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「……では、そろそろ行こうか。トリシア」
ヒューの言葉に、トリシアがふわりと少女のようにはにかんだ。
「えぇ、行きましょう! ヒュー」
船の切符もふたり分。出立に必要な荷もすでに船に預けてある。これから移り住むことになる隣国の屋敷もすでに購入済みだし、商売をはじめるための軍資金も用意してある。
ヒューの父親も、生家の事態の行方を見届けたあとで国を出る予定だ。すでに生家にいた信頼できる使用人たちとその家族は前乗りして、新たな地で自分たちが到着するのを今か今かと待ち構えていることだろう。
トリシアはちらと、もう二度と会わないであろう家族の顔を思い出した。そして高く結い上げていた髪留めを取り、長い髪をばさりと振り払った。
きっと自分たちが去ったあと、この辺境地も王都の生家も大変な騒ぎになるだろう。これまで自分たちが積み上げてきたことがいよいよ日の下にさらされ、トリシアが撒いた一見救いとも思える種が大きく動き出すはずだ。そう、時限式の罠のように。
トリシアはどちらにも転びうるチャンスを与えた。それを生かせるかどうかはそれぞれにかかっている。けれどトリシアは知っていた。人はそうそう変われない。よほどのことがない限り、生き方を変えることなんてできない。人生を変えるほどの愛とか、決意とかそういったものが人生に舞い降りない限り――。
トリシアは晴れやかな顔でヒューを見上げ、その手を取った。
「さぁ、新しい人生に出発よ! ヒュー」
「あぁ。もう港に船が着いてる頃だ。行こう! トリシア」
待たせていた馬車に勇ましく乗り込んだふたりを乗せ、馬車は軽やかな蹄の音とともに走り出した。ふたりの新しい人生が待ち受ける、大海原の向こうへと。
◇ ◇ ◇
その頃トリシアの生家では、アーゴットとリリアがキンキン声で騒ぎ立てていた。
「なんで私たちまでこんな目に遭わなきゃいけないのよ! 悪いのは全部お父様じゃないのっ。私とお母様は関係ないわ!」
「そうよっ! 外に愛人まで囲ってお金を隠し持っていたのは、あなたじゃないのっ。私とリリアは無関係ですわ」
町で踊り子の愛人と取っ組み合いの大喧嘩を繰り広げたアーゴットとリリア、ゴルドは屋敷に一旦帰された。とは言え三人ともに悪事に手を染めていた嫌疑がかかっているため、一切の外出は許されてはいない。牢獄に入れられたも同然だった。
「おい! ヒュー、一体どこへ行ったんだ。あいつは! 誰がいないのかっ」
ゴルドの声が虚しく屋敷に響き渡る。けれどそれに答える声はない。
実のところ、使用人たちの幾人かはすでにトリシアが隣国に用意した屋敷へと向かっていた。皆トリシアを慕い、この先の運命をともにすることを選んだのだ。家族の事情などでともに行くことができない者たちも、すでにトリシアが新たな勤め先を紹介してある。
けれどそんなことを、ゴルドたちが知るはずもなかった。
「早く酒を持ってこい! まったくなぜ誰もこないのだ。おい、誰か! くそっ。なぜこんなことに……。これも皆トリシアのせいだ。トリシアがガイジアをうまく御しきれていれば、こんなことには……」
テーブルを強く叩き苛立ちをあらわにするゴルドに、アーゴットが嚙みついた。
「こんな屋敷、もう出て行くわ! 聞けばお金なんてもうちっとも残っていないというじゃありませんかっ。貧乏なんて私もリリアも耐えられませんわ!」
「もとはと言えばお前たちが散々金を使いまくった結果ではないか! ドレスだの宝石だの、夜会だの観劇だのと遊び回りおって。挙句の果てに、質屋の主をだまして詐欺まがいの罪まで……」
「そ、それは……!」
金欲しさに罪を犯していたのは、ゴルドだけではなかった。アーゴットとリリアのふたりも、贅沢をする金を用立てるためにかつてゴルドが買い集めた偽物の壺やら絵画やらを質屋の主人にを本物と偽って売りつけていたのだ。
「し、仕方ないじゃありませんか! 女というものは身を飾り立てるために金がいるものですわ。リリアだってそろそろ結婚を考えていい年なのだし、ドレスやら宝石が必要なのは当然ですわ! それを出し渋った挙句愛人に貢いだあなたにうるさく言われたくありませんっ」
「なんだとっ⁉」
すると今度は、ふたりの醜い言い合いを端で見ていたリリアが大きな声を上げた。
「そんなことより、私の注文済みのドレスはどうなるの⁉ 今日中に支払いを済ませなきゃ、注文が流れてしまうわ! せっかくの最新デザインなのにっ」
「話を聞いていなかったのか!? 今ドレスなんてどうでもいいだろう! そもそもそんな金も着ていく場もこの先あるものかっ」
この期に及んで何を馬鹿なことを、とゴルドが言い返せば。
「どうしてよっ! 私は何もしてないじゃないっ。質屋をだましたのだって、お母様が勝手にしたことで私は関係ないわ!」
リリアの苛立ちが今度は母親に向いた。
「リリア! 私がすべて悪いとでも言いたいの⁉」
「だってそうじゃない! そもそもお母様だって、一生お金に困らない贅沢暮らしができるからお父様と結婚したんでしょう? なのにこれじゃ話が違うわよ。なんで私まで牢屋に入らなきゃいけないのっ」
その言葉に当然のことながらゴルドが反応した。
「アーゴット! お前は結局金が目当てで私と結婚したというのか」
「きーっ! 当たり前じゃないのっ。金がなければ誰があなたなんかと結婚するものですか!」
「なんだとっ⁉」
結局トリシアが去ったあとに残されたのは、空っぽの屋敷と借財だけだった。近いうちにゴルドは爵位も領地も取り上げられ、ただの罪人として裁かれることになるだろう。アーゴットとリリアも別件でただでは済まないはずだ。
「くそっ! くそっ……。こんな……こんなはずでは……。なぜ……、なぜだっ……!」
ゴルドは前妻とよく似た娘の面差しを思い浮かべ、舌打ちをした。
『ふんっ! 女ごときが領地経営だの政治だの、生意気な口を叩くな。どうしてお前は普通の令嬢のようにドレスだの宝石だのには、まったく興味を示さんのだ。まったくかわいげのない!』
我が娘ながら、ゴルドはトリシアが嫌いだった。まだほんの小さな頃からずっと。あの何もかもを見透かしたような地味な顔も、時折浮かぶ口元のわずかな笑みも。
それに比べれば、リリアはずっとわかりやすかった。いわゆる馬鹿な娘ではあったが女などそういうものだ。少なくとも、ゴルドの思う女とはそういうものであるべきだった。
「ちっ! せめて自分ひとりだけでも罪を逃れる方法はないものか……」
ぶつぶつとわけのわからないことをつぶやきながら、ゴルドはすっかり人気のなくなった屋敷の中をいつまでもぐるぐると徘徊し続けるのだった。




