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ヒューがトリシアにはじめて出会ったのは、十歳の時だった。家令として働いていた父に勧められ、屋敷に手伝いに上がることになったのだ。
『はじめまして。あなたがヒューね。ふふっ。お父さん似なのね、あなた』
『……どうも』
自分とそう年の変わらない、けれど自分よりもずっと大人びた雰囲気を漂わせたトリシアになぜか気恥ずかしくなってぶっきらぼうに答えた。が、当然屋敷に雇われている家令の身内の態度としてはほめられたものではない。すかさず父に頭をぐいと押さえつけられ、頭を下げさせられた。
なんとも格好悪いところを見られてしまった、とへそを曲げていると楽しげな笑い声が聞こえてきた。
『ふふっ! これから仲良くしてね。ヒュー』
『……はい』
胸がどきりと音を立てた。以来顔を合わせれば言葉を交わすようになった。もちろん相手は雇われた先のお嬢様だし、一線を引いてはいたけれど。
トリシアは目立つ容姿の娘ではなかった。ひとり静かに本を読んで過ごすことの多い物静かな性質で、いわゆる貴族令嬢としてのにぎやかで華やかな社交には興味がなかった。とは言っても人付き合いが苦手というわけではない。あくまで貴族同士のくだらない馴れ合いに意味を見出していないだけだった。
生来の思慮深さと賢さ。それに加え、物事の本質をずばりと見抜く勘のよさを持ち合わせていたトリシアは、いつもそう変わらぬ年の自分のはるか先を行っているように見えた。だからはじめは少し苦手だった。自分の幼さや未熟さをまざまざと見せつけられているようで。
数年が過ぎ、トリシアの母が死んだ。そして当主であるゴルドが再婚し、後妻を迎えた。
一体こんな女のどこがよかったのかと本気で聞きたくなるような、醜悪な女だった。
女はいつも鼻が曲がりそうなほど香水を振りかけ、トリシアよりもふたつ年下の娘とともに我が物顔で屋敷を闊歩していた。
アーゴットとリリアは、トリシアが使用人たちや領民皆に慕われ全幅の信頼を寄せられているのが気に入らなかったのだろう。いつしかふたりは、トリシアをまるで使用人のようにぞんざいに扱うようになった。
暗にお前にはこの屋敷を好きにはさせない、もはやこの家の財産も領地もすべて自分たち親子のものなのだとトリシアに思い知らせるためだったのかもしれない。
もちろん使用人たちは皆トリシアを慕っていたし、影で支え励ましていた。
けれど雇われている立場で、表立ってどうにかしてやれるわけもなかった。
それでもいつもトリシアは笑っていた。自分は平気だといって、真っすぐに背筋を伸ばし微笑んでいた。
そんなある日のこと。
『……っふ、う……うぅっ。くっ……ふっ……』
ある晩どうしても寝付けずに起き出したら、中庭から誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。
そっとのぞき込めば、そこにはトリシアがいた。寝間着の上にストールを羽織っただけの無防備な姿で。ひとり背中を縮こまらせて泣いていた。
月明りに照らされたトリシアの体が妙に小さくか細く見えた。
『あの……トリシアお嬢様。どうなさったんですか。こんな夜更けに……』
衝動をどうにか押し込めおずおずと声をかければ、トリシアがゆっくりと振り向いた。
『……なんでも、ないわ。大丈夫……』
大丈夫なんて微塵も思えない悲しげな顔のトリシアを見たら、たまらない気持ちになった。
『……ごめん。いつもひどい目に遭ってるのに、助けようともしないで……』
『え……?』
無性に自分の無力さが恥ずかしくなった。
『……ヒュー』
『トリシア……お嬢様』
その日、トリシアは自分に思いを打ち明けてくれた。
血の繋がらないアーゴットやリリアが自分をどう思おうといいが、実の父親にこうも煙たがられていることが悲しい。
母がいてくれたらどんなにか心の救いになっただろうか。そう思うと、時々たまらず涙が出てしまうのだと。
そんなトリシアを、拙い言葉と態度でどうにか精一杯なぐさめた。気がつけば夜は明け、空は白みはじめていた。
『ありがとう、ヒュー。あなたのおかげですっかり気持ちが軽くなったわ。変なところを見せてごめんなさい』
『いや……、もしまた辛くなったら、いつでも俺が話を聞くから呼んでほしい。真夜中でも、いつでも飛んでいくから』
心からそう告げれば、トリシアは花が綻ぶように笑った。
その日を境に、トリシアと自分の空気が少しずつ変わりはじめた。もちろん互いの立場から一線を引くことは忘れはしなかったけれど、確かに心はつながっていた。
そんな時舞い込んだ、辺境伯との婚姻話。
ふたりいる娘のうちどちらかを、という王命ではあったが、自堕落で贅沢をすることにしか興味のない馬鹿なリリアがうなずくはずもなかった。
トリシアが辺境地へと旅立った日の記憶がまざまざとヒューの脳裏によみがえり、思わず拳にぐっと力がこもった。
本当ならばトリシアを辺境地になどやりたくはなかった。自分がトリシアを守るのだと心に誓っていたにも関わらず、王命ゆえに何もできない自分に腹が立って仕方がなかった。
けれどヒューは黙ってひとり旅立つトリシアの背中を見送った。
それもこれも、トリシアが自由に生きるための計画を遂行するため力になるという約束を果たすためだった。
ヒューの口元に、笑みが浮かんだ。
(あと少し……。あと少しで金の在処も突き止められる。そうすればすぐにトリシアを迎えに行ける。あと少しの辛抱だ。あとほんの少しの……)
トリシアをこれまでずっと苦しめ続けたアーゴットとリリア、無能で怠惰な実の父親。そしてトリシアほどの女性を嫁に迎える機会に恵まれたというのに、その価値をまるで理解しないどころか使用人たちと一緒になって虐げたガイジア。
それらの者たちにトリシアが撒いた種が思いもよらぬ形で発芽するのは、もっと先だ。
ヒューはその未来を思い、くくっと黒い笑みを口元に浮かべたのだった。




