっ」
謁見の折、領内で起きている諸問題はすぐに解決できると大見えを切ったのだ。もしも兵たちが陳情に王宮へと向かったとなれば、自分の面目が丸つぶれだ。
ガイジアは急ぎ屋敷を飛び出し、馬車に乗り込んだ。
ガイジアの頭にあるのは、もはや自分の保身だけだった。
「あら? ガイジア様、どちらに行かれるのですか?」
入れ違いにやってきた馬車の窓から、美しく華やかに身を飾り立てた貴族令嬢が顔を出した。けれどガイジアはその声に振り向きもせず走り去った。
「ガイジア様⁉ ちょっとどういうことなのっ! ジール! ジールはどこっ? 一体どうなってるの⁉」
令嬢が屋敷の前で呆然とした顔で去っていく馬車を見送る家令の姿を認め、大声で呼びつけた。
「ジール! ガイジア様は一体どこへ!? 今日は私と会う約束だったはずよ」
「それがその、旦那様は急な用事で……」
「私と会うよりも大事って、一体どんな用事なのよ!」
ガイジアの元の婚約者だった令嬢に畳みかけるように問われ、ジールは鼻白んだ。
トリシアとの離婚はすでに成立している。主であるガイジアは先々あらためて伴侶を迎える必要があるから、と最近またこっそりともとの婚約者令嬢との逢瀬を繰り返していた。今日もその予定だったのだが。
「それは……」
ジールは主の元婚約者をまじまじと見やった。
この令嬢を高く買っていたはずだった。国の守りの要となる辺境地を治める領主の伴侶としてふさわしい女性に見えた。けれど今は――。
ジールの胸にじわじわと違和感が広がった。同時に脳裏に浮かんだのは、トリシアの静かな佇まいだった。
確かに地味でぱっとしない令嬢ではあった。花嫁衣装はともかくとして、王都から持ってきた荷はどれも質素で地味なものばかり。これが本当に貴族家の令嬢なのかと疑いたくなる有り様だった。唯一価値のありそうなものと言えば、小難しそうな何冊かの書物だけ。
だからついもとの婚約者だった令嬢と比べてしまったのだ。こんな小娘は、辺境領主の伴侶にはふさわしくない、と。
けれど果たして本当にこの令嬢こそが、辺境伯夫人となるにふさわしい女性だったのだろうか。あのトリシアよりも、ガイジアに無視されただけでこんなふうに声を荒げ高慢に振る舞うような女性が。もしかすると――。
トリシアが去ってからというもの、これまで当たり前だと信じていたものがどこか歯車がうまく嚙み合わなくなったような不安を感じていた。領内の空気もどこか不穏で、いつ何時何が起きてもおかしくない。そんな嫌な空気が漂っていた。
いや、もしかしたらそれは随分前からだったのかもしれない。トリシアがきたことで、それがあぶり出されただけで。
ジールの口から、深い嘆息がこぼれ落ちた。




