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「その様子では、何もかもうまくいったようだな。トリシア」
やわらかな微笑みとともに駆け寄ってきたトリシアの手をヒューが取り、手の甲に優しく口づけた。
その熱といまだ互いの間に落ちる少々のぎこちなさに、トリシアの頬が染まる。
「えぇ。これで何もかも済んだわ。そっちの首尾はどう?」
その問いかけに、ヒューの口元に黒い笑みが広がった。
「こっちも君の計画通りに運んだよ。……いや、それよりむしろおもしろいことになった。くくっ」
「おもしろい?」
きょとんとトリシアが問い返した。
「まずは例の金の在処だが、町で踊り子をしているアンナという愛人宅に隠してあった」
「まぁ……! 父に愛人が?」
トリシアの眉間に思わず皺が寄った。
「君からの手紙が届いてすぐ、あいつは慌てて金を用立てるために愛人のもとに向かった。そこに父がこっそりアーゴットとリリアを呼び寄せてね。あっという間に大乱闘さ。親父のあの愉快そうな顔ときたらまったく……。我が父ならがいい性格してるよ」
「まぁ! それでお金はどうなったの? 無事見つかって?」
ヒューがこくりとうなずいた。
ゴルドが愛人を囲っていると知ったアーゴットは、すぐさま愛人宅に乗り込み激しく詰め寄った。もちろん愛人である踊り子にも。リリアはと言えば、自分のドレス代を渋ったのが愛人に貢いでいるせいだと勘違いをして愛人の部屋にかかっていた衣装をビリビリと破りながらキレ散らかす騒ぎ。
「まったくひどい有り様だったよ。アーゴットがその辺にあった果物ナイフを持ち出して愛人に飛び掛かった時は、もうだめかと思ったね。くくっ」
「そ、それでどうなったの?」
思わぬ展開に、トリシアが身を乗り出した。
「さすがに刃物沙汰は困るんでね。すかさず外から俺が『火事だ! 皆急いで外に逃げろっ』と叫んだら、皆慌てて外に飛び出してきたよ。その隙に、親父が愛人宅に隠してあった金をまんまと奪い取ることに成功したよ」
顛末を聞き、トリシアの顔に安堵の色が広がった。
「ふふっ。さすがやるわね」
ヒューの父親は一見穏やかで優しげであるが、実のところなかなかの曲者でもある。こうと見込んだ者に対しては忠誠を尽くすが、それに害をなそうとする者には容赦がない。優しくも厳しい。それがトリシアから見たヒューの父親の姿だった。
トリシアの脳裏に、長らく顔を合わせていないヒューの父親である元家令の顔が浮かんだ。すっと切れ長の目元が父子でそっくりなのだ。実のところ性格もよく似ている。
「それで、そのお金は無事にあの方に届けられた?」
ヒューはこくりとうなずいた。
「もちろん抜かりなく。隠し帳簿と一緒に渡してきたよ。……あぁ、そうだった。あいつからの伝言だ。『あとのことはこちらでうまくやるから、君はもう自由になるといい』だとさ」
トリシアの口からほっと息がもれた。
父が愛人宅に隠し持っていた金は、本来国に納めるべき税金だ。もとは領民が汗水垂らして働いた大切なお金を、慰謝料として使うわけにはいかない。もとよりその金は国に返すつもりで、ある協力者に預ける算段だったのだ。
「ではこれで、何もかも計画通りうまくいったってことね。あなたたち親子には、どれほど感謝してもし尽せないわ。色々と本当にありがとう」
トリシアの心からの礼に、ヒューがふわりと微笑んだ。
「父が首になったのは幸運だったのかもな。でなければこうも堂々と動けなかったろうし、俺では役人もまともに取り合ってくれなかったろうし。もちろん君の計画をうまく運ぶには、俺たちだけじゃどうにもならなかったが」
「我が家の内情をすべて知っている家令をあんな形で解雇すれば、手痛いしっぺ返しがくることくらい想像ついたでしょうにね。浅はかな父らしいわ。それにヒュー、あなただって一筋縄ではいかない人間だってこと少し考えればわかるでしょうに」
父の顔を思い浮かべ、トリシアはそっと嘆息した。実の父親とは言え、自業自得としか言いようがない。
当然町中でそんな騒ぎを繰り広げていれば、人目を引く。すぐに警邏隊が駆けつけ、全員が拘束される羽目になったとか。
どの道国に納めるべき税を逃れ着服していたとなれば、重罪だ。アーゴットとリリアも裏で色々と後ろ暗いことに加担していたと聞いているから、どの道全員が何らかの罪に問われ牢屋行きは免れなかっただろう。が、それよりも早く自ら牢に入るなど、笑うしかない。
「これで父は終わりね。当主の座も爵位も何もかも失うことになるんだわ。アーゴットも裏で色々やっていたみたいだし牢屋行きは免れないでしょうし、リリアだって平民として地道に働いて生きていけるとは到底思えないわね。むしろ三人一緒に牢に入れられた方がましなのかも」
「ふんっ。いい気味だ」
鼻で笑ってのけたヒューの顔色が、雲った。
「しかし、どの道大金をガイジアに支払うことに変わりはないんだろう? 癪にさわるな。トリシアを散々虐げておいて、挙句あいつが金を手に入れるなど」
ヒューの声には、ガイジアへの怒りと苛立ちがありありとにじんでいた。その理由が自分への思いのせいとわかっているトリシアには、それがなんとも嬉しくくすぐったくもある。
「ふふっ。大丈夫よ。あれくらいの額なら私の私財でどうにでもなるし、また稼げばいいわ。少なくともお金を渡すことで、私は誰の目にも触れずにこの国から逃げ出すことができるんだもの」
ガイジアに渡すはずの慰謝料は、はじめから自分で用立てるつもりだった。
そもそもこの国の貴族には、自由に国を出る権利は与えられていない。貴族位を国に返還した上私財を取り上げられた上で平民として生きていくことはできるが、そんなことをしたとて自由が与えられるわけでもない。
つまりこの国を出る唯一の方法は、行方をくらますことだった。そのために、自分が婚姻から逃げ出し行方がわからなくなったという筋書きが必要だったのだ。
しかも、国を出るのは自分だけではない。ヒューとヒューの父、生家で働いていた忠実な使用人たちの何人かが家族とともに他国に渡ることになっていた。それをごまかすためには行方をごまかすための時間が必要だったのだ。その猶予を作るための慰謝料だった。
「いくらあの方が裏で手助けしてくれるって言っても、もしもバレてしまったら私だけじゃなくあなたも皆も大変なことになるわ。皆で安全にこの国を出られるなら、安いものよ」
「まぁ、それは確かにそうだが……」
「それに……」
トリシアの顔に、黒い笑みが広がった。
「それに私の見立てでは、辺境領はもって一年ってところだし。下手をすれば半年もすれば問題が起き出すと思うの。ハンナたちには悪いけど、辺境領はしばらく大変でしょうね」
「あいつが領主としてふんぞり返っていられるのも、もはや時間の問題ってとこか。使用人たちも皆共倒れで路頭に迷うがいいさ。ざまぁみろ」
ガイジアと使用人たちへの怒りを露わにするヒューに、トリシアが苦笑した。
「でも本当にお母様が私あてに遺してくれた遺産を元手に、こっそり商売をはじめていてよかったわ。でなければ、こんなお金を用立てることも新しく人生をやり直すことも難しかったもの」
実の父親からは領主代行のような仕事を押しつけられ、継母と義妹からは掃除洗濯、料理の支度に至るまでやらされていたトリシアではあったが、おかげで生きる力を存分に身に着けられたとも言える。もはや貴族としての肩書などなくとも人生を生き抜けるほどの力と、強靭な精神力も。
どうやら自分には商売の才覚があるらしいことにも気づいたトリシアは、母が遺してくれた私財をもとに商売をはじめた。この国ではごく身近に使われているスパイスを、隣国へと売り出してみることにしたのだ。しかも、そのスパイスを使ったごく簡単な料理のレシピとともに売り込むという方法で。
それが見事に当たり、一年たつ頃にはそれなりの売り上げを維持できるようになった。
商売をはじめていなかったら、さすがに今回の計画をうまく運ぶことは難しかっただろう。
「運も味方してくれたのが大きかったわね。あの時あの人に出会わなかったら、きっとこうはうまく運ばなかったもの」
トリシアの脳裏に、この計画に手を貸してくれた協力者の顔が浮かんだ。




