001
いつの間にか眠っていたようで、変な夢を見ていた。見るものすべてが歪んだ異次元の空間だった。はっきりとこれは夢なのだとわかっても、どこか妙にリアルだった。なんというか、造られた夢――そんな感覚があった。
僕はなにもない奇妙な空間に浮かんでいた。浮かんでいるというより透明な床があるようだった。そして僕の前には白髪の男がこれまた同様に浮かんでいた。僕とは違って空中に。透明の床よりも高い場所で。
「やあ」
その白髪の男は若々しい爽やかな声で挨拶した。顔を見るに僕よりも随分と若そうだ。
「なんなんだ?」
夢にしては意識がはっきりしすぎている。
「残念だったね」
白髪の男は同情するように、でも一切感情がこもってない声でそう言った。彼の言葉を聞いた瞬間、僕がどういった状況だったのかを思い出した。
「あんたは?」
「僕? 僕が誰かなんて、どうだっていいさ」
男はそう飄々と答え、続ける。
「ここは自分自身と向き合う空間さ。君の過去とね」
「意味がわからない」
「わかるよ。君はここで半生を振り返らなければならない。そして最後に、選択する」
「何を?」
「そうだな、これからの行動かな?」
これからの行動、僕はこれからどうしようと思っていたっけ。
「君の過去を振り返る前に、少しお話しよう」
男は自分のペースで話を進める。
「まずいくつか質問したい。君は端的に答えてくれ」
「……」
「先生の言葉を聞いてどう思った?」
先生――病院の先生のことだ。あの日、僕はこう言われたんだ。
「癌ですね」
その言葉の後にはいくつかの解説と、今後の治療の流れの話が続いたけれど、僕の頭には入ってこなかった。僕の癌は治せるレベルではなく、進行を遅らせるのが限界ということ、それだけはなんとなく理解できていた。
「頭が真っ白になった」
「それだけ?」
「どうだろう……」
自分が生きている意味がわからない。そう思っていた。ずっと昔から。でも実際、死が明確に近づいてどこか恐怖心のようなものが芽生えてきた。
「怖かった。でもそれ以上に、怒りが渦巻いていたよ」
何も上手くいかない。僕には苦難の道しか与えられない。この国が嫌いだ。
「どうして?」
「僕の人生はこんなことばかりだから」
学生時代、社会人時代、どうしようもない理不尽に晒され続けてきた。
「ふーん。でも君の普段の食生活や、生活習慣に問題があったとしたら?」
彼は続ける。
「それでも君は運が悪かったとか、そう思うのかい?」
「自己責任論者か?」
僕が最も嫌いな人種だった。
「おーこわ。そんなに睨まないでよ」
「……」
「今の仕事や、貯金について教えてくれる?」
彼は仕切り直すように口を開いた。
「今は……IT企業で働いてる……派遣で」
日本の悪しき風習だ。派遣と中抜き、本当に美しい国だよここは。
「給料はどのくらい?」
「残業でも変わってくるけど……大体月の手取りは二〇万くらいだ」
「都内で?」
「ああ」
「君はもう四〇過ぎだよね? その給料でやっていけるの?」
これが現実だったら僕は我慢できなかっただろう。でもどういう理由があってかここでは大した感情の機微はなかった。
「僕は独身だからなんとか」
「貯金は?」
僕は首を横に振った。
前の会社は給料が少なかった。派遣だったし……。
「家族や恋人は?」
「いない」
「友人は?」
「かつてはいた」
もう連絡を取り合う相手は一人もいない。
「君は何も持っていないんだね」
そう。人は僕らを無敵の人と呼ぶ。
「好きでこうなったわけじゃない」
「今度は何の所為にするの?」
いちいち引っかかる言い方をする奴だと思った。
「僕ら氷河期世代は大なり小なり他よりひどい人生を歩んでる」
氷河期世代――九〇年代から二〇〇〇年代前半に社会に出た人々だ。僕は三〇社以上落ち、やがて就職活動を辞めた。就職浪人、アルバイト、日雇い派遣を経てなんとかありつけた仕事は自動車会社の期間工。契約が終わればまた日雇い派遣に戻った。こんなギリギリの生活を続けていてはスキルなど身につくはずもなく景気が向上しても正社員で雇用してくれる会社はブラックばかり、最終的には特定派遣に行き着いた。これは派遣会社の正社員という枠である。
「企業は同じ能力の人間なら若い方を採る。おっさんに居場所はなかった」
今までもこれからも。
「国や企業は自己責任論を押し付け、僕らを救済しなかった」
「そんなの当たり前だろう」
それでは誰も幸せにはならない。
「次の質問にいこう」
彼はさして僕の話には興味がないようだった。
「君は軽度の発達障害と反社会性パーソナリティ障害をもってるよね。なのになぜ手帳を持っていないの?」
たしかに僕は軽度の障害を持っている。それでも手帳を申請しなかったのは単にプライドの問題だった。僕はあくまで社会や、政治や、環境に問題があると思い込みたい。だから自分の障害を言い訳にはしたくなかった。
「別に……大した理由はない」
「そう」
白髪の男はプカプカと宙を浮きながらあぐらをかいた。
「治療は?」
「一応、たまには」
とは言っても治療できる症状じゃない。それに薬を飲むのは病人みたいだから数ヶ月に一度のカウンセリングに留めている。僕はまあ軽度だから大丈夫だ。
「ま、こんなとこかな」
「何が?」
「君という人間を形成する要素、その一片さ」
「わけがわからない」
それよりも――
「お前は何なんだよ?」
「僕のことはどうだっていいって、さっき言ったじゃないか?」
「そうじゃない。何がしたいんだよ?」
この夢はあまりにもリアルだ。拡張現実のようだ。
「ああ、これは僕の仕事だよ。そうだな、わかりやすく言えば奴隷商人?」
「はあ?」
「簡単に言うと異なる世界を行き来する方法があって、その人選とアサイン先の選定ってとこ」
「……」
よくわからなかった。
「ま、細かいことは気にしないで。これから君は過去と向き合う、僕が指を鳴らしたら、その時から君の過去は始まる」
彼は問うた。
「準備はいい?」
僕は答えるのに数秒固まった。なにか引き返せない状況を生み出しているんじゃないかって。そんな気がしてならなかった。でも僕に拒否権なんてない。なにもかも環境が悪いのだ。僕にはいつだって選択肢が与えられないのだから。
「ああ」