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「さて、ではこの場をもって悩ましい問題はすべて片づきましたわね。私たちの不毛な結婚も、お金の問題も。……ですわね? ガイジア様」
「……あ、あぁ」
もう用は済んだとばかりに、トリシアが椅子から立ち上がった。
口元にゾッとするような美しい笑みを浮かべたトリシアは、自分が知っているのとはまったくの別人に見えた。
ガイジアは、思わぬ言葉を口にしていた。
「もう一度……もう一度だけ、君と私の関係を一からやり直すわけには……?」
トリシアが噴き出した。
「ぷっ……! 嫌ですわ。今になってそんなことをおっしゃるなんて……。もちろんご冗談ですわよね?」
言葉ににじむあからさまな拒絶の色に、ガイジアははっと表情を変えた。
「あ……も、もちろんだ。そのようなこと無理に決まっている……な」
決まり悪そうにぶつぶつとつぶやくガイジアを、トリシアは興味なさそうに見やると扉へと足を向けた。
「ではこれで失礼いたしますわ。……あぁ、そうでした。世間には、私は署名を済ませた離縁届だけ残して行方をくらましたと広めてくださって結構ですわ。それきり行方がわからないのだと」
「しかし、君の家族は? いくらなんでも娘の行方がわからないとなれば、大騒ぎになるのでは……」
ガイジアの言葉に、トリシアはもう一度小さく噴き出した。
「ふふっ。私には身を案じてくれるような家族はひとりもおりませんわ。それにあちらはあちらでこれから大変な騒ぎに見舞われるはずですから、私ごときに構っている暇はないと思いますし」
「大変な騒ぎとは?」
その問いかけに、トリシアは何も答えず笑みで返した。
「私、もう何もかもから自由になって好きな場所へ行って好きに生きようと思いますの。私らしく」
「自由……」
ガイジアにはわからなかった。
名領主だった父の後を当たり前のように継ぎ、領主としての安泰な日々はこれからも続くと信じて疑わずに生きてきたのだ。
もちろん貴族という身分ゆえに与えられた豊かさと同時に、枷もある。この婚姻だってそのひとつだ。けれどトリシアとて貴族である豊かさと引き換えに、枷の中で生きていくしかないではないか。
けげんそうな顔で見やるガイジアに、トリシアは鮮やかな笑みで答えた。
「ふふっ。この頭と強い思いひとつあれば、人生などどうとでもできますわ。少なくとも、私にはその力が十分にあると自負しておりますもの」
「……ひとりで、か?」
瞬間、トリシアの顔に花が咲き誇るような笑みが広がった。
「ふふっ。それはどうかしら?」
トリシアの顔にふわりと広がった笑みに、思わずガイジアの頬が染まった。
その笑みは、ガイジアが一度も見たことのない言葉にいい表しようのないほど美しいものだった。
果たして自分の妻となった女性は、こんなにも美しかっただろうか。こんなにも目を吸い寄せられるような凛とした、まるで気高く険しい山岳地帯に咲く百合の花のように。
思わずガイジアはトリシアに見惚れた。
婚礼の時だって、顔の造作はそれほど悪くないとは思っていた。花嫁衣裳をまとい物静かに隣で立っている間も、貴族令嬢としての品がその体からにじみ出ていたし。
その後何度か屋敷の中でちらと顔を合わせた時だって、地味で華やかさには欠けるがそれなりには見えた。きっと地味に見えたのは、結婚したばかりの妻として着飾る機会もまるでなく、部屋に閉じこもっているしかなかったせいだろう。
何しろトリシアは、辺境地にきてからというもの何の世話もされず、ずっと屋敷の中に閉じこもっているしかなかったのだから。少なくとも家を出るまでの間は。
なぜか呆けたように言葉を失い立ち尽くすガイジアに、トリシアは笑みを浮かべ告げた。
「これまで家族やこの屋敷の使用人たちにも放っておかれることの多かった私ですけれど、実は信頼を寄せてくれる者はそれなりにおりますの。私の行くところどこへでもともに歩んでくれる頼もしい者たちが、ね。ですからひとりきりだなんてあり得ませんわ」
「ではその者たちとともに新しい人生へと歩み出す……と?」
「はい」
またしても大輪の百合の花のように、凛と微笑むトリシアに、思わずガイジアはすがりたいような気持ちに襲われた。これまでトリシアに何の興味も関心も抱いてはいなかったというのに。それどころか愛想もなくどこか自分を寄せつけない空気をまとっている気がして、腹立たしいとさえ思っていたのに。
「ジール。別にあなた方のしたこと、いえ……しなかったこと、というべきかしら。それらに関して、私は何とも思ってませんわ。これまでの人生を思えばなんてことはありませんもの。ですから、あなた方はこれからもガイジア様の言う通りに従っていればいいわ。それがあなた方の選んだ道なのでしょうから」
なんとなくその言葉には裏があるように感じて、ジールは鼻白んだ。
「そ、それは……」
ジールにとってガイジアは、心酔していた先代の血を引く後継ぎだった。若くしてガイジアの父である先代に引き立てられこれまでこの屋敷でずっと働いてきたのだ。屋敷に並々ならぬ愛着も持っている。
けれど果たしてガイジアに、先代領主へと傾けていただけの信頼と情があるだろうかと言われると――。
もやり、と胸に広がる何とも言えない不安と嫌な予感に、ジールは何かを言いかけそして口をつぐんだ。
「さて、では私はこの辺で失礼いたしますわ」
トリシアがすっと静かに立ち上がった。一瞬トリシアへと手を伸ばしかけたガイジアに、トリシアの凛とした眼差しが注がれた。
「……」
ガイジアは無言で手を下ろし、ぐっと拳を握りしめた。もはやトリシアを引き止める理由などなかった。すべての話はもう済んだのだ。トリシアが言う通りにすればきっとこの辺境地もどうにかなる。今はその方が大事だ。
そう自分に言い聞かせ、ガイジアは口元を引き結んだ。
トリシアの口元に、わずかだが安堵の笑みが広がる。
「ガイジア様、皆様。この地と皆様の平穏とお幸せを、遠くからお祈りしておりますわ。では、ごきげんよう」
トリシアはドレスの襞をそっとつまみ上げ、美しく一礼してみせた。そして艶やかな微笑みを残し、屋敷を後にしたのだった。
屋敷の門をくぐり抜けたトリシアは、その先に一台の馬車が止まっているのに気がついた。そのかたわらに立っている青年の姿にも。
自然とトリシアの足取りが軽く、早くなる。
「すべて思い通りの決着がついたわ。あなたの完璧な仕事のおかげよ。ヒュー」
しばらくぶりに見たその顔に、トリシアの口元が綻んだ。




