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なぜこんなことをしたのか、との問いに、皆を指揮する立場である家令のジールがぼそりと答えた。
「……旦那様が、トリシア様はいないものとして扱ってよいとお命じになりましたので」
それを聞いた瞬間、ガイジアは頭から冷水を浴びせかけられた気分になった。
「……」
それはまさしく、自分がジールに向けて放った通りの言葉だった。
トリシアとの婚姻は、王命で仕方なく結んだものだった。
すでに自分には婚約者がいたこともあり、まるでトリシアが元婚約者との縁を邪魔しているかのように思えた。一度も会ったことがない上、姉妹のどちらかが伴侶となるのかもわからない時分ではあったが。
姉であるトリシアが伴侶となると決まって間もなく、王都から絵姿が届けられた。
絵姿というものは、大体が実物よりもよく描くものだ。けれど届いたトリシアの絵姿は、腕の悪い絵師にでも頼んだのかなんとも残念なものだった。年頃の令嬢の絵姿ならば、もう少しましに描くものではないのか。たとえ実物が比べものにならないほどひどかったとしても。
結局王命に背くわけにもいかず、元の婚約者とは約束を反故にすることになった。
そして婚礼の日。
真っ白な花嫁衣裳をまとったトリシアを見た時、正直に言えば絵姿よりもはるかに美しいと思った。顔立ちも身にまとう空気も地味ではあったが、どこか凛とした品を感じさせ無垢な花嫁衣装はよく似合っていた。
だが――。
(あの時のトリシアの顔……、今思い出してもムカムカする。まるで感情がごっそりと抜け落ちたようなあんな顔をされたら、どんな気持ちもしぼむというものだ。だから私は……)
婚礼は、誓いの口づけさえしないまま淡々と終わった。招待客からは幾分ざわめきが起こったが、どうせ皆すぐに忘れる。
その夜、ガイジアはトリシアに告げたのだ。この婚姻に自分は納得していないし、君を伴侶として認める気もない、と。
トリシアは黙って聞いていた。
そして使用人たちにもすぐさま命じた。トリシアをこの屋敷の女主人として扱わずともよい、対外的にも一切辺境伯夫人としての役目は与えないつもりだから、と。
その時のことを思い出し、ガイジアは血の気が引くのを感じた。けれどどうにも怒りは収まらず、抑えきれない感情がジールへと向いた。
「ジール! お前はどうにかしようとは思わなかったのか。確かにトリシアを妻として認めるつもりはないとは言った。屋敷の諸々にも口を出させるな、とも。だが……!」
顔を真っ赤にしてジールを責め立てた。
「仮にもあれは、王命で結婚した令嬢だぞ!? 機嫌を損ねれば、この辺境領にとっても不利にもなることぐらい、家令のお前ならわかることだろう!」
「ぐっ……! そ、それは確かにそうではございますが……」
ぐっと言葉をのみ込んだジールの両の手が、ぶるぶると震えていた。しぼり出すようにジールは告げた。
「……しかし、トリシア様は旦那様の元の婚約者様を追い出したも同然っ! 本当ならば今頃は、あの方と幸せな結婚生活を送られているはずでしたのに……。なのにトリシア様が邪魔を!」
ガイジアは、その言葉にがっくりと肩を落とすしかなかった。
確かにジールは、元の婚約者がこの屋敷に住まう日をずっと心待ちにしていた。以前から元婚約者をいたく気に入っていたから。自分が下した命とその思いが、より一層トリシアへの行き過ぎた嫌がらせにつながったらしい。使用人たちも主の命令は絶対だと信じて疑わず、何も考えずに従ったのだ。
「……だが、この婚姻を決めたのは陛下なのだぞ。トリシアを虐げたところで、この婚姻がひっくり返るわけでもあるまい。ただあれの生家が潤沢な金を持っていたから、それを当てにしただけの婚姻だったのだから……」
「くっ……」
ジールとてそれは重々承知してはいたのだろう。けれどどうにも心が追い付かずトリシアへの苛立ちを抑えきれずにいたところに、主から放っておいていいと言われその通りにしたに過ぎない。
(私の……私のせいか。くそっ! なんでこんなことに……)
辺境の地、ひいてはこの国の平穏を維持するためとはいえ、突然に下った意に沿わぬ結婚に腹立たしさを感じていた。
けれどそれはトリシアとて同じことだったろう。はるばる生まれ育った王都を離れ、こんな何もない辺境の地に嫁ぎたかったはずはない。一度も顔合わせも手紙のやりとりをすることもなく、名前と身分しか知らぬ男のもとにたったひとりで嫁ぐように言われたのだ。不安も不満もあったに違いない。
だが――。
婚礼の時、トリシアはまったくの無表情だった。美しいドレスに身を包んではいてもそこには何の感情の高鳴りも感じられず、ただ淡々と事実を受け入れたような顔をしていた。
あれはあきらめだったのか。それとも失望か。
その姿を見た瞬間、頭の中が怒りで沸き立った。まるで自分が夫として足りぬ存在だと、こんなところに嫁になどきたくはなかったのだと責め立てられている気がして。
だから笑みのひとつも見せることなく、冷淡にあしらった。当然夜をともにしたこともない。
どうせちやほやともてはやされて育った、何の苦労も知らぬ貴族の令嬢だ。そのうち自分の立場を思い出して、あちらから愛想のひとつも振りまいてすり寄ってくるに違いないと考えていた。
それなのにまさか、こんな思い切った行動に出るとは。
(こちらが嫌々なのがわかって腹が立ったのか? 確かに私も大人げなかったのは認めるが、何も突然家出などしなくても……)
だがきっと突然などではなかったのだろう。何度も自分に話をしようとして、その度にジールに阻まれていたに違いない。それにもし直に話をする機会があったとしても、自分とてまともに取り合ったかどうか。
ガイジアは深く嘆息した。そして無理矢理に頭を切り替えた。
今さら誰かを責め立てたとて、どうなるものでもない。今すぐすべきはトリシアを一刻も早く屋敷に連れ戻し、事態を平穏に収めることだ。
王命による婚姻とあれば、あちらもそう簡単に離縁などできるはずもないことくらいわかっているはずなのだから。
ガイジアは声を張った。
「とにかく、このことが世間や陛下に知られてはまずい。今すぐにトリシアを探すのだっ! どうにかなだめすかして、屋敷に連れ帰ってこい。いいなっ!」
屋敷中をビリビリと震わせる威圧的な大声に、ジールをはじめ使用人たち一同は一斉にトリシアの捜索へとかけていった。
けれどトリシアが手紙に書いていた通り、捜索は徒労に終わった。
もともと見た目が貴族令嬢らしからぬ、大変に地味で目立たない風貌をしているせいもあるのだろう。屋敷の馬車も町の貸し馬車も使われた形跡はなく、町のどこにもトリシアの姿は見当たらずその姿を見かけた者もひとりとしていなかったのだった。
ガイジアは、一層頭を抱え込む羽目になった。




