王子様は花嫁を探す【過去】
夜の肌寒さを感じられるようになってくると、シュタール王国は社交シーズンの終わりを迎える。夜毎、王城や貴族のタウンハウスで夜会が開かれていた賑やかな王都は、少しずつ落ち着きを見せていく。城に仕える者以外の多くの貴族は領地にあるカントリーハウスに戻り、狩猟シーズンが幕を開ける。
今日は社交シーズンの終わりを意味する、王城の夜会だ。多くの貴族たちが一堂に会し、束の間の別れを惜しむ言葉を口にして、社交に励む日となっている。侯爵令嬢であるオリーヴィアも勿論のこと、兄のエスコートによって会場に訪れていた。
「あら! どなたかと思えば、エメリッヒ公爵令嬢ではなくって?」
兄が挨拶周りの為に側から離れるとすぐ、柔らかく高い声がその場に響いた。人垣の向こうから現れたのは桃色の珍しい髪を持つ少女だ。オリーヴィアは深く淑女の礼をして彼女を迎えた。
「お顔を上げてくださる? あなたも王弟殿下と他国の王女殿下の娘、流れる血の尊さは私と変わらないのだもの」
その言葉でオリーヴィアはようやく深く落とした腰を上げた。
「フローリア殿下、シュタール王国へようこそお出でくださいました」
「あらやだ! まるで王族のようにわたくしを迎えて下さるのね」
「いえ、殿下。そのような意味ではございません。ご不快に思われましたら――」
「なぜ?」
フローリアは桃色の髪を揺らし、コトリと首を傾けた。そして頬に白く美しい手を当てて、心底分からないといった顔をする。
「なぜこのわたくしが、あなたの紡ぐ言葉で心を揺らさなければならないのかしら? あなた、その辺の草が風で揺れたからと言って、不快に思ったり嬉しく感じたりなさるの?」
柔らかく笑いながら、けれどもフローリアの瞳の奥にはオリーヴィアへの強い感情があった。嫌悪、侮蔑、そう言った感情がフローリアを突き動かしているようだ。
フローリアは王妃の母国である隣国の王女で、アルブレヒトとはいとこにあたる。昔から彼女はアルブレヒトに恋焦がれていたようだが、二代続けて同じ国から妃を得ることはできない。彼女の恋心がどうにか抑えられていたのは、他でもないオリーヴィアの存在が大きかった。
王家の血を引く都合の良い娘。幼い頃から寄り添い、周囲も認める婚約者候補。そんなオリーヴィアがいたからこそ我慢していたというのに、蓋を開けてみれば何とつまらない女だったのだろう。ふしだらにも貴公子たちを侍らせて、アルブレヒトのことは見向きもしない。フローリアにとってオリーヴィアは最早、憎悪の感情を向ける相手だった。
「わたくし”蝶”という言葉を初めて知りましたの。エメリッヒ公爵令嬢、あなたになんてぴったりなのかしら」
フローリアは可愛らしい唇を歪に引き上げ、くすりと笑う。あからさまな挑発であったけれど、オリーヴィアは笑った。邪気も無く、親愛を込めた眼差しで。思わぬ反応にたじろいだフローリアは、ツンと顔を横に向け足早に去っていった。
「あちらは隣国のフローリア殿下ね、とても可愛らしい方」
「清廉潔白なアルブレヒト殿下にお似合いだ」
そんな声が囁かれる中、アルブレヒトと国賓であるフローリアはファーストダンスを踊っている。
桃色の珍しい髪を持つフローリアは、天真爛漫さが可愛らしいとして、自国の民から愛されていると評判の姫君だ。桃色の絹地にたくさんのフリルやレースをあしらって、胸元のストマッカーには小ぶりなリボンがいくつかポイントとして縫い付けられている。
跳ねるように踊る王女。美しいというよりは、まさに可愛らしい姫君と言えるだろう。
「我が国の王子殿下には、ああいう可憐な姫君こそふさわしい」
密やかな声ではあったものの、その場にいる者たちの同じ意見だったのだろう。誰も異を唱える者はいない。
オリーヴィアがこの社交シーズンの間、派手に振る舞い続けたことで彼女の評価は大きく変わった。淑女の見本と言われていたオリーヴィアはもうどこにもいない。
婚約者候補の不実な様子を慰めようと、アルブレヒトの周りには多くの令嬢が侍りたがる。けれどもそれらを側に置くことをしないアルブレヒトの評判は、驚くほどに高い。その印象操作を、不実な婚約者候補当人が行っていることを知る者はほぼいない。
「あら、もう一曲踊るみたい」
だれかの囁きで、二人への注目は高まった。
夜会でのダンスは婚約者や恋人でない場合は一度きり。けれども可愛らしくもう一度ねだるフローリアに、アルブレヒトは抗うことが出来なかったようだ。
頬を染めるフローリアに、眉尻を下げるアルブレヒト。
「なんと初々しい」
自国の王子と隣国の姫君の戯れを、貴族たちは微笑ましく見守った。
このタイミングでフローリアが夜会に招かれたということは、アルブレヒトの妃候補の立場が空位であると示すようなものだ。不実な婚約者候補ではなく、他国の尊い血筋の姫君を探すのだと貴族たちに印象付けさせる目的があった。
(もう、良いかしら)
オリーヴィアはシャンパンのグラスを傾けながら、ぼんやりとそう思った。夜会には頻繁に出ているものの、今日はどこか疲れてしまった。
背筋を伸ばし、一歩一歩歩いて行くオリーヴィアに注意を払うものなどいない。下卑た視線は感じるものの、彼らはオリーヴィアが微笑まない限りは近づかない。今ほど生まれ持った権力をありがたく思ったことは、オリーヴィアには一度も無かった。
(冷たい)
テラスに出た瞬間に、夏の終わりの夜の冷たさがオリーヴィアを包み込んだ。月も出ない今日のような夜は、さらに何故だか寒く感じる。
(あら?)
風を強く感じるはずなのに、不意に目元が熱くなった。そして頬を冷たく濡らす。ぽたり、ぽたりと涙が落ちて、無意味に空いたドレスの胸元を冷たく濡らす。
感情をコントロールできないのは、今日が初めてだった。オリーヴィアは悲しさすら実感していなかった。だから彼女はどうしてこんなにも涙が止まらないのか、理解が出来なかった。分からないからこそ、あふれ出る涙を止めることができなかった。
テラスへ続くガラスの扉に男のシルエットが透けて見え、オリーヴィアはくるりと外を向く。
「リヴィ」
低く、小さく、そして気遣うようなその声に、オリーヴィアはただただ苛立った。
「何? 中は熱気が凄いでしょ? 涼んでるんだけど」
「そうだろうな」
ジークヴァルトはそう言って、一歩だけ足音を響かせた。
「だから放っておいてくれる? そもそもジークはアルの側近でしょ? 側近の意味わかってる?」
近づいてほしくないオリーヴィアは、いつもよりも強い言葉を投げつけた。距離が縮まれば、オリーヴィアが寒さに震えていることに気付いてしまう。しゃくりあげそうになる息を意地で抑え、オリーヴィアは話し続けた。
「そもそも何? こんなところまで来ちゃって。心配でもした? でもこれは私が書いた脚本で、予定通りことは進んでる。笑いこそすれ、心配されるようなことは――」
ジークヴァルトはオリーヴィアの言葉を待たず、大きく三歩歩み寄った。そうすればもう、オリーヴィアのすぐ後ろだ。
「心配なんて、してない。泣いてるとも思ってないし、暑いんだろうと思ってる」
そう言いながら、ジークヴァルトは彼の上着をオリーヴィアの肩にかけた。白檀の香りが微かにして、それがオリーヴィアはどうしようもなく嫌だった。大切な幼馴染に弱っている姿を見せて、平気でいられるオリーヴィアでは決してない。
「だからこれは、俺のお節介だ。急に冷やすと風邪を引く。明日熱を出すかもしれない友人を放っておけない。それだけだ」
鼻をすすれば泣いていることを認めてしまうような気がして、オリーヴィアはほんの少しも動けずにいた。ジークヴァルトが体の向きを変える気配がする。
(会場に戻るのかな)
そう思って、それをオリーヴィアは強く寂しく思った。誰かに縋りたい、そう思ったのは初めてだった。泣くときは一人が良いと常々思っていたはずなのに、どうやら心がかなり弱っている。
振り向いて、正装の裾を握りしめ、「行かないで」と願わなかったのは、彼女のプライドなどではない。これまで生きてきた習慣が彼女にそれをさせない、ただそれだけのことだった。




