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悪役令嬢は、私が破滅させる

 高校時代の私を、誰もが『完璧』だと言った。


 学年トップの成績。全国模試でも上位常連。清潔感のある制服の着こなし、生徒会での仕事ぶり、誰にでも公平な態度。

 先生にも後輩にも、もちろん親にも誇らしく思われて、私は「理想の生徒」として毎日を送っていた。


角館(かくのだて)さんって、なんでもできてすごいね」


「尊敬しちゃう・・・・・・あたしも頑張らなきゃ」


 そう言われるたびに、私は微笑んで答える。


「いえいえ、そんなことないよ。私なんて、まだまだなんだから」


 ほんの少しだけの優越感を感じながら。



 だからーー当然のように、東都大学にも合格した。

 日本中の秀才たちが集う名門校。倍率は十倍を超えていたけれど、私はそれを跳ね返した。本当に誇らしかった。

 両親や教師、生徒たちが祝福してくれた。

 あの合格通知書を手にしたとき、私は『世界の主人公は自分だ』とすら思っていた。


 でもーーその幻想は、入学して数ヶ月も経たないうちに崩れた。



 春を越え、夏。大学の講義は想像以上に苛烈だった。周囲は私と同じようにトップで通ってきた者ばかり。

 この中で”天才”だった私は、今や”平均”であり、時には”凡庸”だった。


「・・・・・・わかんない。これ、何の話してるの・・・・・・?」


 ノートを取る手が止まる。試験の成績は下がって、ゼミでの発言は空回り。かつては遠くにあったはずの”焦燥”が、私に襲いかかっていた。

 図書館で何時間も参考書を読み、ノートをまとめても、レポートは”内容が浅いと返された。

 こんなはずじゃなかった。

 東都大学でも、成績上位にいるはずだったのに。

 私の歯車が狂おうとしていた。



 そんなある日。

 夏の終わり、蝉の声がやけに遠く感じる昼下がり。

 自転車に乗っていた私は、坂を下っていく途中、ふと左から光が飛び込んできた。


「ーーあ」


 ブレーキをかける間もなく、視界が一瞬で白に染まった。



 ・・・・・・柔らかな光。絹の肌触り。

 私は、天蓋のあるベッドに横たわっていた。

 窓の外には、異国の庭園にあるような光景。バラが咲き誇り、噴水の音がかすかに聞こえる。


「どこ・・・・・・?」


 起き上がると、ふわりと長い髪が肩を撫でた。鏡の前に立つ。

 そこに映っていたのは、金髪碧眼の少女ーーけれど、明らかに私だった。


「アクラ・ミンスク・・・・・・まさか」


 思い出す。それは、ライトノベルの中で誰よりも輝いていたヒロインの名前。

 気品と可憐さを併せ持つ”理想の貴族令嬢”。

 最終的には、第一王子レオンハルトと結ばれてハッピーエンドになる存在。


 夢みたいだった。

 けれど、これは夢じゃない。


 この世界に転生したこと。そして、”アクラ”として生きることーーそれが、私に与えられた意味なのだとすぐに理解できた。


 もう、あの苦しい大学生活に戻らなくていい。いや、もう戻れないけれど。

 ここでは私は、完璧なヒロイン。すべてを手にする、美しい主人公。


 努力なんて、もういらない。

 私のことを誰も知らないこの世界なら、私は最初から”特別”でいられる。


「おはようございます、アクラ様」


 部屋に入ってきた侍女がそう告げると、私は微笑みを浮かべた。


「おはよう。今日も一日、よろしくね」


 ヒロインらしい、優しさと気品を込めて。

 この世界の人々に愛されるために。

 そのためには、誰に対しても穏やかで、笑顔を絶やさないことが大切だと、小説の中の”アクラ”が教えてくれた。





 学院に通い始めてから半年が経った。

 私は、日々が満ち足りていると感じていた。教師からの信頼、友人たちの好意、誰もが私に微笑みかけ、礼儀正しく接してくれた。

 食堂の席はいつも埋まり、パーティの誘いも絶えない。けれど、どんなに賑やかな場でも、私は決して傲らず、謙虚に振る舞った。


「アクラ様、本日の詩の講義、すばらしかったですわ」


「まぁ、ありがとう。でも、きっと皆さんの方が・・・・・・ね、リガさんも素敵な詩を書かれていましたわよ」


 わざと、リガの名前を出して微笑んでみせる。

 私に話しかけていた子たちは、一瞬視線を交わし、苦笑を浮かべる。


「・・・・・・あの方は、ちょっと言葉が、ね」


「ええ、詩というより、まるで演説みたいで」


 リガ・レフコシア。

 彼女の存在は、どこか私に”似ている”と、最初は思った。けれど、彼女は私とは違っていた。

 誰かに好かれる努力もせず、気高く、誇り高く、他人の目よりも信念を信じていた。

 だから、彼女は気づかぬうちに周囲から距離を取られ、孤立していった。


 でも、それはは当然のこと。


 この世界では、誰もが”完璧で、優しいヒロイン”を求めている。

 自己主張の強い者、棘を隠せぬ者は、静かに外されていくのだ。


 この日も、そう。

 私は、静かな水辺をテーマにした詩を読み上げ、教師からも肯定的な評価を受けた。

 拍手も少しだけ起こる。


 その直後、リガが立ち上がった。


「では、わたしの番ですわね」


 彼女はゆったりと巻物を広げて、よく通る声でこう読み始めた。


『濁った水ほど、表面を取り繕うとする。だが、澄んだ目には映るのだ。底に沈んだ欲と嫉妬が』


 教室が一瞬静まり返る。

 そして彼女は私を一瞥して、口角をわずかに上げて座った。


「……寓話、ですわ。登場人物に心当たりがあるのはきっと、皆様の想像力の賜物」


 私は何も言わなかった。

 ただ、教師がコメントを言いづらそうに口を開くのを、じっと見ていた。



 学院に通って、季節がふたつ巡った。


 私は毎朝、寮の窓から差し込む光に祈りを込めて身支度を整える。

 髪は丁寧に結い上げ、制服のリボンは歪みなく、美しく。

 笑顔は、わずかに唇の端を持ち上げ、相手の心に柔らかく届く角度に。


 ”完璧なヒロイン”としての私に、疑念を抱く者は一人もいなかった。


 教師からの信頼。

 女子生徒たちの憧れ。

 男子たちの恋慕の視線。


 ーーけれど私が、ほんとうに見ているのは彼らではない。


 廊下の向こう、講義室の隅に、ひときわ硬い背筋を伸ばして座るその姿。


 リガ・レフコシア。


 傲慢ではない。だが、気高い。

 優しいわけではない。けれど、誠実。

 彼女はいつも、誰にも媚びず、自らの信じた正義のために口を開く。


 そんな彼女はある意味美しかった。


 だから私が、舞台を整えてあげたい。




 ある日、私のハンカチが切り裂かれていた。

 白い布の端に、花文字で縫われた”Accra”の刺繍。

 それを見て、数人の生徒が小声で囁き始める。


「・・・・・・あの時リガ様、少しアクラ様を睨んでいたわ」


 私は首を横に振った。


「そんなこと、ないわ。きっと何かの手違いよ。リガさん、今日も詩の講義で素敵な言葉を読んでいらしたし」


 ーー疑いを否定する”優しさ”こそ、最高の毒。



 あの白いハンカチの破れ目は、数日を経て”噂”となって広まった。

 誰が切ったのか、証拠など何もない。

 でもーー”私は許した”という姿勢が、何よりも重たかった。


「リガさんは、きっと悩んでいたのよ。誰にだって、心が揺らぐことはあるわ」


 私はそう言って、教室の空気を”理解者”で満たした。

 だがその瞬間、リガの席に視線が集まり、何人かが静かに席を遠ざけるのが見えた。


 そして、私は決して直接責めることはしない。

 ”慈悲深く、哀れみを込めて”リガを見つめるだけ。


「大丈夫よ。あなたは間違ってなんかいない」


 ーー彼女の居場所は、誰もいない檻の中へと変わっていく。




 夕刻、王城の中庭。夕陽に照らされた噴水のほとりで、私はレオンハルト殿下の隣にやってきた。

 誰にも止められないのは、私と彼が幼馴染みの関係で、気を許しているから。

 黄金の髪、曇りのない瞳。

 どれだけ時が流れても、幼馴染みである私は、その背に並ぶように育てられてきた。

 ・・・・・・もちろん、”この世界”では、という話。


 本当の私は彼をライトノベルで読んだだけ。容姿も、挿絵で見るだけ。


 でも、今は違う。

 私はアクラ・ミンスク。王国貴族の令嬢で、彼の幼馴染み。

 誰よりも近くで、王子の未来を形づくる立場にある。


 そんな彼は白銀の制服に身を包んでおり、騎士団の訓練を終えたばかりのようで、額に汗を滲ませている。


「・・・・・・相変わらず、真面目ですね。レオン様」


「アクラの前では、気を抜けないからな」


 私の声に、彼は目を細めて笑った。

 くしゃりとした笑み。

 それは、あのライトノベルで読んだ王子そのものだった。


 あの頃ーー私は、紙面越しにこの人に恋していた。

 今は何も隔てなく恋している。


「最近、学院の様子はどうだ?」


「穏やかですわ。ただ・・・・・・気になる子がいて」


「気になる?」


 殿下は私の悩みに乗っかってくれた。


「リガ・レフコシアで、フリードリヒ殿下の婚約者ですわ。詩の授業でよく名が上がっていて。・・・・・・でも私から見ると少し内向的で、周囲と馴染めていないようですの」


 あくまで控えめに、優しく。

 レオン様の眼差しに、ほんの僅かな憂いが混じるのが分かる。


「フリードリヒ殿下の婚約者ですが、彼女は危ういんです。私が手を差し伸べられるうちに・・・・・・導いてあげられたら、と思って」


 ”貴方が導く必要はありません”ーーそう言葉にせず、余韻として残す。

 殿下の心に、予防線を。


「君は本当に優しいな、アクラ」


 ・・・・・・ああ、そう。そうやって言ってくれるのよね、あなたは。

 その言葉が欲しくて、私はここまで来たの。




 それから学院で詩のイベントが行われることになった。


「詩の公開朗読会、今年はリガさん中心になってはいかが?」


 私がそう言うと、周囲は驚いたような顔をした。


「貴女ではなくわたしなの?」


「ええ。リガさんの文章、強い意志がありますもの。多くの人に届くと思うわ」


 彼女が断れないよう、教員にも後押ししてもらう。

 でもーー彼女の演説のような語り口は、生徒たちの笑顔を遠ざけた。


 朗読会の日、リガの詩は確かに立派だった。

 けれど、その言葉は張り詰めていた。


『生きることは、刃のような孤独だ』と語る彼女の声音に、聴衆は息を呑みーーやがて引いていった。


 その後、控室で一人座っていたリガに、私は静かに寄り添った。

 私は控室の扉をノックして、柔らかな微笑を浮かべる。


「お疲れ様。・・・・・・でも、少しだけ口調を柔らかくすると、もっと伝わるかもしれないわね」


 まるで、ただの助言のように。




 舞踏会の招待状が届いたのは、二週間ほど前だった。


 封蝋には、レオンハルト殿下の紋章。

 出席は任意ーーとはいえ、貴族令嬢ならば”出なければならない空気”がある。

 レオンハルト殿下と幼馴染みな私はなおさら。


 私は封筒を手にして、控え室の窓辺に立つ。

 淡い陽の光が、紙に織り込まれた王家の紋章をきらめかせた。


「ドレスコード・・・・・・紺または銀が推奨、ね」


 誰にも聞かれないような小さな声で、ただ静かに微笑んだ。


 この情報は、表向きには侍女たちを通じて各家に伝えられる。

 ただしーーほんの少しだけ、伝達経路に”揺らぎ”を与えればいい。


 私は控えの間で、ミンスク家に仕える侍女たち数人を呼んだ。

 彼女たちは何も知らずに頭を下げている。


「ねえ、少しお願いがあるのだけれど」


 その声は、丁寧で親しげに。

 でも、拒否できない甘さで包んだ。


「リガ・レフコシア様のところにいる侍女たちに、さりげなく話しておいてもらえるかしら?」


「は、はい……内容は……?」


「この舞踏会って、特にお疲れの令嬢には、”深い色合い”もお似合いかもしれないってこと。たとえば……葡萄色とか」


 そして、付け加える。


「もちろん、公式には”紺や銀”が推奨されているって話は、そのままでね。ただ、彼女が悩んでいたら、無理に止めなくてもいいのよ」


「……かしこまりました」


 それだけで十分だった。

 止められなければ、あの人はきっと、自分で選ぶ。

 そして、”誇り”を保つために、無意識に他と違う色を選ぶ。


 彼女はいつだって、自分の孤高さにすがりながら、少しだけ優越感に溺れているから。


 そのプライドが罠になる。

 私はそれを信じて、何もせず、ただ待つだけ。




 舞踏会当日の朝。


 登校の時間、学院の廊下で見かけたリガの表情は、どこか晴れやかだった。


 それはきっと、自分で選んだ”葡萄色のドレス”を想像していたから。


 私はすれ違いざま、何気ないふりで声をかけた。


「そういえば、リガさん、舞踏会の準備はもうお済みなのかしら?」


「ええ。もちろん、完璧に」


「ふふっ、さすがですわ。貴女のような方には、深い色合いがとてもお似合いになると思いますもの」


 わずかな笑みを浮かべて、何も知らないふりをする。

 その言葉が”肯定”になるように、きちんと計算されたトーンで。


 彼女は少し顎を上げて、得意げに頷いた。


「ありがとう、私も。そう思っていたところなの」


 やっぱり。

 私の想定通り、彼女は自ら”檻の中に”歩いて行った。




 私がこうして動く理由。

 それはただの優越感じゃない。


 彼女が、どれだけ”私の物語”を乱したか。

 確かにライトノベルの中だったら、彼女は重要かもしれない。

 でも、この世界においては私の世界であり、新しい私の人生。

 私の人生に、彼女が入り込んでいることが、どれだけ……許せなかったか。


 ドレスの色なんて、ただのきっかけ。

 これは、彼女を”狂わせる舞台”の、ほんの序章に過ぎない。




 銀糸のドレスの裾をつまみ、私はレオンハルト殿下の腕に軽く手を添える。


 彼は穏やかに微笑み、視線だけで問いかけてきた。

 ーー準備は整ったかと。


「ええ、すべて、予定通りですわ」


 わたしは微笑み返し、さりげなく周囲を見渡した。

 円を描くように舞踏の輪が広がり、その中心から少し離れた一角にーー彼女がいた。


 葡萄色のドレス。

 美しいことに違いはない。けれど、この場にはあまりに異質だった。


 色の違いだけで、集団の中における孤立は浮き彫りになる。


 群れからはずれた一羽の鳥。

 それがどれほど鮮やかでも、群れに属していなければ”標的”にしかならない。


 視線を感じたのか、彼女はこちらを見た。

 だけどすぐに、涼しい顔でレオンハルト殿下に向き直る。


「殿下、この場にいられることを心より光栄に思います」


「こちらこそ、アクラ。貴女が隣にいるだけで、今夜が祝福されたものに感じられるよ」


 ーー舞台の”主役”が誰なのか、誰にも分かっていた。


 その流れに、彼女だけが逆らおうとしていた。



 控えの間に入ったのは、舞踏の合間だった。


 そこには、先日私の依頼を聞いたミンスク家の侍女のひとりが控えていた。

 私の姿を見るなり、深く頭を下げた。


「……例の件、うまくいったようです。レフコシア家の侍女たち、誰ひとりとして止めませんでした」


「そう。ありがとう。貴女の動きには感謝しています」


 私は優しく笑い、手袋越しにそっと金貨の入った小袋を差し出す。


「……ただし、誰にも話してはだめよ。私が貴女に何か頼んだなんて、一言でも」


「もちろん、口外いたしません」


 ーーこの国で、言葉は武器にも、毒にもなる。


 だからこそ、余計な”命令”はしない。

 私はただ『肯定』を与えるだけ。




 その後のダンスの時間。


 私の腕の中にいるレオンハルト殿下は、ときおり彼女に視線をやっていた。

 わかっている。気にかけているわけではない。ただ、何かを察しているのだ。


 私は、揺れるフリルの音と共に、そっと囁いた。


「殿下……少し、気が重いのです」


「どうかしたのかい?」


「……少し、気になることがありまして。でも、私の考えすぎでしたら、いいのですけれど」


 不安げな声で揺さぶる。

 ただし内容は言わない。

 そうすることで、彼が「何があったのか?」と自分から探ろうとする。


「言ってごらん、アクラ。どんな些細なことでも、君の悩みは僕の悩みだ」


「……いえ、本当に些細なことですから」


 首を振り、控えめに微笑む。

 それだけでいい。


 私は、口にしない。

 でも”空気”がそれを勝手に生んでいく。


 壇上へ歩いていく、葡萄色の影。

 会場が静まりかえる中、彼女は叫んだ。


「この夜に、あなたの隣に立つのは、わたしであるべきですわ!」


 彼女は婚約者のフリードリヒ殿下に縋ろうとしている。

 でもその言葉に、私は何の反応も見せない。

 ほんの一瞬、レオンハルト殿下の指をきゅっと握るだけ。


 それで十分だった。

 視線がこちらに集まり、彼の指先がそっと動いた。

 ーー何も言わなくていい。今夜の”答え”は、既に出ているから。



 良かったわね、リガ。貴女はちゃんと”舞台”に立てた、

 でも、もう幕は下がる。ここから先は、”ヒロイン”の物語だから。


 その瞬間、誰よりも綺麗だった貴女が、誰よりも哀れだった。

 でもーーそれこそが、私の描いた完璧な物語の構図だった。




 舞踏会から数日後。


 学院の廊下を歩いていると、ふと視界の端に彼女の姿が映ることがあった。


 リガ・レフコシア。


 かつての”悪役令嬢”は、まるで色を失った絵のように、空気の中に溶けかけていた。


 周囲は彼女に触れないように歩き、目を逸らす。

 かつては拍手喝采と噂の中心にいたリガが、今は笑い話の残骸として囁かれている。


「見た? あのドレス、まだ前の季節のままだって」


「でも、さすがに少し可哀想よね……」


「自業自得ってやつじゃない?」


 優しいふりをした残酷な言葉たちが、彼女の背中に突き刺さる。

 それでもリガは、学院に来るのをやめなかった。

 どれだけ痩せても、目の下に隈を作っても、ただ黙って通っていた。


 ーー律儀だな、と少し思った。


 いいえ、それともーー

 ”赦されたい”と、思っていたのかしら?

 婚約者のフリードリヒ殿下に。


 私は、窓辺から彼女を見ることが増えていた。

 遠く、噴水のそばでうずくまる姿。

 教室の片隅で、ノートを開いたまま動かない姿。

 学院の書庫で、本を抱えて立ち尽くす姿。


 どれも、みすぼらしくて。

 けれどどこかで懐かしくもあった。


 ーーそう気づいたとき、私は微笑んでいた。

 けれどその笑みは、もう勝利の笑みじゃない。

 彼女にとってはきっと、何よりも冷たく見えただろう。


 何もしていないのに、ただ視線を送るだけで、彼女は壊れていく。


 それでも、私は手を伸ばさなかった。

 だって彼女は”リガ・レフコシア”。

 ライトノベルであっても、この世界であっても、破滅が決まっているのだから。


 私は”アクラ・ミンスク”。

 この物語のヒロインとして、頂点に立つ存在でなくてはならないのだから。


 ーー彼女が、地に墜ちていくのを見つめながら。




 そして、王立ジェルミナール学院・初夏の式典。


 鐘の音が鳴り響いたとき、私は静かに息を吐いた。

 澄んだ空、色とりどりの花。

 貴族たちの笑い声と拍手が、どこか上滑りに聞こえる。


 レオンハルト殿下の隣に立つ私。

 その視線は、フリードリヒ殿下と舞台の向こうーーリガ・レフコシアに向かっていた。


 老執事がリガとフリードリヒ殿下の婚約破棄を告げる。


「君の振る舞いは、もはや王族の側に立つにはふさわしくない。学内での態度、他者への扱いーーそして、君の在り方そのものが、失望を重ねた」


 フリードリヒ殿下が理由を説明する。


 リガの目が揺れていた。

 血の気が引いていくような、あの顔。


 目を伏せる。膝を折りそうになりながら、頭を下げる。

 何か言葉を紡ごうとしているけれども、それすら声になっていない。


(あなたが憧れていた、”悪役令嬢”はこんなにも惨めだった?)


 ーー違う。

 これは”リガ”じゃない。

 あなた自身が、あなたの手で、なぞって壊した『夢の後始末』。


 鐘の音が再び鳴り、式典の終わりが告げられる。


 歓声が上がる中、彼女は一人、静かにその場を離れていく。

 誰も追いかけない。誰も声をかけない。


 彼女が少しだけ振り返ったのが見えた。

 私は、柔らかくーー”ヒロインらしく”微笑んだ。


 慈悲を装って。

 同情を装って。

 けれど、その奥底には冷たい炎があった。


(あなたが壊れるまで、私は止まらない)


 広場を去ったリガの背を見送ってから、私はレオンハルト殿下の隣で微笑み続けた。

 貴族たちの賞賛の言葉が耳に届く。


「やはりアクラ様こそ、レオンハルト殿下だけじゃなくてフリードリヒ殿下もふさわしい」


「リガ様? あの子はもう終わったでしょう」


 そのすべてを、受け止める。

 だって私はもう、”角館亜美”じゃない。

 私は、アクラ・ミンスク。


 ーー物語の中心に立つ、”本物のヒロイン”。




 白い日傘の影が、私の膝に落ちている。

 風は穏やかで、噴水の水音も心地よかった。

 王立ジェルミナール学院の午後は、誰よりも私に似合う。


 けれどその空気が、音も無く崩れた。


 彼女が現れたからだーーリガ・レフコシア。


 皺だらけのドレス。梳かされていない髪。

 周囲の空気は彼女を避け、目を逸らすことでしか関われないと悟っている。


 でも、私だけは違う。


「……お久しぶりです、リガさん」


 静かにそう声をかけると、彼女の足が止まった。

 当然、負けた相手だから忘れられる訳がない。


「アクラ……」


 私は本を閉じ、日傘を畳んでゆっくり立ち上がった。


「調子はどうでしょうか、リガ・レフコシアさん。でも、今日は()()()()で呼んでみましょうか」


 ゆっくりと歩み寄り、唇を彼女の耳元へ寄せる。


「甘木理央。……ねえ、思い出した?」


 その瞬間、彼女の目から色が完全に消えた。

 私はリガ・レフコシアが甘木理央であった事を完全に知っていた。

 彼女の様子から、もしかしてと思っていたけれども、徐々に確信に変わっていき、婚約破棄の辺りでは完全に分かっていた。

 ざまみなさい。あんなに夢中だった小説の世界が、現実として牙を向いた気分はどう?


「……っ……嘘……!」


「嘘なんかじゃないよ。私はずっと、あなたを見ていた、理央」


 壊れる音がした。彼女の中で何かが。

 でも、それはまだ一部にすぎない。もっと奥まで、もっと深く。


「あなたの終わりを、ちゃんと見届けてあげる。……だって、あの頃から、あなたは変わっていないから」


「やめて……っ」


「まだ自分が正しいと信じている? 滑稽よ、理央」


「この世界にまでやってきて、いじめないで……やっと逃げられたのに……やめて……」


「もっとしてあげようかしら」


 そのときだった。


 リガの手が上がり、次の瞬間ーー


 バンッ


 私の頬が、熱くなった。


 ……でもその痛みすら、私にとってはご褒美だった。

 目の前のあなたが、私に感情をぶつけてくれる。

 それだけで、意味がある。


「黙れ……! あなたなんか……!」


 怒りに震える声。

 でも、ああ、その叫びも、私の糧になる。


 私は頬を押さえて、ゆっくりと微笑んだ。


「……怖い顔。ねえ、昔のあなたも、そんな目をしていたわ」


 いじめられても、中途半端な反撃しかできなかった時。

 それと同じ目。


 リガは逃げるように踵を返し、去って行く。

 誰も止めない。誰も手を差し伸べない。


 それでいい。彼女は、私の舞台の上でしか、息ができなくなるのだから。


 頬の火照りを指でなぞる。


 理央ーーリガ。

 あなたはまだ壊れていない。けれど、最初の亀裂は入った。


 これからもっと、丁寧に、優しく、心の奥を掴んでいく。


 ふと、私は涙を浮かべる。

 少し演技が過ぎたかもしれないけれど、それもまた必要な演出。


「……私、きっと、嫌われてしまいました」


 誰かが駆け寄ってくる気配がした。

 私は首を横に振り、悲しげ微笑む。


 それが”アクラ・ミンスク”というヒロインの特権。


 さあ、理央。

 あなたの舞台は終わった。

 これからは、わたしの物語だけが続いていく。


 あなたがかつて持っていた光も、場所も、すべて奪ってあげる。

 徹底的に、優しく、壊れるまで。

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