家族公認の悪女様【過去】
「楽しそうなのに、仲間はずれなど妬けてしまうわ」
そう言って、何の言付けもせずにおもむろに扉を開けたのは、公爵が愛する唯一の妻だ。娘と同じプラチナブロンドは緩やかに波打って、ふわりふわりと揺れている。小柄で幼げなのに、どこか妖艶さを含んでいる妻を、愛おしそうに公爵は迎え入れた。
「レティさん、完璧なタイミングだね」
「あらおかしな旦那様。わたくしがあなたの元を訪れるのに、タイミングが悪いだなんてこと、ありえまんせんでしょう?」
「そうだね、レティさん。愛しい奥さんが来てくれるなら、どんな時でも完璧だよね」
甘くとろける顔を妻に見せ、少し体をソファーの端に寄せる。ルクレツィアはゆったりと歩き、公爵の隣へと腰かけた。
オリーヴィアは母が来ることで、日常が戻ったことにほっと息をついた。父母の甘やかなやり取りは胸やけをしてしまうが、それでも悲壮な雰囲気が漂い続けるよりずっと良い。
「お母様、聞いてらしたんでしょ?」
「違うわ。聞こえたのだもの」
そう言い張る母に向かって、「レティさんは耳も良いんだよね。凄いよね」 とダルダルに蕩け切っている父は重症だ。
ルクレツィアは他国の王女ということで、誰もを圧倒する気高さがある。けれどもおてんば姫として自国で知られていた過去は伊達じゃなく、たまに驚くようなことを仕出かしてしまう。微かな物音でもしっかりと拾う良い耳を、彼女は愛する夫への観察に全て使っているのだ。
「もう! わたくしのことは今どうでも良いの。だってリヴィがとっても面白そうなことを計画してるのだもの。母として、あなたの計画を知る権利があるわ」
透かし彫りに金彩が施された扇子を広げ、母は楽し気に話を促した。
「まあ、お母様には何を申しても一緒ですよね」
オリーヴィアは諦めたように一つ息を吐き、前を向いた。その瞳には強い光が宿る。
「私、悪女になろうかと思います!」
「は!?」
「まあ!!」
オリーヴィアの突拍子も無い言葉に父は驚き、そして母は楽しんでいるようだ。
「まあまあ、リヴィ。悪女とはどんな風な? 数多の貴公子を誑かす? それともご令嬢方と激しくやり合うのかしら?」
「お母様、そのすべてをやり遂げたいのです!」
「それはなんと、高い志を持っているのね!!」
「ええ、諦めません。全ての者から悪女と呼ばれ、この身にありとあらゆる悪評を纏わせるまで、私、立ち止まらずにやり遂げます!」
母娘の会話が盛り上がり、すっかりと公爵はのけ者だ。話に入ろうとするも、あまりの勢いに跳ね返されてしまう。
「心配なのは我が家の家名を汚すことです」
「オリーヴィア、お父様を侮ってはならないわ」
思ってもいないところで妻に評価され、訳も分からず公爵はパッと顔を輝かせた。
「我がエメリッヒ公爵家の家名は愛娘が悪女になった程度で揺るぎません。あなたのお父様はそういうお方。気兼ねすること無く立派な悪女とおなりなさい。ねえ、あなた」
「ああ! もちろんさ。リヴィ、思いっきりおやりなさい!」
そう力強く言い切って、公爵はその言葉のおかしさに気が付いた。どこの世界に娘が立派な悪女を目指すのを手助けする親がいるというのだろうか。けれども最早後の祭り。愛しの妻と娘が計画を寝るのを、公爵はただ見守るしか出来なかった。
「はあ、疲れた――」
勢いよく寝台に倒れ込み、オリーヴィアは一人呟いた。父の執務室を後にして、まだ早い時間ではあったが早々に寝室に逃げてしまった。
彼女の寝室は好きなもので埋まっている。たっぷりと小花の刺繍が施されたカーテンに、淡いピンクにレースを重ねた天蓋。曲線が可愛らしいカブリオレレッグの家具に、クリスタル輝くシャンデリア。この部屋の中でなら、オリーヴィアは可愛くいられる気がしていた。たくさんの可愛いものに紛れれば、自分が可愛くあっても違和感が無い気がしていた。
枕に顔を埋め、体全体から力を抜く。すると重力が彼女を押して、柔らかい寝具に沈み込んでいくような気がした。
「終わったな」
枕に埋もれているのだから、くぐもって彼女の声は誰の元へも届かない。呟きでそれを確認すると、ぶわっと目元が熱くなった。そして思い出したようにジークヴァルトから手渡されたハンカチを取り出した。
「好きだった」
誰にも言えない告白は、枕がしっかり隠してくれる。オリーヴィアの初めての告白は、決して誰にも届かない。その代わりにくぐもった不鮮明なその音は、オリーヴィアの心に直接響いた。
アルベルトのためにした努力。それが無駄になっただなんて思わない。全てを糧にして、オリーヴィアはより強くなれるだろう。けれど心の中に居る、ちっぽけな少女がめそめそと泣いている。
好きだから、男の子みたいに振る舞った。
好きだから、お勉強もマナーも全部、覚えたの。
好きだから、好きだなんて、言えなかった。
好きだから、女性を怖がるアルブレヒトに気持ちを見せることなど出来なかった。
アルベルトが少しずつ、女性への恐怖を和らげているのは知っていた。最初は教会の敬虔な老シスター、次は孤児院の幼い少女たち。やがてメイドにも慣れてきて、デビュタントの令嬢と社交の一環としてダンスが出来るまでになっていた。
それでも怖くて、オリーヴィアは変わることが出来なかった。
幼馴染であるオリーヴィアが突然雰囲気を変えてしまい、アルベルトが拒絶することが、怖かった。アルベルトの信頼を裏切ることが怖ろしく、ぬるま湯のような日常を変えることが出来なかった。
幼いころに、「君は他の人とは違うんだね」と嬉しそうに微笑んだアルベルト。その記憶が、オリーヴィアをがんじがらめにしてしまった。
大好きで、大好きで、どんなものからも守ってあげたかった、オリーヴィアだけの王子様。
ぽろぽろと流れる涙は熱くて、白いハンカチはすぐに冷たくなった。けれどオリーヴィアはそれを手放さず、救いを求めるように握りしめた。
「さよなら、アル」
ぽつりと呟いた言葉はオリーヴィアの本心だ。隣に立てるよう、努力を重ね続けてきた。誰もが権謀術数をめぐらす王城は、一歩間違うだけで後ろ指をさされて追いやられる。だからアルブレヒトとオリーヴィア、そしてジークヴァルトの三人はいつだって三人で身を寄せ合った。
押し寄せる突風に弾き飛ばされぬように、ぎゅっと固まって。けれども騎士の背中に隠れていた可愛い王子様はもういない。弱点を捨て、今彼は自分の足で歩みだそうとしている。そしてその旅路にオリーヴィアは必要無い。
苦労してほしいような気もしている。それは初恋に敗れたオリーヴィアの願望だ。
けれど最愛の人と巡りあい、幸せになってほしい気持ちもあった。幼馴染として、そして友人として長い時間を共にしたからこそ、アルブレヒトには幸せが似合う気がしていた。
明日からは頑張ろう。そう思ってオリーヴィアはもう一度泣いた。しゃくりあげて、わんわんと、けれど寝具にくるまって、声だけは外に漏らさぬように。涙に濡れて、びしょびしょで、すっかりもうそんなはずはないけれど、ジークヴァルトのハンカチから背の高い幼馴染が纏う白檀が香ったような、そんな気がした。
すんと香りの残りを辿り、アルブレヒトのそれとは違うことに、また泣いた。




