幼馴染は今日まで【過去】
「お嬢様、起床のお時間ですがいかがいたしますか?」
「んん......、起きる」
オリーヴィアは嫌々ながらも枕から顔を上げた。今日も学友として登城する予定がある。普段はメイドから声を掛けられる前に起きる彼女だが、昨日はよほど疲れていたようで、太陽が高く昇るまで起きることが出来なかった。
「お嬢様、こちら冷たいお水と布です」
「ありがとう」
メイドはそう言うと、一度寝室から退室した。異変に気が付いても慌てずに、対処はしっかりとしてくれる。今日のような日は、エメリッヒ公爵家の使用人の質の高さに感謝をしたい気分だ。
「はあ、気持ちいい」
冷たい水で濡らした布を目の上に当てる。昨日は寝付くまで泣き続けていたから、瞼は腫れに腫れて前がほぼ見えないほどだ。熱を持った瞼には、冷たい布が心地よい。腫れが引く頃にメイドは戻り、何も言わずに身支度を整えてくれたのだった。
「何でここにいるの?」
オリーヴィアは腰に手をあてて、ジークヴァルトを睨みつけた。身支度が終わったころに、この三白眼の幼馴染が来訪していることを知らされた。急いで来てみたところ、応接室で優雅に紅茶を楽しんでいる彼を見つけたのだ。
母であるルクレツィアの好みで飾られたこの応接室は、小花柄の絹織物が壁に使われた可愛らしい部屋だ。大柄なジークヴァルトが持つと、母自慢の茶器は玩具のように見えてしまう。
「用事があった」
「我が家に何の用があるって言うの」
幼馴染であるジークヴァルトが、エメリッヒ公爵家に訪れたことは一度も無い。だからこそ、昨日のことで気を使ってわざわざ訪れたように感じ、オリーヴィアはついきつく当たってしまう。
「そうしていると、昔みたいだな」
ジークヴァルトは眩しいものを見るかのように、珍しく微笑んでオリーヴィアを見上げた。今日は普段の騎士服のようなドレスとは違い、母が誂えた令嬢らしいものを選んでいる。それにようやく気が付いて、何故だかオリーヴィアは真っ赤になった。
「なに!? なんかおかしい?」
「いや、いつも通りだ」
「いつも通り? なんかそれもおかしくない!?」
いろいろ納得できない部分はあるものの、オリーヴィアが寝過ごしたせいで時間が無い。文句をぶつぶつと言いつつも、ジークヴァルトと共に王城へ向かうのだった。
「何だか周りの視線が強い」
オリーヴィアとジークヴァルトは昔から歩きなれた回廊を進み、アルブレヒトが待つ王族の居住区域へと向かっている。けれどもいつもより周囲からの視線が強いことに気が付いて、オリーヴィアは首を傾げた。
「着ているものが違うからな」
ジークヴァルトは周囲を威嚇するように、ギョロッと見回している。大柄で目つきが悪いため普段から怖そうに見えるが、威嚇をすると誰も近づこうとは思えないようだ。
本日は登城するということで、オリーヴィアは昼に相応しい正装のドレスを身につけている。さわやかな水色のそれは、プラチナブロンドに碧色とも緑とも違う色の瞳という儚げなオリーヴィアに良く似合う。ふわふわと波打つ髪はハーフアップにし、ドレスと共布で作られたフォーマルハットで飾られた。
「そんなに違うかな?」
「俺には一緒に見えるがな」
「だからそれはそれで傷つくんだって」
「何で傷つくんだ?」
いつものように軽口を叩きながら進むと、ほどなくアルブレヒトが待つ応接室へと到着した。
***
「あれ? リヴ、なんだか違うね。なんでいつもと違うの?」
アルブレヒトは挨拶もそこそこに、オリーヴィアの変化に目を見張った。彼にとってのオリーヴィアは出会った時から昨日まで、ずっと男友達のような存在だった。社交の場面では勿論煌びやかなドレスを身につけるが、私的な場ではかっちりとした装いを崩さなかった。
だから今日の彼女の装いには驚いてしまう。柔らかい水色はオリーヴィアの可憐さを引き立てて、いつもと変わらないはずの髪や瞳まで美しく見せている。そこには確かに美しい令嬢がいるというのに、アルブレヒトはなぜか戸惑いや違和感ばかりを感じてしまった。
けれどその反応を、オリーヴィアは不満そうにではなく、どこか納得したような顔で眺めていた。
「せっかく幼馴染がおしゃれしてるんだから、ちょっとは褒めなよね」
やれやれと腰に手を当てて怒ったふりをしているけれど、オリーヴィアは楽しそうだった。
「二人ともに聞いてほしいんだけど、私、悪女になるわ」
「は!?」
反応したのはアルブレヒトだけ。ジークヴァルトはピクリとも反応しないので、エメリッヒ公爵家で何か耳にいれていたのかもしれない。
「待ってくれ、リヴ。悪女とはどういうこと?」
困惑するアルブレヒトを宥めるように、オリーヴィアは事情を説明した。
婚約を成立させない場合、オリーヴィアへの評価が高いために王家に不信感を持つものが現れる可能性。そして王家と公爵家の不仲が囁かれた場合のデメリット。不要な軋轢を生まないためにはオリーヴィアの評価を大きく下げる必要があることなどだ。
ジークヴァルトは静かに聞いてはいるものの、納得は出来ていないようだ。眉間の皺が深く、羽ペンが挟めそうなほどになっている。メイドが見れば悲鳴を上げるだろう。
「オリーヴィア、ごめん! 私はそこまで考えていなかった。私と君が想い合っていないのだから、穏便に済むとばかり。浅はかだった、申し訳ない」
「その点は反省しなよ、アル。今後、アルブレヒトが手にする選択肢はどんどん重たくなっていく。口から出た一言で、誰かの将来が変わるかもしれない。何かを選ぶときは、何を切り捨てることになるのかしっかり考えないと」
オリーヴィアが冷静にそう言うと、余計にアルブレヒトは縮こまる。幼少期から大切に育てられたアルブレヒトは、相手の立場を考えるということがあまり得意ではない。けれどその反面、学び、反省することを厭わないという良さもある。
「私の我儘でリヴの人生を壊したくなどない。昨日言ったことは忘れてくれ」
アルブレヒトは少し寂しそうに、けれどもどこかさっぱりしたような顔でそう言った。
「はあ!? それって私に、『君のことは好きじゃないけど仕様がない、結婚しよう!』 って言ってるって気付いてる?」
「だが、......それなら私はどうしたら......」
「昨日私にあれを言った時点で、もうどうなっても上手くはいかなかったんだよ」
オリーヴィアはそう言って、寂しそうに笑った。アルブレヒトは項垂れて、どうしたら良いか分からないようで視線をさ迷わせている。いつもであればそんな時、オリーヴィアはすぐに声をかける。不安定なアルブレヒトを守り、勇気づけ、発破をかけるのがオリーヴィアだからだ。
けれども今日は、丸まったその背中に手を当てることもしなかった。
「私は婚約者候補を降りる。自分の意志で降りてあげる。これが長年学友として共に居た、私からの最後の贈り物。三年間、悪女として暴れてあげる。だからアルは可愛いお嫁さんを見つけなよ」
悪女を演じるのは三年間。十五歳のアルブレヒトは、三年後に正式に王太子として冊立される。その頃には新しい婚約者候補を決めておくべきで、さらに言えばオリーヴィアが婚期を逃さないための期限でもある。
一方的に告げ、オリーヴィアは席を立つ。そして一切の隙が無い淑女の礼をとる。
「シュタール王国唯一の王子、アルブレヒト王子殿下。殿下の治世の安楽が幾久しくあることを願っておりますわ」
顔を上げたオリーヴィアは勇ましかった。その姿勢に圧倒されて、アルブレヒトは声をかけるのを忘れてしまう。閉まる扉を見て、引き留めようと立ち上がるけれど、それをやんわりとジークヴァルトが静止したようだ。幼馴染との別れの道となる帰路を、一人で歩ませてくれるその思いやりが、オリーヴィアにとって何よりもあたたかかった。
「ジーク! なぜ止めるんだ!!」
アルブレヒトは今日という日が岐路だと思った。大事な学友を引き留めるのは今日しかないと。遅すぎることに、アルブレヒトだけは気づいていなかった。
「引き留めて、どうする」
ジークヴァルトの声は冷たい。それに驚き、アルブレヒトは顔を上げた。
「アルは忘れたかったのかもしれんが、リヴィは女性だ。婚約者候補で無いのなら、あの子は傍にはいられない。お前が好きな女性を見つけるそばで、元婚約者候補が側近として控えられるわけないだろう」
「あ、ああ......」
アルブレヒトはそれに思い当たらなかった自分に驚いた。そしてその考えを否定する。分かっていたはずなのに、考えないようにしていただけなのだ。
現状を変えず、さらに手に入れたいものが出来ただけだった。優しい学友たちと共に生き、そして自身の無い自分でも、愛でられるような愛らしい女性に恋をしたかった。自分のような者でも恋が出来ると信じたかった。
「アル、落ち込んでいる場合じゃない。とりあえず今後の話をするぞ」
気遣いながらも話し出すジークヴァルトの声に、アルブレヒトは力なく反応するのがやっとであった。




