悪女と呼ばれる彼女の本当
コンコン、とノックの音が響く。重厚な木製の扉は、くぐもったような低い音で来客を知らせる。
「どうぞ」
高く美しい、けれども愛想の無い声がして、すぐに扉は開かれた。
見上げるほどに大きな体の男が入室するが、手元の書類を眺める少女は顔を上げることもしない。それに気を悪くする風もなく、男は長い足を動かして対面のソファーに腰かけた。花柄のシルクが張地に使われたボールアンドクロウの華奢な脚のソファーは、無骨な男にはどこまでも不似合いだ。あまる脚を適度に開き、両足に乗せる握った拳からは図体に似合わず几帳面そうな印象を与えるだろう。
「オリーヴィア」
書類をめくる音だけが響く部屋に、低い男の声が響く。一向に顔を上げない少女に、男はようやく声をかけた。声を掛けられた少女、オリーヴィアはソファーの前に置いたオッドマンに可憐な足を投げ出し、深く腰掛けながらも目線は手に持つ書類に向いたままだ。
「おい、はしたないぞ」
「今更何言ってるんだか。私は君のもっと過激なあんなところやこんなところだって見たことがあるぞ、ジークヴァルト・シュタウフェンベルク」
「やめろ! いくつの頃の話をしてるんだ」
「たしか7歳と9歳の頃だったかな。あの頃のジークは可愛かったなぁ。ジークヴァルトときたら下穿きを――」
「おい、やめろ。何か色んな意味でやめてくれ」
ジークヴァルトは両手を上げて降参を告げる。それでようやくオリーヴィアは書類から顔を上げた。
プラチナブロンドに、例えようのない美しい碧色とも緑とも言えない瞳。高貴なる蝶と噂される、エメリッヒ公爵令嬢オリーヴィアがそこにいた。けれど眩い昨夜のような妖艶さは消え去って、年相応の可憐な少女らしい姿だが。
「ジーク、不機嫌?」
「ああ、お前に過去の幼気な俺が弄ばれたからな」
目の前に座る大男、ジークヴァルトは眉間の皺を深くして、面白くなさそうにぷいと顔をそむけてしまう。
「違う違う、そうじゃない。もっと前から不機嫌だったよね? 足音がいつもより少し大きかったし、座ってから声を掛けるまでの時間も短い」
オリーヴィアが観察するように説明すると、気まずそうにジークヴァルトは視線をさ迷わせた。
「決め手はさっきの過去話だ。普段通りだったらもっとジークだって乗ってきたはず。なのにさっさと終わらせようとしただろう? 多分、ちょっとしたことで苛つきそうだったから話を終わらせたんだな。ジークは本当、顔に似合わず温和で優しい。それをもうちょっと表情に出せたらご令嬢方も放ってはおかないはずだよ」
ジークヴァルトは侯爵家の四男だ。騎士を代々輩出している家系だけあって、ジークヴァルトも体型に恵まれている。けれど四男ともなれば継げる家も無く、さらにアイスブルーの鋭い三白眼は威圧的だということで、貴族令嬢からの人気は皆無だ。
「お前と話すのが時々嫌になるよ」
「おや、そんなことを言う貴公子はジークくらいじゃないかな? なんせ私と一言挨拶を躱したいと、多くの男たちは貢物を持って日参するほどだ」
ジークヴァルトは眉間に常に刻まれる皺をさらに深める。奔放な幼馴染を二人も抱え、苦労ばかりで若くして刻まれた眉間の皺もジークヴァルトを怖ろしく見せる原因の一つだろう。
「なるほど、ジークの不機嫌の理由は私か。さて、昨日私は何かしたかな?」
「別にリヴィだとは言ってないだろ!」
「言った。眉間の皺が頷いた。私の行動がジークを不快にさせたのなら謝りたい。なんせ君は、私のこの世に二人しかいない友人のうちの一人なんだから」
ジークヴァルトがちらりとオリーヴィアを見ると、そこには真直ぐに見つめてくるオリーヴィア。幼馴染であるジークヴァルトは、昔から彼女の目に弱いのだ。
「......あんなところで足を見せるな」
ようやくそれだけ言うと、ジークヴァルトは耳の先を真っ赤にしてそっぽを向く。
「やけに強い殺気を感じると思えば、ジークだったのか!!」
「そんなに睨んじゃいない!!」
「でもあの時、アルと一緒に王族席にいたでしょ? そこから見えたなんて、馬鹿みたいに見つめてないと無理じゃないか!」
「み、見つめてなんてない!! あれだ、目に入ったんだ!」
「はいはい。危なっかしい幼馴染を見守ってくれてたんだね、ありがとう」
そう言うと、オリーヴィアは少しくすぐったそうに、けれどもとても幸せそうに笑った。
「けどさ、ジークヴァルト。私が今、何をしようとしているか君も理解してるでしょ? 今更いい子ちゃんには戻れないし、戻る訳にもいかない。私は悪女にならなくちゃね」
「知ってはいても、目の前でそうなると嫌なんだよ、俺は。結局俺は、自分に苛立ってるのかもしれなっっ――」
自嘲するように俯き話すジークヴァルトの眉間に、丸めた書類の先が鋭く刺さる。
「痛った!! 何するんだよ!!!」
「真面目なのは良いが、私のことで勝手に自己嫌悪してくれるな」
オリーヴィアはそう言うと、ジークヴァルトの眉間に刺した丸めた書類の先を引き抜いた。
「この計画を始めたのは、私。昨日、足首をあのいけすかない軽薄男に見せたのも私の意志だし、今ジークの眉間を赤くしたのも私。ジークは私に怒っても良いけど、勝手に自己嫌悪に浸るのは違うよ。私の決断を、勝手にかっさらわないで」
いまだに眉間を抑えながら軽く睨みつけるジークヴァルトを眺めながら、オリーヴィアは言い聞かすようにそう言った。
「まあ、心配してくれる友達がいるってのは良いものだよね。悪女になりがいがあるってものだな」
オリーヴィアは、はははと笑った。
「これ、今回のリスト。また確認しておいてよ」
オリーヴィアはそう言って、先ほどまで眺め、ジークヴァルトの眉間に丸めて突き刺した書類を手渡した。
「今回は二人か」
「そう、どうも臭いんだよね。特に上に書いてる伯爵家のお坊ちゃん、領地は森ばっかりで林業主体だったはずなんだけど、贈り物に天然ものの真珠を選んでてさ。粒も大きいし、ちょっと張り込みすぎ。後ろ暗いところがありそう」
「すぐに調べさそう」
「いつも悪いな」
「いや、こちらが助かっているくらいだ」
オリーヴィアに届けられる贈り物は、危険物などを排除した後で全て彼女が確認する。贈り物は全て記録され、不審な点が無いかを判断する。
「その二人からの贈り物は残してあるから、それぞれの領地に還元しといてよ」
「分かった」
ジークヴァルトはそう言って、残りのうず高く積み上げられた贈り物に目をやった。
「毎度毎度、特に夜会の直前と直後は凄いもんだな」
「本当に。別に物をくれたら踊ったりエスコートを許すだなんて、言ってもないんだけど。まぁでも噂通りの方が悪女っぽいよね」
呆れたように乾いた笑みを浮かべながら、オリーヴィアはそう言った。そもそもオリーヴィアは公爵家の令嬢だ。欲しいものがあれば家の力で手に入れる。実際贈り物を身につけたことは一度だって無い。けれども想像とは面白いもので、今では誰もがオリーヴィアが高価な贈り物を喜んでいると思い込んでいる。
「お前、刺されるなよ」
「公爵家の娘がそう簡単に刺されてたまるか」
「注意しとけって言ってんだ」
「はいはい、この計画をやり遂げるまでは死ねないしね」
そう言ってオリーヴィアが笑うから、ジークヴァルトの皺は深くなる。
「違う。お前が大切な幼馴染だからだ」
「そっか」
眉を下げ、情けなく彼女は笑う。いつまでそう言ってもらえるだろうか、そんな悲しい不安が透けて見えるような笑みだった。
「お前が何であっても、誰が批判しても、どんなことをしていても、俺にとってお前はかけがえのない友人だ。忘れるなよ! だから背後には特に注意しろ!!」
「なんだかジークが犯人みたいなセリフだな」
笑いながらオリーヴィアは言う。目の端に滲んだ涙を、ジークヴァルトは見ない振りをした。きっとオリーヴィアならそうして欲しいと思うだろうから。
「アルもお前に会いたいとぼやいてたぞ」
「そっかぁ。でもアルは悪女と会うべきじゃないからなぁ」
「手紙でも書いてやれ。俺が渡す」
「誰かに見られるかもしれないものを、残せる訳ないでしょ」
「真面目なのはどっちだよ」
今度は誤魔化すように、オリーヴィアは笑う。これ以上無理をさせたくなくて、ジークヴァルトは公爵邸を後にした。
天井を二度叩くと、シュタウフェンベルク家の鷲の家紋が入った馬車は動き出す。窓から見える公爵邸が小さくなっていくのを見て、ジークヴァルトは深く息を吐いた。
王子様とお姫様。美しく聡明なジークヴァルトの幼馴染たち。その二人に仕えるために、ジークヴァルトはこの世に生を受けたと幼いころは本気で思っていた。
けれども思わぬところで幼馴染であった三人の道は分かれてしまった。もう一度深くため息を吐き、ジークヴァルトは昔を思い出していた。