最後の黒板メッセージ
卒業式の前日――
教室の時計が午後五時をまわっても、そこに残っている生徒はただひとりだった。
陽の傾きが増していく中、窓際の席から立ち上がった沙耶は、ゆっくりと黒板に向かった。
手には、白いチョークが一本。
「……誰もいないって、いいな」
小さくつぶやいた声は、静かな教室に吸い込まれていった。
クラスではほとんど話すこともなく、友達と呼べる存在もいなかった。
成績は中の下。運動も苦手。文化祭でも、体育祭でも、名前を呼ばれたことは一度もなかった。
ただ、ひとつだけ心に残っている言葉があった。
「ここ、空いてる?」
入学して間もない春の朝。
いつものように教室の隅に座っていた沙耶に、そう声をかけてきたのは、少し髪の寝ぐせが目立つ、背の高い男の子だった。
名前は――笹原悠真。
クラスでも目立つほうではなかったけれど、自然と周囲の中心にいるような、不思議な雰囲気を持っていた。
それ以降、彼は何度か沙耶に話しかけてきた。
ノートを忘れたとき、消しゴムを貸してくれたとき、読書感想文のネタを教えてくれたとき。
それらは小さなやりとりにすぎなかったけれど、沙耶にとっては、心の奥に灯るたった一つの灯火だった。
(あのときの「ありがとう」、ちゃんと伝えられてたのかな……)
今さらそんなことを思い出しながら、沙耶はチョークを握りしめる。
音もなく誰もいない教室の中、彼女は静かに黒板に向かってチョークを走らせた。
「……見てくれなくても、いいんだ」
「でも、誰かがふと目をとめて、あったかい気持ちになってくれたら、それで……」
文字は不器用だった。
まっすぐ書いたつもりでも、少し斜めになる。漢字の止めやはねも甘い。けれど、それでも構わなかった。
彼女は少し迷った末、最後にそっと名前を書こうとした。だが、やめた。
「……匿名のままで、いいや。なんか、そっちのほうが沙耶っぽいよね」
苦笑しながら、彼女はチョークを元の箱に戻す。
振り返ると、夕暮れの光が教室全体を柔らかく照らしていた。
教卓の上には、誰かの忘れたプリント。後ろの棚には、整然と並んだロッカーの扉。
沙耶はそっと頭を下げた。
「――三年間、ありがとう」
そして扉を開け、最後の放課後に別れを告げた。
*
翌朝、教室のドアが開く音が響く。
一番にやってきたのは、笹原悠真だった。
いつもより早く起きて、制服にアイロンをかけ、母に頭を下げて登校した。
なんとなく、今日は早く教室に来たくなった。理由は自分でもよく分からなかった。
しかし、その理由を目にしたとき、彼は小さく目を見開いた。
黒板に、うっすらと残る文字。
誰かが書いたのだろう、あたたかな言葉たち。
《三年間、ありがとう》
《みんなが笑ってて、すごく救われました》
《目立たない私を、そっと見てくれてありがとう》
《さよならじゃなくて、ありがとう》
白いチョークの文字は、既に乾いてかすれ、ところどころ消えかかっていた。
けれど、それでも彼には分かった。
この文字の筆跡。
ひらがなの癖。漢字の不器用さ。
(……沙耶、だよな)
三年間、同じクラスで、彼女の文字を何度か見ていた。提出物の字。メモ帳の書き込み。
その細い筆跡が、なぜか目に焼きついていた。
悠真は誰もいない教室で、そっと黒板に近づく。
そして、自分の指で小さく書き添えた。
《こちらこそ、ありがとう》
彼はそれ以上の言葉を書かなかった。
沙耶が名前を残さなかったように、自分もただ気持ちだけを、そっと置いた。
やがてクラスメイトたちが続々と教室に入ってくる。
黒板の文字に気づいた者が、「何これ?」と声をあげ、やがて静かに読み始める。
「誰が書いたのか知らないけど、いいこと書くじゃん」
「なんか……ちょっと泣きそう」
「ねぇ、私も最後に書いていい?」
誰ともなくそう言い出し、チョークが次々と手に取られた。
気づけば黒板は、寄せ書きのように言葉でいっぱいになっていた。
《転校しても、忘れない》
《廊下ですれ違ったとき、笑ってくれてありがとう》
《あなたの描いた絵、すごく好きだったよ》
《本当は話しかけたかった》
《大丈夫、きっとこれからも大丈夫》
沙耶の文字は、やがてその中に埋もれていった。
けれど、それでよかったのだと悠真は思った。
あのひとつの“最後の黒板メッセージ”は、誰かに届いた。
そして、それが新しい優しさを生んだ。
「……また会えるといいな」
窓から射し込む朝日を背に、悠真はぽつりとつぶやいた。
その声が、どこまで届いたかは分からない。
けれど、教室の中には、確かなあたたかさが残っていた。
――卒業式の前日。
名もなき贈りものが、ひとつ、春の光に包まれて消えていった。
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あとがき
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、誰にも気づかれないような想いが、いつしか誰かの心を動かす――そんな「ささやかな奇跡」を描いてみました。
人の優しさって、名前もなく、かたちにも残らないことが多いけれど、ふとしたときに沁み込むように心に届くことがありますよね。
このお話も、そんな静かな優しさのように、読んでくださったあなたの中に、そっと残ってくれたら嬉しいです。