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ヒロインは、私を破滅させた

 冬の午後、窓の外にある木は先日よりも葉を少なくしていて、校舎を打つ風の音がわずかに揺れたガラスを震わせていた。


 教室の中は、乾いた空気が漂っている。

 誰かのシャーペンの音と、黒板に書かれている数字。

 けれどそれらは、今のわたしにはただの雑音だった。


「で・・・・・・これはこうであるからして」


 本当なら、この授業だって集中しなければならない。

 そうじゃないと、壊れかけているこの道が完全に崩壊するから。


甘木(あまぎ)さん、志望校の件、もう一度相談したいんだけれども・・・・・・」


 授業後には、担任からそんな事を言われた。

 声をかけられた時には一瞬だけ振り返るけれども、すぐに目を逸らす。


「・・・・・・ああ、はい。あとで行きます」


 返事だって口先だけで。

 机の上には、授業の教科書とノート、そして受験対策の赤本が置かれている。

 けれども開いているページはまるで頭が入ってこない。


 わたしの視線はずっとーーノートの片隅に書いた文字に、釘付けだった。


『リガ・レフコシア』


『誇りと共に滅びを受け入れる、最後の令嬢』


 何度もなぞった名前と説明。他のページにも書かれている。


 わたしは最近、この名前を延々と書き続けていた。

 気がつけば、授業で書いた文字と同じくらいノートを埋めていた。

 好きなライトノベルに出てくる悪役令嬢の名前。でも、なぜかとても美しくて、気高くて。 そして、どこか”終わり”の気配が似合っていた。


 ・・・・・・逃げている、とは思っている。


 だって模試の判定はE。


「このままだと国公立は厳しい」


 当然、予備校ではそんな事を言われた。

 正直に伝えたら母は怒っていた、予備校では模試の度に進路指導に詰められる。


理央(りお)ちゃん、どうするつもりなの?」


 どうって言われても、分からない。

 家に帰れば、母のため息と、弟の「今日も帰ってくるの遅いね」という無邪気な声。

 抜け出せない、この状況。

 ただ、胸が苦しい、息が詰まる。




 わたしは何もできない人間だ。

 このまま大人になるのが怖かった。


 でも、何もしなくたって時間は動いていく。

 そして何もしなければ、それ相応の結果が待っている。


 受け入れなければならない現実がある。


 だから、せめてノートの中だけでも『誰か』になりたかった。

 気高くて、誇り高くて、世界を斜めに見ながら滅びを受け入れる”悪役令嬢”。

 レガ・レフコシアーーその名を繰り返し書くことで、わたしは自分を保っていたのかもしれない。


「・・・・・・中二病みたいだね、それ」


 誰かの声がした。

 斜め前の席から、小さな笑いが漏れる。

 冗談めかしていたけれど、微かに含まれた蔑みに、わたしは目を伏せる。


「ま、別に良いけど。自分の世界って大事だよね?」


 わたしは返事をしなかった。

 声を出せなかったのか、それとも出す気がなかったのか。

 よく分からない。


 ただ、ノートに視線を戻して、また文字をなぞる。


『私は、リガ・レフコシア。滅びの中で、私の美学を貫く者』




 この世界はわたしを許してくれない。

 何をしても、何を目指しても、期待されるだけで、何も届かない。

 だったら、最初から全部、終わらせてしまいたい。


 わたしは、物語の中で生きていたかった。

 本の中の誰かとして、滅びるだけの役でもーーきっと、その方が楽だった。



 その夜。

 受験勉強もそこそこに、ライトノベルのページをめくっていた。もう受験対策本とかを読むよりもそっちの方が集中できるくらいに。

 今日は最終巻。

 そこには、あの悪役令嬢の最後が描かれていた。


『最後に彼女は、誰にも看取られず、微笑んで一礼した。まるで、それが望んでいた終わりだったかのように』


 わたしは、そのページを撫でた。

 次の瞬間、疲労がたまっていたのか意識がふっと途切れた。




 ーー目覚めたとき、世界はもう違っていた。


 自室は完全に違っている場所。

 白い天蓋、香水の香り。シルクのスーツ。

 そして、遠くから聞こえるクラシックの旋律。


「お目覚めですか、リガお嬢様」


 頭を下げる侍女の姿。


 夢みたいだった。

 でも、これは夢じゃない。

 これはーーわたしが願った世界だ。


「・・・・・・リガ・・・・・・レフコシア・・・・・・」


 口にしたその名前は、わたしの声に、ぴったりと馴染んでいた。


「・・・・・・本当に、夢じゃないんだ・・・・・・」


 ゆっくりとカーテンを引くと、窓の外には見たことのない街並みが広がっていた。

 石造りの通り、馬車の音、低く鳴る鐘の音。

 どこを切り取っても、それはまさしくわたしが読んできた”物語の中の世界”だった。


 肌触りの良いドレス。

 絹のリボン、繊細なレース、花弁のような袖。

 鏡に映る少女の顔は、わたしの顔であって、わたしではない。

 頬は少し細く、睫毛は長く、目元にはどこか高慢な影があった。


 そうーーこれが『リガ・レフコシア』。

 こうしてわたしは、彼女になったのだ。




「お嬢様、今日の授業は午前に二科目、午後からは舞踏会の礼法ですわ。午後の茶会は、ミンスク伯爵家のご息女と同席になります」


「リガ様、スープの召し上がり方は昨夜と同じく、銀器でお願いします」


 侍女たちは手際よく動き、わたしの周囲を整えていく。

 何もかもが丁寧で、美しくて、完璧だった。


 夢のような生活。

 あんなに苦しかった現実が、遠く霞んでいく。



 けれどーー数日が経つにつれて、気づき始める。

 この”夢”の中で、わたしは常に何かを演じ続けなければならないのだと。


 紅茶を飲む角度。

 ドレスの合わせの色。

 舞踏会での一礼の深さ、順番、挨拶の内容。

 すべてに意味があり、すべてに期待がある。


 わたしは『リガ・レフコシア』として、ただの転校生でも、来訪者でもなく、侯爵令嬢という”役”を完璧に演じ続けなければならない存在だった。



「ふぅ・・・・・・」


 学院の礼拝堂の裏手にある回廊。

 人気のない場所で、ようやく深く息を吐いた。


 昼下がりの陽光が、石畳に斜めの影を落とす。

 歩くたびに靴音が高く響くのも、慣れてきたはずなのに、まだ心臓が跳ねる。


 わたしはうまく演じられているのだろうか。

 皆のように、自然に、優雅に、なれているのだろうか。


 わからない。

 自信なんて、最初からなかった。


 わたしにとって、元の世界での受験勉強以上に大変だった。

 ただ、受験勉強から逃げたわたしには、説得力が無いけれども。


 そのときだった。


「まあ、リガさん。こんなところにいらっしゃるなんて」


 高い声と、くすくすとした笑い。

 まるで舞台の幕が開いたように、影の先からひとりの少女が現れた。


 金の髪に柔らかいカールをかけ、淡い藤色のリボンを巻いている。

 制服は皺ひとつなく、仕草は完璧に洗練されていた。


 そして、なによりーーその目が、冷たいほどに澄んでいた。


「はじめまして。わたくし、アクラ・ミンスクと申します」


「こちらこそ、リガ・レフコシアですわ」


「光栄ですわ。第二王子のフリードリヒ殿下の婚約者とお会いになるなんて」


 その笑顔は完璧だった。

 まるで”ヒロイン”そのもの。


 いや、ヒロインだ。

 この世界と同じライトノベルにおいて、主人公となるヒロインの名前。

 それが『アクラ・ミンスク』。


 だからこそなのか、わたしはそのとき、どこかで感じていた。


 この子は、物語の中で最も”強い”存在だと。


 それがどんな意味を持つのか、まだこのときのわたしは知らなかった。

 けれど心のどこかに、小さな不安が残っていた。




 アクラ・ミンスク。

 名門ミンスク伯爵家の一人娘。

 第一王子・レオンハルト殿下の幼馴染み。

 王立ジェルミナール学院で最も憧れる、”完璧なヒロイン”。


 わたしが憧れたライトノベルーーその中で描かれていた通りの存在だった。


 その笑顔は明るく、身のこなしはしなやかで、言葉はいつも優しかった。

 役についていく事に必死なわたしに対して、自然で綺麗に。




 わたしは、その舞台において『悪役令嬢』という役を与えられている。


 原作の中でのリガ・レフコシアは、高慢で傲慢で、ヒロインに嫉妬して執拗に嫌がらせをする人物。

 最終的には婚約破棄をされ、社交界からも追放される運命。


 それでもわたしは、転移したその日から、あえてその役を受け入れようとしていた。


 なぜなら、それが”筋書き通り”であれば、わたしは物語の中にいる限り『自分で責任を負わなくていい』と思えたから。


「・・・・・・アクラさんは、今日もまた、殿下と昼食をご一緒だったの?」


 そう問いかけたときの、彼女の微笑みが忘れられない。


「はい。けれど、それはあくまで行事の打ち合わせで・・・・・・リガさんがいらっしゃれば、きっともっと華やかだったでしょうに」


 そう言って笑うその顔に、皮肉も嘲笑もなかった。


 ・・・・・・本当にそうだったのだろうか。




 学院の中で、わたしはそれなりに気品のある態度を心がけていた。

 相手を見下すような話し方。

 礼儀正しいけれど、どこか鼻につくような言い回し。

 時にはアクラの周囲に集まる生徒に、少し強い言葉をかけたこともある。

 ライトノベルのリガも言ったことの無いようなことも。


 ”悪役令嬢”なのだから、そうあるべきだと思っていた。


 けれど、数週間が経ったころ。

 学院内で、誰かがわたしのことを”あまり関わりたくない”と言っているのを耳にした。


 リガ・レフコシアとしてのわたしは、だんだんと孤立し始めていた。


 その原因が、何か一つだっとは言えない。


 だけど、いつの間にか、わたしの周囲には壁ができていた。

 誰も直に傷つけてはいない。

 けれど、わたしが近づくと、空気が変わる。


 ーー本当に、これはただ”役を演じているだけ”なの?




 学院の廊下を歩くわたし。革靴の音が高く響くよう、歩幅も角度も完璧に調整したはずだった。


 ーーそれでも、誰もわたしを見ない。


 ちら、と見えるのは、わたしを避けるように肩をすくめる後輩たち。

 すれ違いざまに聞こえた。


「・・・・・・あの人、またアクラ様に絡んでるんでしょ?」


 また、か。

 そう思っても、やめられなかった。



 わたしは、アクラに向かって言葉を投げていた。


「ほほほ、それが貴族たる者の振る舞いでしょ。平民上がりの貴女には、わからないでしょうけれど」


 言いながら、自分でも分かっていた。

 その台詞はあのライトノベルの中の”悪役令嬢”の台詞をなぞっただけのもの。

 声が震えていたのも、自分で分かっていた。


 アクラは何も言わず、わたしをまっすぐ見返した。

 その瞳に、恐れも怒りもない。ただ・・・・・・哀れみのようなものがあった。


 周囲は静まりかえっていた。

 悪役令嬢として、君臨するはずのわたしは、誰にも恐れられず、誰にも羨ましがられず。

 ただ、滑稽な”演技”をしているだけの存在だった。


(・・・・・・わたしは、ちゃんと悪役令嬢になれてる?)


 答えなんて、わかっていた。



 ある日の放課後、回廊の端でアクラとすれ違った。

 彼女は相変わらず優しく笑っていた。


「リガさん、今日の紅茶の銘柄、お気に召しましたか?」


「・・・・・・別に。香りが強すぎて、頭が痛くなっただけ」


 そう返した自分の声が、思ったよりも刺々しく響いていた。

 アクラは微笑んだまま、ふっと目を伏せる。


「そう・・・・・・ごめんなさいね。あなたのお好みに合わなくて」


 その声には、何の怒りもない。

 だけどなぜか、背筋がぞくりとした。




 どうしてだろう。

 彼女は怒っていない。否定もしれない。

 それなのにーーわたしの言葉だけが、冷たく空気を裂いていく。


 まるで静寂に包まれているこの世界で、わたしだけが”音”を立ててしまっているような、そんな感覚。




 夜。寝室の鏡の前で、わたしは深紅のリボンを解いた。

 手元が震える。


 これはわたしが”望んだ世界”だったはずなのに。

 美しく、誇り高く、そして滅びへと向かう、悪役令嬢の役。


 ーーだけど今のわたしは、何者なの?


 「役柄」だけをなぞって、誰にも届かず、誰にも理解されず。

 滅びという”演出”さえ、ただの自壊に変わり始めている。




 ドレッサーの隅にある日記帳を開く。

 ページの端に、筆記体で書かれた文字。


『リガ・レフコシア 滅びの中で、私の物語を誇りに変える者』


 それは、現実から逃げたはずのわたしが、自分を慰めるために繰り返し書いた名前。

 でもーーもう、”誇り”なんて持てるものは、どこにも残っていなかった。


 扉の外では、誰かの足音がする。

 わたしのことを避ける足音か。

 それとも、ただすれ違っていくだけの音か。

 いずれにせよーー


 明日もまた、わたしは”悪役令嬢”を演じるしかない。




 王宮から届いた招待状は、淡いアイボリーの封筒に金の封蝋が押された、見事なものだった。


 ”王国第一王子・レオンハルト殿下主催の親睦舞踏会”

 参加は義務ではないーーとはいえ、侯爵家の令嬢として出席しないという選択肢は、わたしにはなかった。


「……綺麗な封筒ね」


 そう呟いて、わたしは静かに笑った。

 これはリガ・レフコシアとして、舞台に立つ”本番”だ。

 原作でも、ここで”悪役令嬢”は致命的な一手を打って破滅に向かっていった。


 わたしはそれを、知っていた。




 舞踏会の日、わたしの部屋にはいつになく多くの侍女たちが出入りしていた。

 ドレスは深い葡萄色。ルビーの刺繍が胸元を飾り、肩からはシフォンの薄布が流れるように垂れている。


 鏡の前に立つわたしは、誰が見ても堂々とした”侯爵令嬢”だった。


 けれど、その胸の奥は、奇妙なほど冷たかった。


 不安、ではない。

 焦り、でもない。


 これはーー予感。


 なにかが、確実に変わろうとしている。



 会場の中央、きらめくシャンデリアの下で、わたしは他の貴族令嬢たちに混ざり、笑顔を作っていた。


 誰もが笑っている。

 誰もが優雅にふるまっている。


 それなのに、どうしてだろう。

 わたしの声だけが、この場所で浮いている気がした。


「まあ、リガさん。今日はまた一段とお綺麗ですわね」


 その声に振り返ると、やはりいた。

 アクラ・ミンスク。


 淡い水色のドレスに金糸の飾り。小さなパールの耳飾りが揺れている。

 第一王子の隣に立つ彼女は、まるで”選ばれたヒロイン”のように輝いていた。


「ありがとう。そちらこそ……」


 そう返しながらも、わたしは気づいていた。

 彼女の視線が、一瞬だけわたしのドレスに留まったことに。


 それがどうしたのか、すぐには分からなかった。

 でも、その”視線”が、意味を持っていたのだと気づくのは、もう少し後のことになる。



「リガ様、どうかなさったのですか?」


 控えの間で、侍女の一人が囁くように言った。


「……いえ、何も」


 けれど、彼女は微かに困った顔をして、言葉を続けた。


「……あの、もし気を悪くされたら申し訳ないのですが、本日のお召し物、会場の式次第には”紺または銀を基調に”との記載があったような……」


 ーーえ?


 わたしは思わず唇を噛んだ。


 そんなこと、知らなかった。

 侍女たちからもドレス選びには注意は無かった。

 でも確かに、周囲を見渡せば、ほとんどの出席者は青や銀のドレスだった。


 わたしだけが、葡萄色という赤を基調にしたものだった。



 その違和感は、思った以上に大きかった。

 周囲の目が、冷たくはない。でも、見ている。

 まるで、失礼なことをした子供を黙って咎めるような、無言の圧。


 この色を選んだのは、わたしだ。

 でもーーなぜ、誰もそれを止めなかったの?


「どうして教えてくれなかったの?」


 怒りが出てきて、侍女に対してぶつける。

 ただ大声を出せば騒ぎになるから静かに。


「ですが・・・・・・リガ様がこれで良いと・・・・・・」


 狼狽えながら返答する侍女。

 言い訳のように、責任はわたしにあると言っていたけれど。


「ちゃんと教えてくれば、わたしは恥をかかなかったのよ」


 むしろ教えなかったらなんとか保てたかもしれない。

 だからこそ・・・・・・


「申し訳ありません・・・・・・」


「もういいわ。反省しなさい」


 頭を下げて謝罪する侍女。

 それを見て、わたしは息を吸って落ち着かせる。

 謝らせたって、これ以上はどうしようもないから。


 ふと、遠くで笑い声が聞こえた。

 アクラとレオンハルト殿下が、舞踏の途中で軽く言葉を交わしている。

 その場にいた侍女や貴族令嬢たちも、それに応じて微笑む。


 わたしは、その輪の中に居なかった。


 わたしだけが、ここに立っているのに、存在しないように扱われている気がした。


「おや、リガ・レフコシア様。おひとりですか?」


 その声に振り返ると、第二王子ーーフリードリヒ殿下が、涼しげな笑みを浮かべていた。

 彼がわたしの婚約者。


「……いえ。ただ少し、休んでいただけです」


「そうですか。けれど、お気をつけください。貴女はもう少し、振る舞いに気を配るべき立場にありますので」


 言葉に棘はない。

 でも、鋭くて、逃げ場がなかった。


 フリードリヒ殿下と踊ったが、わたしと踊っている時に心から楽しそうかどうかは分からなかった。

 でもわたしには、彼がわたしと踊って喜んでいると思いたかった。


 だからこそ、必死になったのだと思う。

 彼の隣に立てるのは、わたしだけ。

 貴族としての誇り、家柄、そして長年の婚約関係。

 それらが証明してくれるはずだった。わたしが、”正しい”存在であることを。


 踊りの合間、それぞれが話し合っていたり、王子たちが壇上で演説したりしている。


 そんなタイミングでわたしは、フリードリヒ殿下のもとへ歩み寄る。

 演説中のため、会場が静まり変える中、壇上に立ったわたしは、声を張った。


「この夜に、あなたの隣に立つのはわたしであるべきですわ!」


 拍手も歓声もなかった。

 ただ、痛いほどの沈黙だけが、会場を包み込んだ。


 彼はわたしを見ない。

 わたしはその事に心が揺さぶられ、そのまま手を・・・・・・静かに、ほどいた。

 彼の視線の先にはーーアクラがいた。


「リガさん、そのような場所で騒がれるのは・・・・・・」


 アクラはわたしに近づいて、こう言ってきた。


「いいえ、わたしは騒いでなど・・・・・・!」


 だけど、その声は会場の令嬢たちの笑い声に、かき消された。

 扇子の陰で、口元を押さえながら、こう言っていた。


「やっぱり、形だけだったのね。ほんと、寒いわ」


 壇上のわたしは、もはや”誇り高き令嬢”でも”悪役令嬢”でもなかった。

 ただ、”惨めな少女”として、みんなの前にさらされていた。



 すでに舞台は”次の幕”へと進む準備を整えているかのような感じであった。




 ーー王子の視線は、今日もわたしに向いていない。


 彼が笑うたび、その視線の先に居るのは、アクラだった。

 すべての言葉が、あの子に向けられている。

 もう、ずっと前から。


 でも、わたしはまだこの場にいる。

 リガ・レフコシアとして。フリードリヒ殿下の婚約者として。

 ライトノベルの結末からも、形式にすぎないことくらい、当然分かっているし、覚悟しているはずだった。


 だけど、わたしは・・・・・・


(お願い・・・・・・お願いだから・・・・・・目を逸らさないで)


 喉元まで出掛かった懇願を、わたしは飲み込んだ。

 唇を噛み締め、口角を上げる。

 令嬢の微笑み。

 ”悪役令嬢”が最後に見せる、舞台用の仮面。


 心はもう、とっくに張り裂けていた。




 王立ジェルミナール学院の広場には貴族やその子女たちが集まり、初夏の式典が華やかに執り行われていた。

 この日は特に空が澄んで見えた。

 高く抜けた青の下、広場は花で飾られ、貴族たちの笑い声が流れていた。


 今日という日を迎えるのが怖かった。

 それでも、わたしは”リガ・レフコシア”として、胸を張って歩かなければならなかった。

「リガ様、ドレスの裾が・・・・・・」


「ええ、ありがとう」


 侍女の手を借りて整えられた深紅のドレスは、父が特注したものだった。

 わたしはフリードリヒ殿下の隣に立つことを許された、誇り高き侯爵令嬢。

 ・・・・・・だったはずであった。


(お願い、今日だけは・・・・・・何も起きないで)


 王子の隣に立ちながら、彼の視線がわたしを通り過ぎるのを感じた。

 ここ数ヶ月、話しかけても目を合わせない。笑わない。

 わたしにではなく、いつもーーアクラに向けて微笑んでいた。


 遠くから聞こえるささやきが、耳元で囁く幻聴のようだった。


「フリードリヒ殿下の隣に立つべきは、アクラ様よね」


「・・・・・・あれがリガ様? 最近おかしいとは聞いていたけれども、本当なのね」


(違う・・・・・・わたしは・・・・・・努力してきたのに)


 そう思いたかったけれども、努力というよりは流れるままに身を任せたような感じ。

 ただ悪役令嬢の”型”に倣えば、上手くいくと思っていた。

 王子の寵愛を受けて、強く、美しく立てると。

 わたしの心が不安定になるにつれて、より彼に愛されたくなった。

 だから、アクラに冷たくあたることで、彼の視線を取り戻せると、信じていた。



 ーーその全てが、愚かだったのだ。


「・・・・・・リガ・レフコシア」


 式典の締めの時間が来た。老執事がわたしの名を呼ぶ。

 その声が、死刑宣告のように響いた。


「・・・・・・婚約者としての立場は、本日をもって解かれます」


 この言葉で、時が止まった。

 空が青すぎて、遠すぎて、世界が白く滲む。


「君の振る舞いは、もはや王族の側に立つにはふさわしくない。学内での振る舞い、周囲への扱い・・・・・・そして、君の在り方そのものがーー失望を重ねた」


 フリードリヒ殿下がわたしの婚約破棄の理由を述べていく。

 分かっていたはず。”リガ・レフコシア”はこの結末になるって。

 それなのにわたしは、震えていた。

 殿下の冷たい声。

 皆の視線。

 ドレスが重い、息が苦しい。


(わたしが・・・・・・間違っていた・・・・・・?)


 殿下は目を合わせないまま、式典を終えるように合図を送る。

 彼の隣には、やわらかく微笑むアクラの姿。


 誰よりも”ヒロインらしい”その顔が、胸に突き刺さった。


 わたしは、膝を折らぬよう必死に頭を下げ、言葉にならない声で何かを呟いた。

 だけど無情にも式典の終了を告げる鐘が鳴る。


 歓声が上がる中、わたしはその場を歩いて離れた。

 誰も追ってこない。

 しばらく歩いて、ほんのちょっとだけ振り返ってみた。


 アウラ・ミンスク。

 彼女は、遠くからーーただ、微笑んでいた。


 怒りでもない。

 嘲りでもない。


 ”慈悲”のような顔をして。

 ”同情”のような顔をして。


 でも、わたしには分かった。


 それが一番、酷いことだった。




 階段まで歩いて、手すりに手をつく。

 息が、うまく吸えない。

 涙が出る。でもそれは、悔しさからではないかった。


 空っぽだった。


 わたしは、ただ”役割”をなぞってきただけだった。

 自分ではない誰かになって、現実を忘れようとして。

 でも、それすら演じきれなかった。


 原作の通り。

 筋書き通り。

 悪役令嬢は、ヒロインに敗れて、すべてを失って退場する。


 でも、これは違う。

 これは、物語ではない。

 これは、わたしの人生だった。

 そして、これから続いていく。


 力が入らない足を何とか動かして、馬車まで戻る。

 馬車の中は静まり返っていた。

 車輪の音だけが、やけに大きく響いていた。

 隣に座る侍女たちは、誰一人としてわたしに話しかけようとしない。


 屋敷に戻っても、様子は同じだった。


 出迎えるはずの侍女たちは、どこかよそよそしい。

 下を向いたまま、頭を下げる仕草だけは忘れずに。


 でもその目には、”憐れみ”すらなかった。


 わたしの部屋に入ると、扉が静かにーーまるで何かを閉じるようにーー閉められる。


 ふらりとわたしは机に向かい、引き出しを開けた。


 そこにあったのは、一冊の日記帳。

 この世界に来てから、何度も書き綴ってきた”わたし”だけの記録。


 震える指先で、最後のページを開く。


『私はリガ・レフコシア。誇りと共に滅びを受け入れる令嬢』


 筆記体で何度も書いたその言葉を、ペンを持たずにわたしは指でなぞる。

 なぞって、なぞってーー


 滲んだ。


 涙がこぼれたのだと、気づいたのは随分あとだった。

 文字の輪郭が揺れてページの上に染みが広がっていく。


(滅びを・・・・・・受け入れる? 本当に、そう思っていた?)


 もう分からなかった。

 わたしは、何になりたかったのだろう。


 リガとして生きたかったのか。

 理央として、どこかで戻りたかったのか。


 もう結果は出てしまった。


 ただーー


「誰か、助けて・・・・・・」


 わたしは虚空に向かって救いを求めていた。

 だけど、喉の奥で小さく崩れた声は、誰にも届くことはなかった。

 零れたミルクを嘆いたって無駄なのだから。

 だからもう、誰もわたしを見ないだろう。


 これがわたしの末路。

 破滅した結末。

 ガワだけしか真似ることができず、悪役令嬢にすらなれなかった、わたしに相応しい終わり。

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