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翌朝、トリシアは王都から届いたばかりの美しいドレスを身にまといハンナの前に現れた。
「ハンナ、ではこれでお別れです。あぁ、それからこのあとでヒューという人が私を訪ねてくるはずなの。その人に、部屋の荷物とこの手紙を渡してくれるかしら」
いつもの町人に扮した地味な姿ではなく美しく着飾ったトリシアに、ハンナが息をのんだ。けれどはっと我に返り、こくこくとうなずいた。
「え、えぇ! もちろんですとも」
「町の人たちにも感謝していると伝えてちょうだいね。私が去ってしばらくは大変かもしれないけれどそのうちきっと風向きが変わる時がくるから、どうかそれまで頑張ってって伝えて」
トリシアの言葉に、ハンナは真剣な顔でうなずいた。
「何のことやらよくわかりませんけど、トリシア様のおっしゃることですからね。ようく皆に言い聞かせておきますよ。ところで……」
ハンナの顔に奇妙な笑みが浮かんだ。
「もしかしてそのヒューという方は、トリシア様の大事な方なんですか?」
一瞬にして、トリシアの頬がぽっと染まった。それまでどんな時も冷静沈着で動揺するような素振りなど一度も見せなかったトリシアが、である。
「ど……どうしてそんなこと?」
まるで少女のような驚きの目でハンナを見やったトリシアに、ハンナがおかしげに笑い声を上げた。
「あっはっはっはっ! 図星だったみたいねぇ。いやね、なんだかトリシア様のお顔がいやに嬉しそうに弾んでらしたから、そうかなってさ! そう。トリシア様をそんなにかわいらしいお顔にさせるような方が、ちゃあんと一緒にいらっしゃるんだね。なら安心だ」
「安心?」
「えぇ。あたしらにこんなによくしてくださったトリシア様がこの先どこに行っても幸せでいてくださるのが、あたしらにとっても嬉しいんだからね。そんな人がいるならきっと大丈夫さ」
「ハンナ……。ふふっ、ありがとう。そう言ってくれると、私のこれまでもそう悪いことばかりじゃなかったって心から思える気がするわ」
ハンナと別れの抱擁を交わし、トリシアはいよいよ馬車に乗り込んだ。
自分の人生を縛りつけてきた窮屈なすべてのものから自由になるために。
◇ ◇ ◇
トリシアが三通の手紙を受け取る数日前、トリシアの父ゴルドは頭を抱えていた。その手には、辺境領に嫁いだトリシアからの手紙が握りしめられていた。
「なぜ……なぜこんなことに、ガイジア殿はなぜ我が家を調べたりなどしたのか。まさかトリシアが何か入れ知恵を……⁉ いや、しかしまさかトリシアにそんな知恵が働くはずはない」
ゴルドにとってトリシアは、ほんの少し頭が回るだけの都合のいい駒だった。その頭とて男に敵うほどのものではない。だからあのトリシアが何か策を巡らせて、夫となったガイジアに何かを働きかけたなどということは考えられなかった。
ならばこの手紙に書いてあることは、一体何なのか。
「ちょっと、あなた! これは一体どういうことですっ。なぜ我が家がまたしても辺境地にお金をやらねばならないのです! 嫁入りの時に王命であんなに大金を渡したのに、まだ足りないの⁉」
屋敷中に響き渡る後妻アーゴットのキンキンとした耳障りな声に、ゴルドはたまらず耳を覆った。
「そんなこと、私が知るわけがなかろうっ! くそっ。こんなことになるのなら、辺境伯になどトリシアをやるのではなかった。一体どうすれば……」
トリシアから届いたばかりの手紙をぐしゃいと握りつぶし、ダラダラと垂れる冷や汗を手の甲で拭った。そんな状況など気にも留めず、リリアはひとりいつもの様子で猫なで声を上げた。
「ね、お父様! 私、次の夜会に着ていくドレスを仕立てたいの。今度も誰よりも目を引くような豪華な仕立てにするつもりよ。その分うんとお高くはなるけど、いいでしょう?」
「リリア、お前は今の会話を聞いていなかったのか! 今そんな状況ではないとなぜわからんっ。ドレスなど先月も先々月も仕立てたばかりではないか! もう無理に決まっているだろう」
「ひどいわっ! お父様、かわいいリリアのためならいくらでもお金を惜しまないっておっしゃってくださったじゃないの!」
わざとらしくさめざめと泣くリリアの肩を、ひしっとアーゴットが抱きしめた。
「あのトリシアからの頼みなど、断ってしまえばいいのです! 辺境伯といえども、こちらが何でも言いなりになる必要なんてないでしょうっ。何を悩む必要があるのです! すぐに断りの手紙を出せばいいのよ!」
アーゴットの言葉に、言い返すことはできなかった。
「しかし王命による婚姻となれば、無視するというわけにはいかんのだ! とにかくお前たちは、あまりに金を使い過ぎる。もう少し控えてくれ!」
「まぁっ、なんてことをおっしゃるの! もういいわ。リリア、いらっしゃい!」
「はぁい。お母様!」
きっと憂さ晴らしに町へ散財をしに行くのだろう。憤りをにじませ部屋を出て行ったふたりを見送り、ゴルドは大きなため息を吐き出した。
「さて……どうするべきか。こんな手紙見なかったふりで破り捨てたいのは山々だが、そうもいくまい」
辺境伯ガイジアとトリシアの婚姻は、王命だった。ふたりいる娘のうちどちらかを辺境伯に嫁入りさせ、その際には支度金として大金を用意せよと。
なぜ娘を嫁にやった上金まで払わねばならないのか、と当然のことながら後妻であるアーゴットは猛反発した。無論そんな余裕など今の我が家にあるはずもない。が、嫌だと突っぱねられない事情があった。
ここ一年ほどの間に、屋敷の経済事情は著しく悪化していた。もはや満足な貴族らしい生活が立ち行かなくなるくらいには。それを補填するためにゴルドは密かに領民から税を多く取り立て、本来国に納めるべく税金は農作物の不作のためと嘘をついて差額分を着服していたのだ。
このことはアーゴットも、アーゴットの連れ子であるリリアも知らない。もしそんな金があると知ればあっという間に散財するのは目に見えていたから、決して知られてはならない秘密だった。
まともに税金を納められないほどの苦境ならば、当主とその家族の暮らしぶりも当然質素になるはず。けれどアーゴットとリリアは湯水のように金を使い続けた。その噂が国王の耳にも届いたらしい。
貴族というものは、国の駒だ。特定の貴族家に力を持たせないようにか、少しでも国の目につく行動を取れば簡単に国のためという名目で財産を取り上げられるのが常だった。国の守りともいうべく辺境地に娘を嫁入りさせる名誉と引き換えにまとまった金を出せ、という王命が下ったのは、それゆえなのだろう。
とは言え、はじめは目障りなトリシアを追い出せるのならばそれはそれと思った。あれは領地経営にも口を出してきては金を使い過ぎだの領民のことを考えろなどと、いつも口うるさかったから。
けれどトリシアがいなくなってからというもの、なぜかこの家を取り巻く状況が悪化している気がしてならない。
アーゴットとリリアは以前にも増して財産を食い潰し、ひそかに裏で悪事を働いている節もある。その上新たに据えた家令ヒューも、何か裏で嗅ぎまわっているような気がしてならない。そのうちに何もかもを足元からひっくり返されそうな、嫌な予感をひしひしと感じていた。
極めつけが、この手紙だった。
トリシアからの手紙には、税金の横領をガイジアが突き止め、今すぐ止めるようにと書いてあった。もしも妻の生家の悪事がばれれば、辺境領の名を貶めることにもなる。なんということをしてくれたのか、と大層憤慨していると。
その事実を公にされたくなければ今すぐに悪事を止め、口止め料として大金を辺境領に寄越せとも書いてあった。
「もしこのことが公になれば、我が家は破滅だ……! くそっ!」
ゴルドはイライラと落ち着きなく爪を噛みながら、渋々とトリシアへ返事をしたためた。すぐに送金の支度をするから、どうかガイジアを止めてくれと。
「こうなったら仕方ない。すぐにあいつのところへ行って、金を用意せねばな」
ちょうどアーゴットとリリアも屋敷を出て行ったことだし、今すぐに向かえば勘付かれずに済むはずだ。
「ちっ……!」
ゴルドはこれ以上ないほどの陰鬱な顔で舌打ちをすると、さっそく屋敷を後にしたのだった。




