君の愛情に私は
駅から少し歩いたところで、澪が「ここだよ」と立ち止まった。
見上げた先には、よくあるワンルームマンション。
外階段を上っていく澪の背中を追いながら、私は心臓の音をごまかすように、靴音をそっと小さくした。
「……ほんとに、一人暮らしなんだね」
「うん。家から通うとちょっと遠いしさ〜。おばあちゃんの家もこっちのほうだし。シオンにはちゃんと見せたかったんだよね、私の巣♡」
「巣……」
言い方が可愛くて、思わず口元が緩む。でも、胸の奥はきゅうっと緊張していた。
澪の“巣”。
つまり、澪だけの空間。
そこに、今から私が一晩泊まる。
そう考えた瞬間、角の奥までどくん、と甘い動悸が響いた。
澪が二階の一番奥のドアの前で立ち止まる。ガチャリ、と鍵が回る音がして、ドアが少しだけ開いた。
「いらっしゃい、シオン。ようこそ私の城へ♡」
軽口にごまかされても、胸の鼓動は落ち着いてくれない。私は小さく息を吸ってから、そっと敷居をまたいだ。
──ふわり。
鼻先をくすぐる匂いが、一瞬で私を包み込んだ。柔軟剤の甘い匂いと、柑橘系のシャンプーの匂い。それから、微かに残る朝食のトーストとコーヒーの残り香。
全部、澪の匂いだった。
「スリッパ、そのへんの使って〜。あ、荷物ここ置いていいよ」
「う、うん……」
言われるままに靴を脱ぎ、玄関近くのスリッパをおそるおそる履く。視線を上げると、そこには澪の生活の跡が広がっていた。
テーブルの上には、教科書やノートが少しだけ積まれていて、その横にはマグカップ。ベッドの上には、畳まれかけて途中で力尽きたらしい洗濯物の山。小さなキッチンには、調味料の瓶がいくつか並んでいる。
決して広くはないワンルーム。でも、どこを見ても“澪がここで暮らしている”ってわかるものばかり。プリクラも貼ってある。学校のロッカーに貼ってあったのと同じ、私と澪の笑った顔。
ここでも、澪は私のことを“飾ってくれている”んだ、と思ったら、角の奥までふわっと熱くなった。
「とりあえず、荷物そこ置いといて。晩ご飯、ちゃちゃっと作っちゃうからさ。シオンは座ってて」
澪がエプロンを手に取り、器用に腰で結ぶ。“ふつうの女子高生の部屋”に、“ふつうの夕飯を作る姿”が加わるだけなのに、目が離せなかった。
「……なぁに?」
じっと見つめていたらしく、澪がクスリと笑う。
「私が料理してるとこ、そんなに珍しい?」
「べ、別に……ただ。澪がキッチンに立ってるの、初めて見たから……」
「じゃあレアショットだから、よーく見ておいて♡」
そう言って、澪は髪をひとつにまとめ、袖をまくってコンロの前に立った。火をつける音、フライパンを取り出す金属音、冷蔵庫の扉が開く音。生活の音。
私はテーブルの椅子に腰を下ろしながら、落ち着かない手でスカートの裾をいじった。澪の匂いに満たされたこの部屋の空気だけで、胸が妙にくすぐったい。
角は髪の下に隠してあるけれど、そこから伝わってくる感情は、さっきの学校とはまるで違った。
少しの緊張。「上手くできるかな」という不安。そして、それを上回る、「美味しいって言ってほしい」という期待。
私はその期待に、ちゃんと応えられるだろうか。味もわからないうちから、そんなことを考えて、ひとりで胸を掻きむしりたくなる。
「シオン、辛いの平気だっけ?」
じゅう、と油の音がする中、澪が振り返る。
「ちょっとなら、大丈夫」
「了解。じゃあ、今日は優しめにしとくね。ほら、今日は“癒やしごはん”だから♡」
“癒やし”。
その言葉が、じんわりと胸に染み込む。
さっきまで、胸の奥にこびりついていた黒いもの。教室で向けられた視線や言葉が、まだ完全には消えていないのを、私は自覚していた。
でも今、キッチンで慣れない手つきで玉ねぎを刻んでいる澪を見ていると、その黒いものに、毛布をふわっとかけられているような気持ちになる。
「……なに作ってるの?」
「んー、できてからのお楽しみ♡」
「ヒントは?」
「ヒントは〜……“あったかくて、落ち着くやつ”」
あったかくて、おちつく。スープかな。シチューかな。そんなふうに想像しているだけで、お腹がきゅるる、と静かに鳴った。
「ふふ。今の聞こえた♡」
「き、聞こえなくていい……!」
「いいんだよ〜。いっぱい食べさせるからね。シオンには何も難しいこと考えずに、“お腹いっぱいになって幸せ〜♡”って顔してほしいもん」
何も、考えずに。
それが、どれだけ贅沢なことか、澪はきっと全部は知らない。でも、知らなくてもいい。
知らないまま、そう言ってくれることが、すごく嬉しい。
私は椅子の上で膝を抱えるように座り直して、澪の背中を見守った。フライパンの中で具材が踊る音と、ぐつぐつと煮える鍋の音。部屋の匂いに、だんだんとバターと牛乳の甘い香りが混ざっていく。
……やっぱり、シチューかな。
そう思った瞬間、澪が「うん」と小さく声を上げた。
「できた〜〜!」
振り返った澪の手には、白い湯気の立つお皿が二つ。その中には、予想通り──でも想像よりもずっと美味しそうな、クリームシチューがたっぷりと盛られていた。
「わぁ……」
思わず、声が漏れる。
とろりとした白いルウの中に、ほくほくしたじゃがいもとにんじん、鶏肉。それから、ちょっとだけ色味にブロッコリー。ごくごく普通の、でもどこか「手作り感」がにじむ見た目。
「とりあえずシチュー。あとでパンも焼くけど、まずはこれからね」
澪がテーブルの上にシチューを置き、手早くスプーンとコップを並べる。コップの中には、水ではなく、薄いレモン色の何か。
「これなに?」
「なんかオシャレっぽいからレモン水にしてみた♡ ただの水でもよかったんだけどね〜」
「……レストランみたい」
「でしょ? はい、座ったままでいいよ。パン取ってくるから」
小さなトースターからパンの香ばしい匂いが立ち上る。澪が戻ってきて、焼きたてのロールパンをかごに移した。
木のテーブルの上に並ぶ、湯気の立つシチューとあたたかいパン。それだけの光景なのに、胸がじんわりと熱くなる。
「……いただきます」
両手を合わせると、澪も笑って同じように手を合わせた。
「はい、どーぞ♡ 熱いから気をつけてね」
スプーンを手に取り、そっとシチューをすくう。白いルウの中から顔を出した鶏肉とじゃがいもを一緒にすくって、恐る恐る口に運んだ。
──あつ。
舌の上に、ふわっと熱が広がる。それから、じんわりとした塩気と、牛乳の柔らかい甘さ。
バターのコクが舌にまとわりついて、噛むたびにじゃがいもがほろほろ崩れていく。
決して、プロの味じゃない。完璧な味付けというわけでもない。
でも、ひと口でわかる。
これは、澪が「私のために」作ってくれた味だ。
喉を通って、胸のあたりに熱が落ちてくる。さっきまで冷たくひきつっていたその場所に、じんわりとした温もりが広がった。
「……あったかい」
「ん? 熱かった? ごめん、ふーふーしてあげよっか?」
「……胸が、あったかくなった」
そう言ったら、澪がきょとんとした顔で瞬きをした。
「え、なにそれ。……もしかして、褒められてる?♡」
「すごく、おいしい。ふつうの人が食べたら“優しい味”って言うんだろうけど……私には、“安心する味”って感じ」
自分でも何を言っているのかわからなくなりそうで、スプーンをぎゅっと握る。
でも、止まらなかった。
「今日、学校で嫌なことあって……胸のここ、なんか黒いのが張り付いてるみたいだったけど。澪のシチュー食べたら、そこがちょっと軽くなったみたい。まだ完全には消えないけど──でも、苦しくない。……だから」
だから、ありがとう。
そう言おうとしたところで、澪が両手で顔を覆った。
「え、ちょっと待って、無理……」
「……?」
「そんな直球で褒められると、照れて死ぬ……♡」
指の隙間から見える耳が、ほんのり赤くなっている。さっきまでキッチンでテキパキ動いていた人とは思えないくらい、もぞもぞしていた。
「し、シオンってさ……たまに爆弾みたいな褒め方してくるよね……。心臓に悪い……でも嬉しい……♡」
「爆弾……?」
「胸がぽかぽかどころか、ばーんってなった……」
そう言って、澪はやっと顔から手を離した。頬はまだ赤くて、視線は少し泳いでいる。
「でも、ほんとに……美味しいって言ってくれて、嬉しい。私、料理そんなに得意じゃないからさ。レシピ動画とにらめっこして頑張ったんだよ?」
「その“頑張り”も一緒に、味になるんだと思う」
「なにその可愛い感想~……好き♡」
小さい声で最後の言葉を聞いた気がして、今度は私の番で顔が熱くなる。角の奥まで、ぽうっと明るくなったみたいだった。
「……おかわり、してもいい?」
「……! もちろん! そう言ってもらえるの待ってた〜♡はいはい、たっぷりどうぞ。今日の私は太っ腹です!」
澪が笑いながらシチューをよそってくれる。お皿から立ちのぼる湯気が、ふたたび鼻をくすぐった。
二杯目のシチューを食べながら、私は何度も「おいしい」と呟いてしまう。そのたびに澪がちょっと照れて、でもすごく嬉しそうに笑うから、やめられなかった。
パンをちぎってシチューにつけたり、レモン水を飲んで「ちょっと酸っぱい」と顔をしかめたり。
そんな他愛もないやりとりが、全部宝物みたいに胸の奥にたまっていく。
「ふー……食べた食べた。お腹いっぱい?」
「うん……すごく。なんか、身体の中まで“澪”で満たされた感じ……」
「それは……言い方がちょっとアレだけど、ニュアンスは嬉しいからヨシ♡」
食器を重ねながら、澪がくすくす笑う。
「このままゴロゴロしたくなるけど、その前に……」
「……?」
「片付けと、お風呂、先に済ませちゃおっか。シオン、先に入る? それとも一緒に洗い物してくれる?」
「洗い物、手伝う。澪に全部させるのは、なんか違う気がする」
「えら〜い♡ じゃあちゃちゃっと終わらせて、さっぱりしよ。でさ、そのあとさ、一緒に映画観ない?」
「映画?」
「うん。おすすめのやつがあってね〜。シオンにも見せたいな〜って思ってたやつ。シチューでぽかぽかになって、お風呂でさっぱりして、映画でまったり。どう? “お泊り会”って感じしない?」
そう言って微笑む澪の横顔を見ながら、私は胸の奥で、さっきまで重かった黒いものが、本当に薄くなっていくのを感じていた。
シチューの温かさ。
澪の笑い声。
この部屋いっぱいに広がる、澪の匂い。
全部が混ざり合って、私の心も身体も、ゆっくりと解けていく。
「……じゃあお片付け、しちゃおっか」
澪がそう言って、シンクへとお皿を運んでいく。私はその背中を追いかけて立ち上がった。
テーブルの上には、もう湯気は残っていない。でも、胸の中には、さっきからずっと、あったかいものがぽかぽかと灯り続けてる。
──きっと、もっとたくさん、胸があったかくなる瞬間が待っている。
そう思ったら、自然と尻尾の先がふわりと揺れた。
それに自分で気づいて、こっそりスカートの下で握りしめながら、私は澪の隣へと歩いていった。




