プロローグ
夜を支配するのは闇。けれども世の理を覆すのが権力というものだ。
それはこの、長く平和を貪るシュタール王国でも変わることはない。夜の闇を打ち消すように、王城の夜会では無数の光が使われている。シャンデリアにぶら下がる研磨された水晶がろうそくの光を反射して、会場は揺れる光がちらちらと降り注ぐ眩い夜となる。
目が眩むような幻想的な空間の中で、それでも強く存在感を放つ少女が踊っていた。
「オリーヴィア嬢、とても楽しそうでいらっしゃる」
「ええ、好きなのですもの」
突然の少女の告白に、ダンスをリードしている紳士は一気に顔を朱に染める。トクトクがドクドクとした鼓動に変わるころ、紳士は手が汗ばんでいることに気が付いた。当代きっての遊び人と言われる紳士の照れた顔など、なかなか見る機会もないだろう。
「わたくし、ダンスがとっても好きなのです」
少女はそう言って、恥ずかしそうに目を伏せた。長い睫毛が美しい瞳を隠し、白磁の肌に影を落とす。宮廷楽団の奏でるワルツに合わせ、空色のドレスの裾がふわりと広がった。薄絹が軽やかに舞い、裾に施された銀糸の刺繍が鮮やかに目に映る。
「あなたもお好きなのでしょう?」
紳士は自惚れを知り一度は熱を抑えるけれど、ターンをしてもう一度、自分を見つめる少女にそう聞かれるものだから、体を震わす鼓動はどうやってもおさまることはない。
「ええ、私はオリーヴィア嬢と共に踊るのが好きですね」
「まあ! わたくしと一緒ですわね」
そう言って少女は笑顔を深めた。
オリーヴィアは美しい少女だ。艶やかなプラチナブロンドは豊かに波打ち、白磁の肌を持つ。目の下にあるたった一つのほくろは彼女の肌の白さを強く感じさせ、すっと通った鼻筋に控えめだけれども形の良い桜貝のような可憐な唇。精巧な人形のような可愛らしさは彼女の笑み一つで妖艶に崩れる。
そして何よりそれらすべての表現が不必要に感じるほどに、圧倒的に美しい瞳を持っている。
碧色とも緑とも言えないその色は、はるか遠く南にある、白い砂浜の海の色と吟遊詩人たちに歌われる。彼女の首元を飾る素晴らしいエメラルドの首飾りですら、オリーヴィアの瞳のようだと言うには荷が重いだろう。ほんのりと垂れた目尻は幼さと妖艶さを不思議なバランスで両立させている。
「オリーヴィア嬢、今日もお美しいなぁ」
「幼げで何も知らない風なのに、実は何でも知ってるような。不思議な引力があるんだよな」
宮廷楽団が奏でる緩やかな三拍子にのって、周りを囲む紳士たちの声が届く。オリーヴィアの美しさは誰もが口をそろえて褒め称える。それに異存があるものは今の社交界には居ないだろう。けれども彼女の美しさを認めることと、彼女自身を認めること、それは決して同じではない。
「ほら、ご覧になって! エメリッヒ公爵家の令嬢がなんと嘆かわしい」
「あら本当に。次から次へと殿方の誘いにのって、なんてふしだらなのかしら」
「仕方がないことだわ。だってあの方が何と呼ばれているか知っていて? 『高貴なる蝶』ですってよ」
次に届くのは優美な扇子越しの嘲笑。
蝶とはシュタール王国の社交界において、高級娼婦の隠語だ。パートナーのいない紳士たちは、社交の場にウィットに富んだ蝶たちを伴うことも多い。叩きこまれたマナーに深い知識、彼女たちはただ春をひさぐ少女たちとは一線を画す。けれどいくら”高貴なる”と枕詞をつけたところで、貴族令嬢にとってその二つ名は嘲りでしかない。
淑女の囁きは静かに響き、遠くまで良く通る。彼女たちが囁くのは、その場にひっそりと、でもしっかりとそれを知らしめたいからだ。淑女が抱える本当の秘密が、社交の場で口に上ることなど無いのだから。
「ああ、残念です。どうかこの哀れな男ともう一度踊ってはくださいませんか」
宮廷楽団が奏でる緩やかなワルツが最後の音を響かせる頃、当代きっての遊び人と称される紳士はオリーヴィアに跪き懇願した。他の男たちの一歩先に躍り出たい、そんな願いを少女は無邪気に躱していく。
「まあ、とっても嬉しい」
思わせぶりにそう言って、無造作に、けれども目の前の紳士にだけ見えるようにほんの少しドレスの裾を持ち上げた。そこには今にも折れてしまいそうな華奢な足。引き締まり、新雪を思わせる無垢な足首から目が離せなくなっている紳士の頭に、オリーヴィアは言葉を落とす。
「それなのにわたくしの足ときたら怠け者ですの。もう一歩でもステップは踏みたくないのですって」
散々遊びつくし、今更女の足を見たところで何か思うわけも無い。それなのにこの遊び人は体に熱い血液が暴れまわるのを感じてしまう。
「脆弱な足首にかわって謝罪をするわ。出口まで支えてくださる?」
そう言って普段のエスコートよりも少しだけ体を寄せてしまえば、たちまち紳士はダンスをもう一度頼み込んだことさえ忘れてしまう。熱に浮かされたようにふわふわと、オリーヴィアをエスコートして壁際へと夢見心地で下がるのだった。
「オリーヴィア嬢、馬車まではこの私が」
「いや、何があるかわからない。騎士である俺が送ろう」
「警備も万全な王城の舞踏会で何があるというのか。僕がお供いたしますよ」
壁に下がるとオリーヴィアは一気に多くの紳士たちに囲まれる。そのいつも通りの光景を、令嬢や夫人たちは遠巻きに眉をひそめながら見つめていた。
「今日はあなたにお願いするわ」
「はい! 光栄です!!」
オリーヴィアは自分を囲む男たちをぐるりと眺め、その中から一人を指名した。帰宅するための馬車へのエスコートは、いつからか男たちが争奪戦をするようになったのだ。オリーヴィアが何を基準に、その役目を選んでいるのかは誰にも分からない。
けれども夜会のたびに誰かを指名するオリーヴィアに選ばれたくて、紳士たちは競うように彼女へ贈り物を送り続けている。それが面白おかしく噂され、一部の淑女たちの間では、「貢物の多さでは」 などと囁かれるようにまでなっていた。
オリーヴィアが出口の大きな扉へと向かう。
一歩足を踏み出すごとに、最早聞こえないだろうとばかりに悪意ある噂や下卑た言葉が飛びかった。エスコートの青年は顔を青くして、この悪の巣窟のような場から姫君を助け出そうと歩調を早めようとする。けれどもオリーヴィアは肘に添える手に少し力を入れ、その勢いをあっけなく殺してしまう。
ゆったりと歩き、空色の輝くドレスの裾が揺れる。
一切ブレない頭の位置は、彼女の身のこなしの美しさを表すもの。すっと伸びた背筋は一本芯が通っているようで、あれだけ憎たらし気に噂していた夫人方ですら息を呑む美しさだ。
悪意、欲、羨望に蔑み。
あらゆる感情を華奢な背中で受け止めて、それでもオリーヴィアは目線を落とすことも背を丸めることも決してない。
彼女こそが社交界の悪の華。そして手折れぬ高貴なる蝶。人の思惑など知らぬとばかりに、オリーヴィアは軽やかに眩い夜から立ち去った。
新しく連載を始めました。長編になると思うので、長くお付き合いいただけたら幸いです。