彼女は決して縋らない【過去】
「…ィ......リヴィ」
ぼんやりと昔の思い出に浸っていたオリーヴィアを現実に引き戻したのは、向かい側に座るジークヴァルトの声だった。
「ああ、ごめん。出会った頃を思い出してた」
「だろうな」
ジークヴァルトは外を眺めると、まだエメリッヒ公爵邸まで少し時間があることを確認した。
「俺はやっぱりアルブレヒトの隣には、お前が似合うと思う。身分とはそういったことを除いても」
「ありがと。でもさ、アルにだって選ぶ権利はあると思うよ、私はね」
貴族であっても恋愛結婚もそれなりにあるシュタール王国に生まれ、それでも初めから伴侶を決めつけられているというのは窮屈なものだろう。少しずつ、心惹かれていった自分はきっと幸せ者だった、オリーヴィアはそう思う。
「お前がどれだけ努力してきたか、俺は知ってる」
「でもさ、アルやジークと一緒だったからこそ、普通の令嬢では学べないこともあったしなぁ」
「それを苦痛では無く楽しみだと感じられるのも、お前だからこそだろう」
必死に説得しようとするジークヴァルトにオリーヴィアは笑った。
王太子妃となるために、オリーヴィアは多くのことを学んだ。だがそれを苦痛に思ったことは本当に無い。そもそも礼儀作法などは、王弟と王女という最高の教材が両親であったため、生まれた時から当たり前にこなすものであったし、語学や経済に関してはどんな人生を歩むにしても役に立つものだ。兵法などもきっと、現在の立場でなければ令嬢としては知ることが出来なかっただろう。
「ジーク、私は学んだことが無駄になるなんて思わない。今後どんな人生を選んでもね。だからせっかく努力したのに、なんて思わないよ」
あっけらかんと言い放つオリーヴィアに、ジークヴァルトは唸ってしまう。
「そもそもアルはお前の気持ちを知らん。教えてやったらあいつだって――」
「やめてよ!」
強い制止にジークヴァルトは、言葉の続きを心に仕舞った。いつも強気で勝気なオリーヴィアが、今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えたからだ。
「アルにきっぱり振られた後だよ? それなのに今更好きですなんて言って、10年近く努力したんだから振り向いてくれって言うの? 大事な幼馴染で初恋の男の子で、さらには婚約者候補だったアルブレヒトに?」
「あいつだってお前の気持ちを知れば!」
「やめてよ! お願い、やめて!!」
オリーヴィアは眉尻をあげてジークヴァルトを睨みつける。
「縋りついて愛を乞うなんて願い下げなの。私はオリーヴィア・エメリッヒ。私の魅力を理解できない男だなんて、こちらから捨ててやるわ」
そして少女は困ったように笑う。
「それにね、困ったことに、好きな相手からは良く見られたいものなんだよ。例え可愛く見られなくても良い。でも、恋路を邪魔する悪役にだなんて、絶対に見られたくない」
ジークヴァルトは頭を抱え、肺に残る空気を重く吐き出した。
「これはアルにとっても良い勉強だよ」
ジークヴァルトが何も話さないことを良いことに、オリーヴィアは明るく話を続けた。
「勉強?」
「うん。だってアルって今まで最高のものを与えられ続ける人生だったでしょ。最高の容姿、権力、そして最高の学友に最高の婚約者候補」
「自分で言うんだな」
「あら、あなたも私も最高でしょ」
呆れた顔をするジークヴァルトに、オリーヴィアはコロコロと笑った。
「だからアルブレヒトが自分で何かを選びたいと思っても、これっぽっちも不思議じゃない。アルは能力はあるし、周りからも高く評価されてるでしょ? だから余計に、自分なら出来ると思っちゃうんじゃないかな」
「だが、そんな簡単なことでも無いだろう」
「その通りだよね」
ジークヴァルトの言葉に、オリーヴィアも頷いた。
王家の血筋を引いた由緒正しき姫君で、自分とも気が合う女性を見つけ出す。これはかなり難しいことだ。特に今までは、苦労せずに自分に合うものを手に入れていたアルブレヒトだからこそ、その難しさに最初は驚くだろう。
「もちろんすんなり見つかればおめでたい話だし、そうでなくともアルには良い勉強になる。私が多少割を食うだけで、全体で見れば悪くない」
「しかし能力の高い姫君が残っているとも限らんだろう」
「実際のところ、王妃が何でもできなければいけないなんて、そんな訳は無いんだよ」
オリーヴィアは困ったように笑った。
彼女が幼いころから高度な教育を受けさせられていたのは、アルブレヒトの学友という立場だったからだ。与えれば与えるだけ吸収するオリーヴィアに、周りの大人が甘えていたとも言えるだろう。妃として立つのに最低限と考えるなら語学と礼儀作法、それに素直な心があれば十分。後は王妃の周囲に優秀な側近をつければ問題は解決する。
オリーヴィアが人生をかけて吸収してきた知識たちは、数人で分担してしまえば実のところ大したことは無いのだから。
「ジークはさ、三人で見た、庶民の結婚式を覚えてる?」
「ああ。アルが馬鹿な事を言い出すきっかけだろ?」
「そうそう、それ。あの結婚式、確かに幸せの象徴って感じがしたよね。小さな教会で、顔見知りだけを招いて、笑い声が溢れてて、鮮やかな花で飾られてた。弾むようで、少し調子が外れた音楽は、夜会で聞く立派なワルツよりも踊りだしたくなる旋律でさ」
「笑い声につられて、立ち寄ったんだったな」
ジークヴァルトはその日の記憶を辿るように呟いた。
「あの光景を見てね、私、アルとそうなりたいなって思ったんだ。ずっとアルの恐怖症が怖くて、友達らしくいようとしてたでしょ? だから、正直女の人として、愛されることは無いかなってどこかで諦めてたんだよね」
向かいに座る男の眉間の皺が、より深まるのを見てオリーヴィアは笑う。
「それでも、慈しみ合って、支え合って、歪でも、自分たちなりに温かい家族として寄り添えたら、そう思ったの。でもな、あの幸せな光景を一緒に眺めて、他の幸せを探したいとアルが思うのならもう無理だよ」
カタンと静かな音がして馬車は停まる。
「送ってくれてありがとう」
「待ってくれ」
手首を掴まれて、オリーヴィアは動きを止めた。
「持って行け」
言葉少なに渡されたのは、ジークヴァルトの真っ白なハンカチだ。
「何よ、これ」
「いるだろ?」
「は? 見て分かんない? こんなしょうもないことで泣いてないんだけど!」
オリーヴィアは強く睨む。けれどもジークヴァルトは気にしていないようで、静かに告げた。
「泣くんだろ、一人でさ。誰もいないとこで。だったらせめてハンカチは、俺のを使え」
ぶっきらぼうなその言葉に、ふいに何かがこみ上げた。けれどそれを外でこぼすことは、オリーヴィアには出来はしない。無言で馬車から降り、振り向きもせずに公爵邸へと入っていくのだった。