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その出会いは、まったくの偶然だった。
『おおっ! これは見事な花器だな。さすがは名工ダルシャンの品だ』
背後から聞こえてきた声に、トリシアは思わず振り返った。
港には多くの商人や船乗りたちがひしめき合う。王都に出回る前に我先にと珍しい交易品を買い求める者、ほんのわずかでもいい品を探しにきた者などさまざまだ。
けれどダルシャンの花器、とはなんともおかしい。
この国随一の名工と言われたダルシャンは、もう十年も前に亡くなっている。彼の残した数々の工芸品はすべて人手に渡り、市中にはひとつも流れていないはずだった。なのになぜか背後では、ダルシャンの品をずらりと並べ売りつけようとする商人の姿があった。
客はどうやら貴族、しかも相当に羽振りのいい御仁らしい。すらりとした体躯を仕立てのいい服に包み、今にも懐から大金を差し出そうとしているところだった。
トリシアはつかつかと歩み寄ると、並んでいた品を手に取り商人を真っすぐに見やった。
『おい! いきなり何をするんだ。取引の邪魔するんじゃねぇよ。嬢ちゃん!』
商人の荒い声が飛んだ。けれどそれを無視して、トリシアは淡々と告げた。
『これはよくできた贋作ですね。名工ダルシャンの作などではございません』
『……なんだと? それは本当かい。君』
懐に伸ばしかけた手を止め、男がたずねた。
『はい。間違いございません。ダルシャンの品が今も市井に流通しているはずはありませんし、あるとすれば偽物だけです。しかもこれはよくできてはいますが、贋作としてもそれほど出来のいいものではありません。そうですね。せいぜい銅貨三枚程度の価値しかないでしょう』
『……君に、名工ダルシャンの作の真贋が見極められると? 一体何者だい?』
男の態度にはありありと疑いの色が浮かんでいた。けれどトリシアには自信があった。
『実は私の父が一時ダルシャンに夢中で、それはもう幾度となく贋作をつかまされて大変だったのですわ。そんなもので家が傾いては領民に顔向けができませんから、ダルシャンの作の特徴をこれでもかと調べ上げたんです。おかげで相当に精巧なものでない限り、見極められるようになりましたの』
『君、もしかして貴族の娘なのか?』
男の目がトリシアの着ていた地味で飾り気のない服に向いた。
男が疑うのも無理はなかった。なにしろその時トリシアは平民のふりをして港に商売に訪れていたために、いつにも増して地味で簡素な恰好をしていたのだから。
苦笑しつつうなずいた。
『はい。たとえばこちらの品は、絵付けは非常によくできておりますけれど、ほら。本物はここにあえて溝を作ってあるのですわ。けれどこれにはございません。それからこちらは、ダルシャン特有の特徴的な色がまるで出ておりませんわ。ものとしてはまずまずといったところです』
『……そうなのか、店主。お前はこれを、間違いなく本物のダルシャンの作だと言って私に高値で売りつけようとしていたが?』
『えーと……それは、その……。ですから……』
店主の顔から一気に血の気が引いた。商人はすぐさま店じまいをして、逃げ出していった。
その背中を苛立たしげに見送り、男は安堵の笑みを浮かべトリシアに向き直った。
『君のおかげで助かった。ところで君は、さっき父親がダルシャンの作品に一時夢中になっていたと言ったね』
『……はい』
男の目がきらりと光った。
『ということは、もしや君の名はトリシアというのではないかな。 実は以前噂に聞いたことがあってね。贋作ばかりを扱う質の悪い商人が、あちこちの貴族家に品物を売りつけに回っていると。だがそれをある時、ある家の令嬢が完膚なきまでに叩きのめし追い返したと聞いた。その娘の名前が、トリシアだと』
『……ご明察の通りです』
男の声には、確信がにじんでいた。となれば言い逃れするのは時間の無駄だろう。
『ですがここではゆえあって素性を隠しております。色々と事情がありまして、港などに出入りしていることは誰にも知られるわけにはいかないのです。ですから……』
言いかけたトリシアを、男が制した。
『いや、いいんだ。ここで君に会ったことは誰にも口外する気はないし、何しろ君は私の恩人だ。うっかり大恥をかくところだったよ。ありがとう』
そう言って男はいつか必ず恩を返す、と去っていった。
男の正体が、実はこの国で指折りの名家の人間であり国王陛下にも近い有力貴族であると判明したのはそれからまもなくだった。
トリシアはその時のことを思い出し、不思議な思いでほっと息をついた。
「人生っておかしなものね。あの時出会ったあの人が裏で融通してくれたから、本来なら双方の署名が必要な離縁届も受け入れてもらうことができたし、父の悪事も無事訴え出ることができたんだもの」
不思議なことに男は、恩を返すといってトリシアの計画に喜んで力を貸してくれた。父の隠し帳簿と隠し金は、男がトリシアが国を出た頃合いをみて国に提出してくれることになっている。ガイジアとの離縁についても色々と便宜を図ってくれただけでなく、今後辺境地で起きるであろうあれこれについてもうまく取り図ると約束してくれたのだ。
その助けがなかったら、さすがに今回の計画を確実に進めることは難しかっただろう。
「いくつもの幸運が重なって、今回のことはうまく運んだんだわ。まるで私の背中を押してくれたみたいに。ヒュー、あなたもそのひとりよ。あなたがうなずいてくれた時、私本当に嬉しかったの」
本当は、ガイジアとの婚姻が思いがけずうまくいくようなら甘んじて自分の運命だと受け入れることも考えていた。たとえ真実の愛をあきらめることになったとしても、それが領民やこの国を守ることにつながるのならと。
けれど領地を出発する前夜、ヒューが背中を押してくれた。
『トリシアお嬢様、いつまでそうやって自分を犠牲にして生きるつもりですか。もう自由になっていい頃では?』と――。
その一言がなかったら、今こうして清々しい気持ちでここに立ってはいなかっただろう。
「ヒュー」
「トリシア」
互いの名を口にして、しばし見つめ合った。
「……もう、いいんだな」
ヒューの顔がすっと真剣なものになった。本当に後悔はしないのかと確かめるようなその眼差しに、トリシアはこくりとうなずいた。
「えぇ。私、決めたの。たとえこの先どこへ行こうとどんな大変なことが起きようと、どこまでもあなたと一緒にたくましく生きていくって」
国を出たら、当分は帰ってこれない。商売の関係でこの国との関係が完全に切れるわけではないけれど、表立って国に降り立つことはない。
「お母様のお墓にも会いに行けないけど、お母様ならきっとわかってくれるはず。大切な思い出は、全部ここにあるから。もういいの」
トリシアは首から下げていたロケットペンダントを、服の上からそっと握りしめた。
ロケットの中には、トリシアを生んでくれた母の絵姿が入っていた。
母に存分に愛された記憶があれば、この先も生きていける。自分が生きている限り、母の愛も自分の中で生き続けるのだから。
「私はもう、必要なものはすべて持っているもの。何があったって、幸せに生きていけるわ。そうでしょう? ヒュー」
トリシアの目の奥に、甘い熱が灯った。それをのぞき込むヒューの目にも、同じ熱が揺らいだ。




