悪女はきちんと恋を終えた【過去】
「行かないで」とは言えなくて、けれども追い払うようなことも勿論言えず、オリーヴィアはジークヴァルトの立ち去る足音を聞こうとしていた。予想に反して、オリーヴィアが聞いたのは、踵が床を蹴る音では無くジークヴァルトの低い声だった。
「俺のことは、壁だと思ってほしい」
ジークヴァルトのふざけた言葉が真剣な声色でオリーヴィアの頭に落ちる。
「はあ? 何よそれ」
「お前もいつも言うだろ? 『図体ばっかりデカくなって、まるで壁みたい』ってさ。お前を置いて行けないし、行きたくない。でもお前は、俺がいると嫌だろ? 俺もなんて言ったら良いか正直分からないし。だから、壁だと思えば良い」
「馬鹿じゃないの? 本当に馬鹿。会場で可愛らしい令嬢たちと踊ってくれば良いじゃない。私はいつも通り平気なんだから。いつも通りの夜会でしょ。嘲笑も下卑た視線ももう慣れた。いつも通りなの」
「お前はここに居たい、俺はここで壁になりたい、それだけだ」
「いやもうあんた頭おかしいんじゃない!?」
訳の分からないことを言い続けるジークヴァルトに、オリーヴィアは思わず感情を揺さぶられた。そうすると、ギリギリで保っていた細い我慢の線がぷつりと切れ、瞳からぽたりと涙が落ちる。
「っ何が......っしたいの!?」
オリーヴィアはしゃくりあげながら声を荒げた。
「私......な......でこんな、悲しいの」
かすれながら呟いた言葉は、まるで迷子のようだ。
「......好きだからだろ」
少し上から振る言葉は、ぶっきらぼうで、あたたかい。
「すき」
「そうだ。オリーヴィアはアルブレヒトが好きだろ? 人生ぶっ潰しても良いくらい、投げ出しても良いくらい、あいつに選ばれないならぶん投げても良いくらい、アルのことが、好きだろ」
泣いて熱くなった頭にぼんやりとアルブレヒトが浮かんだ。黄金の髪に琥珀の瞳、弱虫で完璧じゃないけれど、完璧であろうとするオリーヴィアの王子様。
けれども浮かんだその姿の横に、オリーヴィアはいない。今日、この時、何故か急に気が付いたのだ。幼いころからずっと、当たり前のように横に立っていた。けれどその場所に並ぶことは二度とない。いつか可愛いお姫様が現れて、隣で幸せそうに笑うのだ。
「ずぎだった......」
淑女の仮面を落としたオリーヴィアは、我慢をやめて鼻をすする。間抜けなその音が、何とも自分に似合うような、そんな気がした。
噛みしめるようにそう言って、オリーヴィアはコツンとジークヴァルトの背中に額を当てた。ジークヴァルトはビクリと体を揺らしたが、それでも壁であることを思い出したようだ。動かずに、オリーヴィアの好きなようにさせている。
「なんで私じゃなかったかな......何だって、頑張ったのに」
まるで恨み言のような告白を、大きな壁は丸ごと受け止める。
「男の子みたいに振る舞って、一緒に色んなことをして、アルが笑えば嬉しくて、アルが泣けば守りたかった」
ぐずぐずとしゃくりあげながら、オリーヴィアは魘されるように呟き続ける。
「いつかアルが王位を継ぐ。そのときに少しでも楽ができるように、何だって分け合って考えれるように、私、一杯学んだよ」
学ぶことは苦ではなかった。以前ジークヴァルトに言った言葉は本当だ。けれどもそこに、アルブレヒトのためだからという下心が無かったかと言われると、オリーヴィアは頷けない。アルブレヒトのための知識だから、学ぶことが楽しくて、もっともっとと貪欲になれていた。
「アルの可愛いお姫様、なんで私じゃなかったんだろう」
「アルブレヒトが大馬鹿者だからだよ」
「そんなこと言ってたら、不敬罪で捕まるよ」
あまりにもあからさまなジークヴァルトの言葉に、オリーヴィアは一瞬涙が止まり、ふふっと笑い声を漏らした。
「捕まらない。アルには俺とリヴィしか友人がいない。この世に二人しかいない友人を、わざわざ無くそうとするものか」
「それを言えば、私だってジークだって同じでしょ」
オリーヴィアがそう言えば、ジークヴァルトは肩を竦める。そして壁であることを思い出し、再び姿勢をきゅっと正した。
王とその妃に友はいらない。誰かを特別に愛してはいけないし、誰かを特別に憎んではいけない。誰かを重用するということは、誰かを見捨てるということだから。幼いころからそうやって教育されてきたアルブレヒトとオリーヴィア、そして側近のジークヴァルトにはお互いしか友人がいない。
「だから俺たちは互いを大事にする。だろ? 俺はリヴィが大事だし、必要なら壁にもなる」
「ほんと、いいやつだな」
「今頃気付いたか?」
馬鹿みたいなやり取りをかわしながら、それでもオリーヴィアは何度も泣いた。最後は頭がガンガンするほど泣いて、泣いて、それでも泣いて、そしてようやく気が付いた。
「私、ようやく失恋したんだ」
かすれた声で呟いて、それがどこまでもしっくりときた。既に終わったと思っていたオリーヴィアの恋は、それでも砕けずにそこにあった。けれども今日、ようやく理解した。恋が崩れて消えたことを。名残惜しむようにオリーヴィアは泣いた。壁はそれでも動かずに、ただただ目の前にあるだけだった。
***
「お嬢様、贈り物が届いております」
「ああ、先ほどので最後じゃなかったのね」
ジークヴァルトという壁に向かって散々泣いた、その後でも、当たり前だが日は昇る。オリーヴィアは腫れてしまった目を冷やしながら、日課となった贈り物のリスト確認を行っている。
顔こそ酷い状態ではあるものの、どこか吹っ切れたようなオリーヴィアの様子に、控えている侍女の顔も明るい。
「いえ、こちらはシュタウフェンベルク侯爵家からでございます」
「あら、ジークから?」
オリーヴィアは不思議そうにそう言って、一度リストが書かれた書類から目を上げる。
差し出されたのはジュエリーボックスのような小さな箱。銀色の艶やかな天鵞絨のその箱は高級感があり、まるで指輪でも入っていそうなほど。けれども幼馴染であるジークヴァルトから装飾品を贈られる理由もなく、オリーヴィアは首を傾げた。
「なんだろ?」
「指輪......ではございませんよね」
昔からの関係性を良く知る侍女も、オリーヴィアにつられるように首を傾げた。小ぶりな箱を振ってみても、何の音もするわけも無い。オリーヴィアは訝しむ表情をそのままに、おずおずとその箱を開けた。
「まあ!!」
先に声をあげたのは侍女だ。
「......本当にいいやつだな」
オリーヴィアは小さな箱を両手で包み、心からこぼれるようにそう言った。
銀色の天鵞絨の小箱には、たった一粒のチョコレート。たっぷりとクリームと砂糖を使ったチョコレートは、まだこの国では高級品だ。つやつやと輝くそれは、砕いたローストアーモンドがのっている。
「食べる宝石と言われておりますよね」
「以前王城で食べたとき、好きだと言ったのを覚えていたんだな」
指でつまむと艶やかなコーティングが蕩けた。こんなにも繊細で美しいチョコレートを取り扱うのは、王都に唯一あるショコラトリーだけだ。あのでかい図体で本人が行ったのか、それとも照れながら家令にでも言いつけたのか。どちらにしろ、随分と可愛い幼馴染の行動にオリーヴィアの頬が緩む。ぽいっと口に放り込むと、横から侍女が非難の声をあげた。
「お嬢様、お行儀が悪いですよ」
「私が普通のご令嬢より行儀が悪いのは今更だよ」
オリーヴィアがそう言うと、侍女は肩を竦めるだけで部屋を後にした。
ガナッシュに使われた、オレンジピールの苦みが後に残る。
『一粒食べるだけで元気になれそうな味だな』
以前幼馴染たちの前でそう言ったことを思い出す。もっと食べろを差し出す二人に、あまり食べると太るから一粒が良いのだと言ったのだ。
「本当にいいやつだなぁ」
オリーヴィアはそう言って、天鵞絨の小箱をぼんやりと眺めた。ずたずたになった心は、やがてかさぶたになる。そしてそのうちその傷さえも、気付かぬほどに治るのだろう。
そうした心の変化はとても健全で、どこか壮絶に寂しかった。幼い頃からの全てを無くしてしまっても、それでも前を向けそうな自分を寂しく感じて、けれどもそんな自分自身が誇らしかった。




