王子様の泣き所【過去】
幼少期のお話です。
ソファーに座ると足先はまだ床に届かない。そんな幼子二人を前にして、騎士は深く頭を下げる。オリーヴィアからは彼のつむじが見えた。
「せっかく来ていただきましたのに、お二人には申し訳なく」
そう言うと、王子の側仕えをしている体の大きな騎士は、申し訳なさそうに再度腰を折った。王城の応接室は美しくも荘厳な調度品で飾られている。少しでも触れると損なってしまいそうなそれらが、オリーヴィアの背筋をいつも以上のしゃんと伸ばした。
シュタール王国唯一の王子、アルブレヒト・シュタールの学友として招かれた幼いオリーヴィアとジークヴァルトは、立派な体格の騎士が恐縮して謝罪する姿に圧倒され、目を大きく見開いた。
「い、いえ、騎士様。殿下の体調が最優先ですわ。お気になさらないで下さいな」
まだ6歳のオリーヴィアは慌てて謝罪を受け入れた。隣に座るジークヴァルトも、必死で大きくうなづいている。騎士は幼いながらも礼儀正しく対応するオリーヴィアとジークヴァルトの姿を見て、眩しいものを見るように目を細めた。
オリーヴィアが、「王子様に会ってみるかい?」 と王弟である父から誘われたのは偶然にも、好きな小説に王子様が登場していた時だった。
本物に会えると喜んで、オリーヴィアは淑女らしさを忘れて腰かけていた椅子からぴょんと飛び跳ねた。従兄妹という関係ではあったものの、相手は王族ということもあり6歳まで関わりが無かったのだ。だからこそ興味津々で、オリーヴィアは顔合わせを楽しみにしていた。
今日はオリーヴィアの好みを詰め込んだ、まさにお姫様のような装いだ。淡いピンク色のドレスは透けるように肌の白いオリーヴィアを可憐に見せる。緩やかに波打つプラチナブロンドはハーフアップにして、彼女自身が選んで庭師に切ってもらったラナンキュラスを髪に飾っている。その様子は春の妖精のようだった。気合をいれたからこそ王子様には会いたかったけれど、それでもしょうがないとオリーヴィアは微笑んだ。
「殿下は体調がすぐれないとか。お辛いことと思います」
アルブレヒトは頻繁に体調を崩す。それはシュタール王国に住まう貴族たちなら知らない者はいないほど有名な話だった。だからこそ、招かれた日に体調が悪くなったと言われても、そういうものかとオリーヴィアは納得がいったのだ。
けれど気遣うオリーヴィアの言葉に、騎士の顔は暗くなった。
「殿下はお加減がかなり悪いのですか?」
ジークヴァルトが幼いながらも鋭い三白眼の目尻を下げて、心配そうな顔をする。
「いえ、そういう訳では無いのですが」
騎士はそう言うと、「実は......」と言葉を選びながらも語りだした。
「殿下が体調を頻繁に崩すようになったのは、ここ一、二年のことです。それまでは穏やかながらにも活発な性質であられたと思います」
騎士の言葉は重苦しく、思わず幼子たちは背筋をいつもよりピンと伸ばす。床に届かない足先がピクリと揺れた。
「殿下はまだ6歳ではございますが、それでも将来が楽しみだと教育係の学者たちが声を揃えるほどです」
アルブレヒトは次代の王として期待される能力を、両手に抱えて生まれてきた。知識の吸収は早く、応用力もある。決して神童と呼ばれるほど何かに特化している訳では無いものの、飽きずに腐らず努力し続けることが出来る性質だった。学問だけではなく武術に馬術、兵法など様々なことに早くから取り組んでいる。
何もかも恵まれているアルブレヒトの唯一の弱点が女性だった。
アルブレヒトは王族らしく、目を引く美しさを生まれながらに持っている。黄金の髪に琥珀の瞳。立ち居振る舞いも洗練されており、将来が楽しみな王子様。その存在を手に入れたいと思う者は怖ろしいほどに多かった。
「女性.....ですか?」
ジークヴァルトが怪訝な顔で問う。ある程度の年齢になった貴公子が、令嬢からのアプローチが強すぎて女性を厭うのはまああること。けれどアルブレヒトはまだ6歳、そう言った問題が起こるには早すぎる。
「皆様は王にのみ許される愛妾の制度はご存じですか?」
騎士はまだ幼い子どもに問うのを躊躇うように、おずおずと質問した。けれどオリーヴィアもジークヴァルトも王子の学友となることが決まっている。だからこそ王族の私生活にかかわるある程度の制度については学んでいる。一夫一妻制を基本とし、恋愛結婚が主流となっているシュタール王国で、それでも民のために政略結婚を強いられるのが王だ。だからこそ、その王が心より愛する女性を公式愛妾とし、傍に置くことが許されている。とは言え幼い二人だから、「王様が一番好きな人」 くらいの認識ではある。
「王妃となるのは王家の血を引く姫君のみ。けれど愛妾は違います。身分も年齢も問わずに王の愛を得るだけで手に入れることが出来る地位。それが愛妾です」
アルブレヒトを苦しめたのは、王を癒すためにあるはずの愛妾という制度だ。愛妾に身分は必要無い。過去には貴族夫人であることもあったけれど、娼婦や村娘などという過去を持つ愛妾も居た。王からの寵愛さえあれば成りあがれる。それが愛妾という立場だ。
また、過去の王たちは幼い頃に憧れた女性を、愛妾として手に入れることも多かった。実際に20歳も年上の女性に入れ込んだ数代前の王のことを覚えている者も多い。
そんな状況の中で、アルブレヒトは物心つく頃から女の様々な感情を押し付けられた。乳母の娘のような年の近い者から母と年はそう変わらないメイドまで、アルブレヒトの周りにいる女性の多くは悲しいことにそうだった。
大事にされていた。優しく抱きしめられ、何かにつけて褒め称え、親愛のキスが贈られる。けれども彼女らの瞳の中に、幼いアルブレヒトは気持ち悪い感情を見つけてしまった。
アルブレヒトの身の回りの世話をするメイドは、ある日嫉妬に狂った他のメイドたちに酷く痛めつけられていた。慌てて庇おうと駆け寄ろうとしたその瞬間、蹲るメイドの口の端が歪に歪むのを確かに彼は見た。嫉妬を向けられる優越感、誰よりも王子に近いという自慢、そういったドロドロの感情を体に抱え、メイドは満足そうに蹲っていた。アルブレヒトは駆け寄ることが出来なかった。手を差し伸べてしまったら、メイドはどんな顔をするのだろうか、それがただただ怖ろしかった。
幼い少女は無邪気に駆け寄り、自分を選べと微笑んだ。年上の女たちはさりげなく、でもしっかりとその体を押し付ける。ただあやすように黄金の髪を梳き、褒めるためにまだ丸みのある頬に触れる。アルブレヒトが駆ければ危ないと言って抱き上げることすらあった。彼女たちから立ち上る甘い香水は熟れて腐る果実のような香りがした。
シュタール王国唯一の王子、アルブレヒトは女が怖い。
何か事件があったわけでは決してない。親切な行為の裏にねっとりとした感情を隠していたとしても、彼女たちは強引に彼を手に入れようとはしていない。それなのに聡いアルブレヒトは怖かった。
事件がなかったせいで、アルブレヒトの心の傷に周囲が気付くのが遅れてしまった。幼子であったとしても、男が守るべき女を怖いと思うなど、既に教育を受け始めていたアルブレヒトには口に出せないことだった。
王と王妃は慌てて彼の周りを一掃した。ようやく平穏が訪れた後、アルブレヒトには女が怖いという感情だけが残ってしまった。
「騎士様、だから騎士様が殿下の身の回りのお世話をなさっているのですか?」
「姫君の御推察の通りでございます。せめてしっかりと拒絶出来るまでということで、殿下の身の回りは我々近衛が守っております。無骨で申し訳ありません」
顔をすっかり青くしたオリーヴィアは、あることに気付いて息を呑んだ。
「まさか、殿下はわたくしが来るということで......」
「いいえ、姫君のせいではありません! 殿下は今日を楽しみにしておいででした。けれど体はどうにも――」
学友が出来ることを楽しみにしていたアルブレヒトは、少しのことで体調を崩す自分を恥じているという。それを聞き、オリーヴィアの心はさらにギシリと痛んだ。
オリーヴィアは愛されている自覚がある。権力欲の無い父と、その父を愛する母。優しい兄にオリーヴィアを慈しんでくれる使用人たち。貴族令嬢ということで、家から出ることはほとんどなかったが、それに不満を感じない、充実した日々だった。だからこそ、自分の家でもある城ですら安心できないアルブレヒトを不憫に思った。
「このような事情をお二人にお話ししましたのは、今後も殿下がたびたび体調を崩すという可能性があるからです。せっかく来ていただくにも関わらず、お相手できないことがあるかもしれません。ですが、それでも殿下の学友として信頼関係を築いてほしいというのが国王陛下、王妃殿下のご希望です」
「もちろんです」
ジークヴァルトは間も置かずに返事をした。けれど横に座るオリーヴィアからは何の返事も返ってこない。それどころか小さな顎に手を当てて、うんうん唸って何かを考えているようだ。じっと見守る騎士とジークヴァルトのことも気にせずしばらく悩んだオリーヴィアは、しかしパッと目を開けて、キラキラした笑顔でこう言った。
「おまかせあれ! わたくし、完璧な殿下の学友を目指しますわ!! ああ、こうしてはいられません。早く帰って準備をしなくては」
ソファーから子どもらしく降りると、騎士に向かってオリーヴィアは宣言した。
「殿下には、少年のような元気ないとこ姫だったとお伝えくださいな。何も心配することは無い、男友達と遊ぶように走り回って遊べますと!」
「姫君。お優しいお言葉ではありますが、私は嘘は申せません」
「いいえ、いいえ。決して嘘には致しません。わたくし、次に会う時までに男の子らしさに磨きをかけてまいります。礼儀作法の先生からも、根性があると太鼓判を頂いているわたくしですもの、やってやれないことはございません。わたくし、見事男の子のごとくがさつになってみせますわ!!」
握りこぶしを高らかにあげ宣言しているが、オリーヴィアはどちらかと言うとお人形のように可愛らしい。騎士が困惑するのも無理は無いだろう。
「いや、君は可愛らしいのだから無理だろう」
「え!? 可愛い?」
言葉に詰まった騎士をフォローするためジークヴァルトが無理だと言うと、可愛いという表現に照れたようで、オリーヴィアは赤くなり俯いた。その様子を見ると、余計に無理なように思えてくる。
「何そこで照れてるんだ。事実だろう……」
何でもないことのはずだったのに、妙に可愛らしい反応が返ってきてジークヴァルトまで照れてしまう。けれどこれではいけないと言葉を続けた。
「騎士様は王家に忠誠を捧げているんだ。だから嘘をついてくれと頼むのは不誠実だ」
子どもらしさを感じさせない落ち着いた言葉を、オリーヴィアはすんなりと受け取れた。
「しかし騎士様、おそらくエメリッヒ公爵令嬢も本気なのだろう。なので殿下に気負わずとも大丈夫だとだけお伝えください。我々は殿下の良き友としてお仕えしたいと考えております」
ジークヴァルトがそう言うと騎士は嬉しそうに微笑んだ。
その後、第一王子アルブレヒト、公爵令嬢オリーヴィア、公爵家四男ジークヴァルトがようやく顔を合わせることになるのは、当初の予定から三週間後のことだった。