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驚くほど緻密に調べ上げられた概算書を見つめながら、ガイジアの頭の中は忙しなく動いていた。
パッと見た感じではトリシアの用意した概算書は正しく見えた。さすがにトリシアひとりでこれを完成させたとは思えないから、きっと誰かの手を借りて作ったものに違いないが。
数字を目で追いながら、ガイジアはトリシアいう通り離縁して慰謝料をもらうべきか否かを必死に考えあぐねていた。
(だがもしも妻を虐げた挙句逃げられたなどど知れたら、陛下からお叱りを受けるのは間違いない。むしろそれだけで済めば幸いといったところか。世間からもいい笑い者になるに決まっている。だがもしトリシアの言う通り、早々に領地を立て直せればあるいは……)
財政を立て直すだけの策もない上、脱走だの賄賂だのと言った兵たちの問題行動も日に日に増えている。処罰しようにも、兵たち同士が結託してまともな証言すら得られない。
さすがのガイジアもこのままではまずい、と焦りを感じはじめていた。
けれどこの概算書にある通りにやればどうにかなるというのなら、話は別だ。
思いを固めつつあるのであろうガイジアを、トリシアはじっと見つめていた。
領民からの信も篤く賢明だった先代領主とは違い、息子であるガイジアはプライドばかり高く盲目だった。その上問題が起きても見て見ぬふりだ。そんなガイジアをもう兵たちも領民も信じはしないだろう。
しかもこんな瀬戸際の状況に置かれても、領主としての自分の立場は決して奪われることはないとあぐらをかいている。おそらくは王命も守れず妻に逃げられた男として恥をかくのが嫌だ、などと馬鹿げた心配をしているに違いない。
実際のところは、そんなことで済むはずはないというのに――。
もしもガイジアが愛はなくともトリシアを辺境地を守る同士として認めてくれていたなら、ガイジアのよき補佐となる人生を選んでいたかもしれない。
けれど、ガイジアは想像以上に無能で尊大だった。そんな男と心中するつもりは毛頭ない。
もう完全にトリシアはガイジアを見限っていた。もちろんそんな無能な主に盲目的に従い、自分の頭で何ひとつどうすべきか考えられないこの屋敷の使用人たちも。
トリシアはそっとほくそ笑むと、畳みかけるように告げた。
「私の試算では一年か二年と申しましたけれど、ガイジア様がその気になればもっと早くにこの辺境地の抱える諸問題を解決できるはずですわ。離縁と引き換えに、それだけの額を手にできるのですもの」
「一年よりも……もっと早く?」
自信がないのかこちらの顔色をうかがうようにガイジアが見やった。
「急ぎの用件を片付けたらあとは、しっかりと兵たちや領民の話を聞くことです。皆の要望や不満にしっかりと耳を傾け、領主として必要な策を講じればきっと信頼もついてくるでしょう。きっとガイジア様のお父様もそうして信を築き上げてこられたに違いありませんから、それと同じように地道に歩んでいけばいいのですわ」
トリシアの言葉を、ガイジアは黙って聞いていた。そしてしばし考え込み、大きくうなずいた。
「そ、そうだな。君の言う通りだ。一年、いや……半年もあればいくつかの問題はどうにかできるはずだ。となれば、この領地の問題がすべて片付くのも時間の問題だな。うん」
ガイジアの顔に、みるみる楽観的な笑みが広がった。そのくらい簡単だ、と顔に書いてあった。
けれどトリシアには、そううまくはいかないであろうことはわかっていた。
二年なんてあっという間だ。無能な人間が大金を手に入れたとて結果は見えている。まして兵や領民たちの幸せなどまるで考えてもいないガイジアに、まともな領地運営が今さらできるはずもない。金さえ出せばどうにかなるほど、簡単なことではないのだ。
(ともかく、これでどちらにでも転ぶ種は撒いたわ。あとがどうなろうと私の知ったことではないわね。もう赤の他人なのだし)
心の中でそうつぶやいて、トリシアはさも同意するかのように笑みを浮かべてみせた。
「そうですわね。私との離縁にまつわる噂も気になさることはありませんとも。皆あっという間に忘れてしまいますわ」
「しかし、君の父上が黙ってはいまい。それでなくてもすでに我が辺境領に相当額を持参しているのだからな。しかも君に非がないのに慰謝料という名目で金を請求されるだなんて、納得するはずがない」
当然と言えば当然の問いに、トリシアは笑みを浮かべ答えた。
「実のところ私の両親はとても妹贔屓で、地味でぱっとしない私はただの便利な駒として利用してきたのです。おかげで父の仕事の肩代わりをさせられてきたのですわ」
「実の娘なのにか? 確か君の妹は、父上とは血のつながらない連れ子だろう?」
「それでも父にとっては、私よりも連れ子のリリアの方が大事なのです。でもそのおかげで父が影で後ろ暗いことをしていることを知ることができたのですわ。それをネタにちょっぴり脅したら、すぐに承諾してくれました。ですから何の心配もいりません」
瞬間ガイジアの口があんぐりと開いた。
「実の父を脅した、だと⁉」
「はい。ガイジア様が父の不正に気付き、自分の伴侶の義実家が国を裏切っていることに憤慨している。それを国に明かされたくなければ、せめて国の守りに使えとお金を要求している、と手紙を書いたのです。表向きは、娘が婚姻を放棄して逃げ出したことについての慰謝料として渡すように、と」
そんな嘘までついて実の父親から金をだまし取ろうとしたトリシアに、ガイジアの顔が大きく引きつっていた。まるで得体の知れないものをみるような怯えの色さえ浮かんでいる。
「父はすぐに納得してくれましたわ。もしも国の税金をごまかしていることがバレたら、妻とかわいい妹もろとも牢屋行きですものね。ですのでこれは、私が強引に離縁を進めた迷惑料だと思ってくださってかまいませんわ」
「迷惑料……」
ごくり、とガイジアの喉が鳴った。もはや反論する気力すらごっそりと失われたその顔に、トリシアは計画がうまく運んだことを悟ったのだった。




