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三島涼平は診察室の椅子に腰をおろしていた。この日は患者が少ないだけあって、彼が心療内科医として身を置く『ながぬまクリニック』は閑散としている。暇と感じる時間が長く、夏の静寂に包まれた室内の空気は眠気を誘う。
今日はもう、終わりなのか――。
そんな思いが少しずつ渦巻き始めた。普段、三島の診察室には心の不調を訴える者が絶え間なくやって来る。老若男女を問わず、様々な人種がカウンセリングを受けにくるのだ。病院の診察受付時間は夕方の6時まで。机上の時計の針を見ると、あと20分らしい。それまでに患者が来なければ、この日の仕事は終わり。
「あと20分で帰れる……」
頭に浮かんだ言葉が、つい声に出てしまい、三島は思わず周囲を見回した。診察室には誰もいない。この一言が誰かに聞かれてしまっては大変だった。院長にでも聞かれた日には「気が緩みすぎじゃないかね?」と小言を刺されてしまう。三島がほっと息をついたその時、ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します」
入ってきたのは、看護師の広瀬優子。この病院に勤める看護師で、年は三島より少しだけ上。対して口数の多い女ではないが、三島とは度々雑談を繰り広げる仲である。
「先生、初診の方がいらしてます」
三島は読んでいた週刊誌を机の中に慌ててしまった。
「初診か。カルテ、ある?」
広瀬は両手で持っていたファイルを手渡す。その際、半袖のナース服の袖口から見える白い腕に、三島の視線が行った。季節は夏。季節の流れを三島は感じた。
「ん……なるほど、ね。カウンセリングを希望か」
三島は問診票にざっと目を通す。この日は、最初で最後のカウンセリングになりそうだった。来なければ帰れたのに、などとは口が裂けても言えない三島は笑顔をつくって広瀬に合図を送る。
「分かった。広瀬さん、お通しして」
「分かりました!」
広瀬が診察室を出てしばらくすると、再びドアをノックする音が聞こえる。
「どうぞ、お入りください」
「失礼します」
ノック音が広瀬のそれとは明らかに違う。三島は部屋の入り口に目をやった。すると、スライド式のドラがゆっくりと開き、50代前半と思われる痩せた男が室内に入ってくる。青のワイシャツにベージュのスラックスという良くも悪くも年相応の服装だった。
「どうぞ、お掛けくださいな」
三島が着席を促すと、男は小声で、失礼しますと呟きながら腰かけた。
「はじめまして。私、三島といいます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「いえいえ、こちらこそ」
そう言って、男は頭を下げる。座礼にしては、頭を下げている時間が長かった。
「あの……もう、結構ですよ? 頭をお上げください?」
「は、はい」
ようやく男は頭を上げる。緊張しているのか。男の額に浮かぶ若干の汗を三島は肉眼でとらえた。
「どうぞリラックスしてください。そうそう、この部屋は暑いですよね。いまクーラー入れますから!」
「い、いえ。どうかお構いなく……」
「本日はカウンセリングですね?」
「はい。よろしく、お願い、いたします……」
カルテに視線を落としながら、患者に問いかける。氏名欄には小宮山泰之とあった。小宮山が書いた文字は少々読みづらい。典型的な殴り書きである。三島はそこに、患者の精神状態を読み取った。
緊張しているのか――。
三島は言った。
「小宮山さん、ここでお話になった事は一切の秘密をお守りいたします」
「それは、ありがたい話ですね」
このように患者の僅かな言動や仕草から推察を行い、適切な声かけを行うのもカウンセラーの役割である。
「では、始めます。小宮山さん、出身地は?」
小宮山は少々うつ向きながら、早口で答えた。
「埼玉県熊谷市」
「熊谷ですか! うどんが美味しい街ですよねぇ」
三島は熊谷の生まれだ。目の前の患者が同郷だったことに、彼は少々驚いた。一方の小宮山は、伏し目がちに三島を見ている。
「え、ええ…」
小宮山は未だ緊張しているようだ。ここは解してやらなければ、と三島は話を振る。
「実は私も熊谷出身なんですよ。まぁ私の場合、生まれたのは東松山の病院だったんですけどね。あの街は坂が多くて、おかげで小さい頃から脚が鍛えられましたよ」
「まあ、はい」
小宮山は小声で頷くだけで、自ら会話を切り出そうとしない。しばらくの間、沈黙が流れる。
「……先生は子供の頃、缶蹴りはやってましたか?」
意外な言葉が出た。
「缶蹴りですか?」
思わず復唱してしまう。三島は子供の頃、その遊びに熱中していたのだ。
「缶蹴りは…しょっちゅう、やってましたね。兄たちに混じって、毎日泥だらけになるまで遊んでいた思い出があります。私の世代は、玩具も無ければテレビゲームも無くて、子供の遊びと言ったら、外遊びが主流でしたので」
「ええ。実は私もです。楽しかったですよねぇ。あの頃は」
小宮山の表情が次第に柔らかくなってゆく。その様子を確認しつつ、三島は次の質問に移る。
「おいくつですか?」
「48です」
「私の6つ上、ですか」
「はい!」
小宮山はすっかり笑顔になっていた。先ほどの緊張した様子とはまるで対照的だ。今度は小宮山から話を切り出した。
「三島先生、私の話を聞いてくれますか?」
「ええ、もちろん。何でもおっしゃってください」
「良かったです」
珍しい患者だと三島は思った。やがて小宮山はゆっくりと話を始める。
「私は大学を出てから、中学校の教師になったんです」
彼の口調は、つい10分ほど前よりもずっと軽かった。
「学校の先生なんですね。何を教えていらっしゃるんですか?」
「正確に言えば学校の先生、でした。過去形です」
「既にお辞めになっていると?」
「ええ。かなり前に」
小宮山の表情は明るいままだったが、瞳の色は違う。やりきれない何かを心に秘めたような、悔しさに満ちた暗い色。三島の診察室には、このような患者が度々訪れる。役人として薔薇色のエリート人生を歩んでいたものの、何らかの理由で退職に追い込まれ、それがきっかけとなり人生が一変した者だ。
彼らは自分の華やかな過去に執着し、それを取り戻したいと心から願う。だが、そう簡単には取り戻せないのが現実というもの。誰も彼もが理想とのギャップに苦しむ。そして、三島のカウンセリングに救いを求めてやって来るのだ。三島は小宮山の瞳を見て、彼の過去に何か暗い出来事があったと推察した。
「私は理科の先生でした。教師という職業を選んだ理由、それは単に『子供たちに科学の楽しさを伝えたい』という思いからです」
「ほうほう」
「あと、もう1つありますが」
「どんな理由ですか?」
「中学生の3年間って、人生の中で最も色の濃い日々を過ごす時期じゃないですか。あ3年間で学んだ事や得た物は、その後の人生で大きく影響する。いわば人生の土台を作る3年間なんですよ。だから私は、そんな子供たちの土台作りのお手伝いをしてやりたかったんです」
過去の自分が思い描いていた理想を語る小宮山の声は、まるで現役の教師のようだ。はきはきとして生気に溢れている。
「たしかに。私も同意見ですよ。義務教育最後の3年間でもありますから、そういった意味では、社会に出るための準備期間なのかもしれませんよね。小宮山さん、素晴らしい先生じゃないですか! いやぁそんな先生に、私も教わってみたかったものですよ」
「いえいえ、そんな。恐縮ですよ。そう思って頂けるなら嬉しいです。しかし、私の教師人生は、あまり順風満帆なものではありませんでした」
「と、言いますと?」
「教員採用試験をクリアして最初に赴任した中学校は、一言で表すなら『無気力主義の塊』でした」
小宮山から笑みが消える。三島はすかさず問いを挟む。
「無気力主義の塊?」
「はい。生徒は高校受験の事しか頭に無く、定期試験で高得点が取れれば、それで良い。一方で教師は、校内で何か問題が起こらなければ、それで良い。生徒も教師も、みんなが無気力。誰もが死んだ魚のような眼をしていましてね。私のような熱血教師の居場所は、あの学校にはありませんでした」
「そうだったんですか。小宮山さんは、そんな状況下で、どのように過ごされたのですか?」
「自分らしく、自分のやり方を貫こうと、努力しました。しかし、無駄な努力でした。特に保護者との軋轢が酷かったです。実験がメインの授業を行えば『真面目にやれ』とクレームが来ましたし、授業中に居眠りをした生徒を厳しめに叱ったら『うちの娘に手を出すな』と、父親が学校に怒鳴り込んで来たこともあります。あの頃は毎日が闘いでしたよ」
「モンスターペアレントってやつですか」
「ええ。まさにそれです」
その頃、日本に『モンスターペアレント』などという言葉があっただろうか。三島は当時を振り返った。少しの間、想起の引き出しを探ってみたが見つからない。一方、小宮山は話を続ける。
「そんな空回りしてばかりの教師生活でしたが、唯一の支えは娘の存在でした」
「娘さんがいらっしゃるんですね?」
「それも過去形ですが」
「はぇ?」
三島は思わず、おかしな声を出した。その声色の甲高さに、小宮山は目を丸くする。2人の間に再び沈黙の時間が流れた。三島が普段なら上げないような声を上げてしまったのは、何も唾液が気管に入ってしまったからではない。目の前の患者の口から、再び『過去形』という言葉が出たからだった。少々驚いた顔をしている小宮山を見て、三島は彼の娘が既に死亡していることを察した。
「お亡くなりになられたのですか?」
「ええ。本当に可愛い子でしたよ。親の贔屓目ではなく、誰からも愛される、気立ての良い娘でしてね」
亡くなった娘の事を語る小宮山の表情に、三島は若干の違和感を感じた。娘を亡くした父親の表情ではないのだ。三島のところには、子を喪った親がたびたび患者として訪れる。小宮山の表情はこれまでに診察した、どの患者のそれとも違うのだ。娘を亡くしているにも関わらず、どこか余裕のある態度で話している。
以前、三島のカウンセリングを受けに来た老婆は、30年前に事後で亡くした息子の話をしている最中に泣き崩れた。だが、いま目の前にいる小宮山は、涙を流していないばかりか、話の途中で声を詰まらせることもない。悲しい思い出話をしているような口調であった。
「娘がこの世を去ってから、長いこと経ちます。あの日のことはまるで、昨日のことのように覚えています。突然でしたからね」
「そうですか。ちなみにどのくらい前に?」
「ええっと……」
小宮山は目を伏せて考え込む仕草を見せる。それはしばらくの間、続いた。
「あ、無理に思い出されなくて結構ですよ」
思い出すのが辛そうだと感じたので、三島は助け舟を出した。しかし、それに対して小宮山から想像もしない言葉が返ってきた。
「殺されたんです」
「え?」
「ある事件に巻き込まれたんですよ」
「ある事件? すみません。おっしゃっている意味が分かりません」
混乱する三島をよそに小宮山は続ける。
「今から15年ほど前に、この辺りで殺人事件があったんです。先生、覚えてませんか?」
「いやぁ…申し訳ありませんが、分からないです。その頃、私は大学病院に勤めておりましたので」
「そうですか。じゃあ、仕方ありません。でも、当時は大きなニュースになったんですよ。連日、テレビや新聞がこの事を取り上げていましてね。もう大変な騒ぎでしたよ」
三島はようやく思考が追い付いてきた。
「大きな事件だったのですか?」
「ええ。犯人にとっては小さな事件でも、私にとっては大きな事件です」
小宮山の口調は先ほどと変わらず、淡々としている。
「娘はその時、中学生でしてね。ブラスバンド部の活動を終えて、下校する最中だったんですよ。夕暮れ、薄暗い帰り道を歩いていると、娘は若い男に背後から襲われ、首を絞めて殺されたんです」
「……」
三島は話がここまで重くなるとは思ってもいなかった。返答するのに適切な言葉が頭に浮かばない。何と言って良いのか、分からなかったのだ。カウンセリングを始めて10年は経つが、このようなケースは初めてだった。
「娘の遺体は、現場近くの雑木林に遺棄されました。あの子の変わり果てた姿を見た時、私はもう、頭の中が真っ白になったのを今でも覚えています」
「犯人は……捕まったのですか?」
小宮山は一呼吸置いた後、低い声で答えた。
「犯人は、娘の遺体が見つかった日の夕方に捕まりましたよ」
「そう、ですか……」
その後も小宮山は低い声で、淡々と話し続けた。犯人の男は22歳の無職だったこと、娘の遺体に付着していたDNAが逮捕の決め手になったこと、犯人は衝動的に犯行に及んだことを三島に語った。三島にとってはどれも衝撃的な話だったが、中でも、その後の裁判で犯人の男に下された判決についての話は、群を抜いて衝撃的だった。
「一審で懲役10年。私は極刑を望んでいましたけど……最高裁まで争いましたが、結局、量刑は変わりませんでした」
「えっ」
「軽すぎるでしょう? 人の娘を殺しておいて、たったの10年。私は、無念でなりません。彼は…いや、あの男は、死をもって償うべきなんです。なのに…」
そこまで話すと、小宮山は大きなため息をついた。歯噛みしているのか、口元にしわが寄っているのが分かった。彼の話はまるで映画のように、三島の心の中に入ってくる。それから40分近く話していたのだが小宮山には一切、疲れた様子が無かった。むしろ、聞き手側の三島の方が疲れた様子だった。職業柄、患者の長話には慣れている。しかし、この日は違った。話の重さが、普段訪れる患者のそれとは比べ物にならなかったのだ。
「すみません。つい、長くなってしまいましたね」
「いえいえ、気にしないでください」
三島がそう言うと、小宮山は薄く笑みを浮かべた。そして、再び話し出した。
「私の人生は、15年前の事件がきっかけで狂いました。遺された私と妻は心を病みました。私は教師を辞め、自宅に引きこもるようになりました。妻は娘を失った悲しみに耐えきれず、5年前に自ら命を絶ちました」
「奥様もですか」
「ええ。娘のいない人生が、彼女にとって余程、辛いものだったのでしょう。自殺した妻を責めることはしません。けれど、妻がこの世を去って、私は独りぼっちになってしまった。独りぼっちの人生は、何もかもが灰色に見えます。楽しいことを楽しい、綺麗なものを綺麗、明るいものを明るい、と素直に思えないんです」
小宮山の表情は変わらない。やはり、淡々とした口調で話し続けている。悲劇的な話であるはずなのに、声にはほとんど抑揚が無かった。まるで、事前に用意された原稿を読んでいるみたいだ、と三島は感じた。こんな感謝は珍しいとも感じた。
「小宮山さん、お辛い経験をされたのですね。実は私も5年前に家族を亡くしています」
「えっ」
小宮山は一瞬、驚いたような顔をした。三島は続ける。
「自殺でした。私の父には、ずっと昔から悩んでいたことがありましてね。父の人生の大半は、その悩みと向き合い続けてきたようなものでした。でも、目を背けたい現実にいつまでも対峙し続けられるほど、人間は強くない。20年以上も、現実と闘い続けてきた母は壊れてしまったんだと、私は思っています」
三島は頭の中で言葉を探しながら、話し続ける。
「人生をやり直すことはできません。ですが、現実から目を背けて、逃げることくらいなら、誰にでも出来ると思うんです。私の母は、悪い意味で真面目すぎたんです。真面目すぎたから、目を背けることや、逃げることを『悪いこと』だと捉えて、無理して現実と向き合い続けたのだと思っています。だから、小宮山さん。貴方には、そうなってほしくない。まずは、心に麻酔をかけてみてはどうでしょうか?」
「心に麻酔をかける……とは?」
「過去への執着を捨てるのです。人生とは不条理なもので、起きてしまった出来事は、絶対に取り返しがつかないし、やり直すこともできません。しかし、その後の生き方は自由に変えられます。過去に後悔し続けるより、未来に後悔しないように今を生きることが出来るんです。自分はただの人間であり、こらからを生きる、未来を生きることができる。そう心の中で唱えてみてください。そうしているうちに、心は『自分に辛い過去など無い』と錯覚するんです。私は、そうやって心に麻酔をかけて、ネガティブな出来事をポジティブに捉えられるのが、人間だと思っています」
小宮山は大きく、ゆっくりと頷いた。そしてしばらく目を閉じた後、呟くように言った。
「久々に……話せて良かった」
「えっ?」
「いや、深い意味はありませんよ。過去の事を誰かに打ち明けるのは久々の事なんです」
「ああ、そうだったのですか」
三島は、小宮山の表情が、先ほどよりも明るくなっていることに気づいた。その表情は安堵の色に満ちていた。
「先生、今日はどうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。どうか、ご自分を労ってあげてくださいね」
「はい。ここに来て、心が軽くなったような気がします。また、来ても良いですか?」
「もちろんですよ。それでは、お大事に」
小宮山はすっかり笑顔になっていた。そして、頭を下げながら診察室を出ていった。患者が去ったあとの部屋を眺めながら、三島は時計に目をやる。時刻はもうすぐ、午後7時をまわろうとしていた。時が経つのは体感よりもずっと早いものだ。そんな感覚に三島が浸っていると、ノックの音が聞こえる。
「先生、ちょっと良いですか?」
広瀬の声がした。
「ああ。いいよ」
入室を許されるや否や、広瀬は言った。
「さっきの患者さん、保険証を持っていなかったみたいです」
三島は目を丸くした。健康保険証を持たずにやって来る患者は珍しいのだ。
「全額自己負担でも構わないと仰っていました」
「今どき、そんな人がいたなんてな」
「ええ。滅多にないことですよねぇ」
三島にはもう1つ、気になることがあった。それは小宮山が語った『事件』について。カウンセリングで犯罪絡みの話を出す患者は多いが、この日は一段と興味を引かれた。幸運にも余暇があった三島は、調べてみることにした。
翌日、7月9日。三島は○○ホテルのラウンジに来ていた。友人の神田謙一に会うためだ。神田は三島より5つ年上で、弁護士をやっている。彼は大学を出てから4年連続で司法試験に落ち、苦学の末にようやく法曹資格を手に入れた経歴を持つ。
そんな苦労人の神田と三島は、共通の知人の紹介で4年前に知り合った。それ以来、月に1回は食事に行く友人関係が続いている。三島にとって、饒舌で明るい神田はとても話しやすい。彼はとにかく人当たりが良いのだ。食事の誘いは決まっていつも、神田の方から連絡が入る。この日も神田からの誘いだった。
「よう、三島くん。相変わらず遅刻しねぇなぁ」
「時間にルーズなら医者なんかやってられないよ。よし、座ろうか」
時間は午後0時12分。三島は20分前には現場に到着しており、ホテルの地下駐車場で待機していた。12時を少し過ぎる頃には店の前に移動し、左腕に着けた銀時計で、時刻を何度も確認しながら待っていたのだった。神田は待ち合わせに遅れなかった。長年弁護士をやっている神田は、必ずといって良いほど時間を守る。そんな時間にシビアな神田と三島は、ウェイトレスの案内で席に着いた。
「神田さん、最近調子はどう?」
「ああ、残念ながら良いとは言えんよ。今まで相談役をやらせてもらってたところが倒産したり、傘を持っていないのに出先でスコールに襲われたり。最近は踏んだり蹴ったりだよ」
「そりゃあついてないね」
「あと、先週の水曜日。3人組の男が、事務所に押しかけて来やがった」
「またかよ……」
神田は以前、自分は誰かの恨みを買いやすいと三島に話していた。
「うん。幸いなことに、そいつらは特に刃物とかを持っていたわけではないんだけどね。物凄い剣幕だったなぁ。『ぶっ殺してやる!』って言われたよ。俺も負けじと『やれるもんならやってみろ!出来ねぇならさっさと帰れ!』って言い返してやったよ」
「穏やかじゃないなぁ、神田さんの日常は」
「そのあと警察を呼んで、何とかその場は収まったよ。けど、また同じような事が起きないとも限らないからね。近くの交番の警官が、しばらく事務所のまわりをパトロールしてくれることになったよ」
神田は弁護士という仕事柄、その身に危険が迫った経験は1度や2度ではない。その原因は仕事だけでなく、彼の私生活にもあった。女性関係だ。不倫相手との別れ話が縺れ、交際していた女性に左の太腿部を果物ナイフで刺されたことがあるほどだ。神田の女癖の悪さは三島も知っていた。
「でも、神田さんはそういうのに慣れてるんじゃない?」
「慣れてると言えば、慣れてるかもな」
やがて、注文した料理が運ばれてくる。三島はグラタン、神田はサンドウィッチをそれぞれ頼んでいた。
「ところで三島くん、今日はどうしてこの店を選んだか分かる?」
「え、分かんない」
「久々にここのカツサンドが食いたくなったのと、俺らの安全を確保するためだよ」
「安全を確保するため?」
「ああ。このラウンジは、何かと混雑していることが多いからね。しかもホテルの1階という、人通りが多い場所に隣接しているから、何かあってもすぐに対処できる。例えば、包丁を持った奴が襲ってきたとしても、すぐに助けを呼べる。フロントもすぐ近くにあるからね」
「おいおい、やめてくれよ。怖いじゃん」
「あははは。ビビらせたのは悪かった。けど、弁護士をやってる以上は、いかなるリスクにも備える必要がある。様々な事態を想定して行動するのさ」
そう語った神田は、サンドウィッチを頬張った。そのあまりにも得意気な様子が、三島にとっては少し可笑しかった。
「物騒な世の中だよ、ほんと。最近、この辺りで殺人事件も起きたって話じゃん」
「え、何それ……」
「三島くん、知らないの? 全国紙でも報じられてるのに」
「初めて聞いたよ。俺、新聞は政治欄と経済欄しか読まないから」
「たまには社会欄も読むべきだぜ? ほら、このニュースだよ」
神田はスマートフォンを取り出し、ネットニュースの記事を神田に見せた。
『8日未明に都内の路上で発見された中年男性の遺体について、警察はきょう、発見時の所持品などから男性の身元を特定したと発表した。警察によると、死亡したのは江東区亀戸の自営業、川田康彦さん(62)。川田さんの遺体には首を絞められた跡があったことから、警察は川田さんの死因を窒息死と断定。殺人事件の可能性を視野に入れ、関係者から詳しく話を聞く方針だ』
このサイトは三島もよく利用しているが、初めて見たニュースであった。
「殺人事件か……」
「ああ。こういう例えをしたら駄目なんだろうけどさ、今の世の中、誰にだって突然殺される可能性はあるってことだよ。知らず知らず誰かに恨まれてるかもしれないし、散歩をしていたら通り魔に襲われるかもしれない。だから常にリスクに備えて行動すべきなのさ」
神田はスマホを懐中にしまうと、再びサンドウィッチを食べ始めた。三島も冷めてしまったグラタンに手をつける。それからしばらく、他愛もない話をした。三島は神田に、日常生活における些細な悩みを相談する。
三島とは兄弟のように年が離れているだけあって、神田の話は妙な説得力があった。この日はスマホを新しくしてからというもの、迷惑メールが頻繁に届くようになったと相談した。神田は三島にセキュリティの設定について詳しく教えた。
神田は何か説明をする時、実際に起きた事件やトラブルを例に出す事が多い。彼の話は独特の間が面白く、三島は神田の話を聞いていて飽きることはなかった。2人のスマホ関連の話が終わる頃には、テーブルの上には食後のコーヒーが届いていた。
「とにかく、三島くんも気をつけて生活するべきだよ。身のまわりの安全とか、ネットのセキュリティとか。こんな物騒な世の中だ。いつ、何が起こってもおかしくはないんだから」
「そうだね。気をつけるよ。神田さん、このあと予定とかある?」
「夕方まで、ぎっしり詰まってるよ。何かあった?」
「いやぁ、前に言ってた資料の件、時間が許したら行こうと思っててさ」
「ああ、そうだったね」
三島は小宮山の娘が巻き込まれたという事件について少し調べてみようと思ったのだが、ネットの検索サイトではごくわずかな情報しか出てこない。それ故に弁護士の神田なら、当時の事件についての資料を保管しているのではないかと思ったのだ。
「三島くん、悪いねぇ。この後は無理だわ。明日以降、暇な日があったら連絡するわ」
「ありがとう」
「んじゃ、俺はそろそろ行くよ。また後でね」
神田は席を立つと、会計を済ませて足早にホテルを出ていった。三島の分まで支払いをしてくれていたようだった。あの人らしいな、と三島は思った。
7月16日。忙しい夏の午後を過ごしていた三島の携帯が鳴った。神田からの着信である。
「よう、三島くん。いま話せるかい?」
「うん。話せるよ」
電話の向こうが騒がしい。車のエンジン音や、誰かの会話なども聞こえる。神田が野外にいるのが分かった。
「今日、俺の事務所に来れる? 前に言ってた事件資料、見においでよ」
「もちろん。夕方でいい?」
「おう。待ってるよ」
この日の仕事を全て片付けた午後6時頃。三島はタクシーに乗り、神田の事務所に向かう。長い付き合いがあるのに、2人はお互いの仕事場を知らない。神田の事務所は、三島のクリニックから車で30分ほど走った場所にあった。
駅のすぐ近くだったので、次に来る時は電車を使おう、と三島は思った。駅前広場の向かい側、雑居ビルの4階にその事務所はあった。『神田法律事務所』という看板が掲げられていた。
「おう、三島くん。いらっしゃい!」
エレベーターを降りてドアを開けるなり神田が出迎えた。室内はタバコの臭いで満ちている。2年ほど前、禁煙に挑戦したが数日で失敗した、と神田は三島に語っていた。
「お邪魔します」
「入った入った。初めてだよな? ここに来るのは」
「そうだね。初めてだ」
事務所の中は三島の想像通り、ごちゃごちゃと物が散らかっていた。机の上には、ファイルや冊子が山積みにされ、室内の至るところに段ボール箱が無造作に置かれている。この事務所の所長は神田。整理整頓が苦手な彼らしいな、と三島は思った。
「さっそくだけど、これが例のやつ」
「ありがとう」
神田が差し出したのは、茶色のスクラップブックだった。だいぶ年季が入っており、表紙はかなり汚れていた。表紙にはマジックペンで『平成15年』と書かれている。
「流石に、この事務所の業務記録は見せられなくてさ。まぁ、守秘義務ってやつよ。その代わり、俺が個人的に作ってた新聞スクラップを見せてやる。これなら見せても問題ないからね」
「わざわざありがとうね」
三島に冊子を手渡すと、神田は事務所奥の机の席に座って大きなあくびをした。三島はさっそく開いてみる。色褪せたページに、セロハンテープで新聞記事が貼り付けてある。
「神田さん、新聞記事のスクラップは今も作ってるの?」
「今は作ってないよ。なかなか面倒くさい作業だからね。億劫になって、3年前に止めちまったよ」
三島はページを順番にめくっていく。1月1日から1日ずつ、その日に起きた出来事を報じた新聞記事が、しっかりと貼り付けてあった。頁数も多い。どうやら12月31日まで356枚もページあるようだった。
「うわぁ、すごい。本当に1年分あるじゃん」
「だろ? これ作ってた頃は、まだ心も体も今より、ぜんぜん若かったからね。こういう地道な作業も苦じゃなかった」
「たしかに。これを作るのには根気がいるよな」
三島は小宮山の話と、ネットで知り得た情報を思い出してページをめくる。
「ここか……」
その記事の日付は6月9日だった。小宮山がカウンセリングで話していた通りの内容が、記事には書かれていた。見出しには『女子中学生殺害容疑 22歳男を逮捕』とあった。三島は、目を凝らして記事に見入った。
『警視庁は9日、荒川区の無職、岡野貴也容疑者(22)を殺人の容疑で逮捕した。捜査関係者によると、岡野容疑者は8日夕方、同区南千住の路上で、帰宅途中だった小宮山綾香さん(14)に背後から近づき、首を絞めて殺害した疑い。警察の調べに対し、岡野容疑者は「綾香さんを誘拐する目的で近づいたが、激しく抵抗され、揉み合っている最中に綾香さんが死んでしまった。殺すつもりは無かった」と供述しているという。警察は、岡野容疑者の動機について詳しく調べを進めている』
頭の中にあった断片的な情報が、当時の新聞記事とほぼ一致していく。
「なるほど……ね」
三島はそう呟くと、スクラップブックを閉じた。冊子をパタンと閉じた音で、居眠りをしていた神田がハッと目を覚ました。
「あれ、三島くん。もういいの?」
「うん。これで十分だよ」
「そっか。ところで何を調べてたんだい?」
「ああ、いや……それはちょっと……」
「守秘義務ってやつか? お互い、口が堅い商売だなあ」
神田は笑った。その後、神田が三島に深く尋ねてくることはなかった。弁護士と医師、互いの職業を理解しているからなのか、2人の間には微妙な距離感があると言って良い。だが、その距離感が2人の友人関係を長いものにしていた。
「神田さん、今日は忙しい中ごめんね」
「いやいや。こちらこそ、あんなスクラップで何か役に立ったかい?」
「もちろん。疑問に思っていたことが解決したよ」
「それは良かった。また、何か調べたいことがあったら気軽に連絡を寄越してくれよな?」
「うん。ありがとう」
三島は神田の事務所を出た後、大通りでタクシーを拾う。疲れていたので、寄り道せずに帰ろうと思っていたのだ。辺りはすっかり、暗くなっていた。
しばらくぼんやりと外の景色を眺めた後、三島はスマートフォンの検索アプリを開いた。神田の事務所で調べた事件について、もう1度検索してみようと思ったのだった。
『南千住 女子中学生殺害事件』
その後、検索結果としてトップで表示されたサイトに掲載されていた記事に、三島は言葉を失った。それは過去のニュース記事のアーカイブ版。見出しは『荒川区で男性死亡 焼身自殺か』というものだった。
『24日、荒川区で住宅一棟を焼く家事があり、焼け跡から、住人とみられる男性の遺体が見つかった。死亡したのは、この住宅に住む小宮山泰之さん(52)。小宮山さんの遺体の近くで、遺書と思われる書状が見つかった事から、警察は小宮山さんが焼身自殺を図ったと見て、火災の原因などを詳しく調べている』
三島の全身の血の気が引いていくのが分かった。この火災のニュース記事にあった住所は、間違いなく小宮山のものだった。
小宮山泰之は既に死亡している――。
得体の知れない違和感が三島を襲う。その違和感はやがて、頭の中で噛み砕かれて恐怖感へと変わってゆく。死んだ人間がカウンセリングを受けに来た。に入ってきた男は、小宮山泰之だった。
彼は娘を殺されたと言っていた。たしかに、小宮山の娘は事件に巻き込まれて死んでいた。その事件は、当時の新聞でも取り上げられていた。このことに間違いは無いはずだ。
だが、三島のスマートフォンに表示されているニュース記事では、小宮山泰之という人物は2009年に火災で死亡したことになっている。
あの男が小宮山じゃないとすれば、あれは一体、誰なのだろうか――。
数日の間、ずっと考えていた。そんなある日、三島は朝から書類仕事に追われていた。作業の合間に聴いていたのは、AM放送のトーク番組。1人部屋に籠って作業をするので、何かしら音があった方が、三島にとっては作業効率が良いのだ。午前11時。ラジオでは定刻のニュースが始まっていた。
『きょう未明、都内の路上で、中年男性の遺体が発見されました。遺体には首を絞められたような跡があったことから、警察は殺人事件と断定。詳しく捜査を進めています』
殺人事件を伝えるニュースだった。原稿を読み上げるアナウンサーの声が、淡々と三島の耳に入ってくる。
『発見された遺体の身元は、所持品などから港区芝の自営業・石谷勝久さん、64歳。警察では、石谷さんが何らかのトラブルに巻き込まれたと見て、関係者への聞き込みを中心に捜査を進めています』
ニュースではその後、栄誉ある文学賞の授賞式が行われたこと、アメリカで日本人の野球選手がホームランを放ったことを伝えていた。
「芝って言ってたよな…」
神田の事務所がその地区にあったのだ。三島は事件のことが妙に気になったので、携帯を手に取った。彼なら、事件について何か知っているかもしれないと思った。だがメールのアイコンをタップしたところで、やっぱり止めようと画面をホーム状態に戻した。神田の仕事の妨げになってはいけない、という考えに至ったのだ。それに三島自身にも未だ、片づけるべき仕事が残っている。
「まあ、後でいいや」
その夜、三島は同僚の医師である竹澤博之、院長の長沼正武、そしてクリニックの顧問会計士である戸田直人と共に、街に繰り出した。長沼の友人が焼き肉店をオープンさせたのだという。三島は少食だが、上司の顔を立てるくらいなら構わないと考えた。その店は長沼が事前に店側に予約を入れていたのだろう。三島たちは入店してすぐ、奥のボックス席に座ることができた。個人経営の焼き肉にしては大きな店構えをしており、店内も多くの客で混んでいた。席につくなり、4人はオーナーの初老の男も交えて乾杯した。
長沼、竹澤、戸田は酒が進むのが早い。三島は1人だけアルコールを体に入れていなかったが、皆が楽しそうに話すのを見ているだけで、十分楽しかった。入店してから50分ほど経ち、腹もふくれ、雑談のネタも尽きかけてきた頃、戸田がこんな話を持ち出した。
「そういえばニュース見ました? 芝で殺人事件があったらしいですよ」
三島はそれまでニュースのことをすっかり忘れていたのだが、戸田の話で急に思い出した。
「ああ、知っているよ。隠居暮らしのじいさんが殺されたって話だろ? ったく、怖い世の中だよな」
柴野も知っているようだった。三島以外の3人は、酒が入っているせいなのか、いつもより少し饒舌である。
「最近、物騒になったよねぇ。この間も、首を絞められて殺された人がいたじゃん」
「ああ、先々週でしたよね。たしか、亀戸だったような。三島先生、よく覚えてますね」
「たまたまニュースで見たんだよ」
三島と戸田が話している傍ら、大きなあくびをしながら長沼が言った。
「犯人、同じ奴だったりして」
「まさか、それは流石に」
「いや、あるでしょ。だって、手口が同じなんだろ? 犯人が同一人物という可能性は否定できない。俺さ、ここだけの話。知ってるんだよね」
竹澤が興味深そうな顔をして話に食いついた。
「何です? ここだけの話って」
「実は俺、殺された爺のことを知ってるんだよ」
「お知り合いだったんですか?」
「いや、俺が一方的に知ってるだけ。会って話したことは1度も無い」
「詳しく教えて頂けますか?」
「いいよ」
このような話になると、竹澤はいつも食いついてゆく。歳は三島より下で、医師としてのキャリアも三島より短い。だが飲酒時の饒舌さとオカルト系の知識の量では、先輩を大きく上回っている。きっと長沼の話に、都市伝説的な魅力を感じたのだろう。
「君ら、人に言わないでくれよ? 本当にここだけの話…にしてくれよ。頼むぜ?」
「ええ。もちろん」
そう念を押すと、長沼はゆっくりと話し始めた。
「殺された石谷っていう爺、もとは検事なんだよ。少年犯罪を多く担当してたって話だ」
「検事って、検察官ですよね?」
「ああ。検察官っていう職業は、定年まで勤める人がそんなにいなくて、みんな途中で辞めるらしい。検察官には法曹資格があるから、弁護士に転身できるんだよ。石谷は50歳で退官して、そこから弁護士になったらしい」
三島は尋ねた。
「石谷を殺したのは、彼に恨みを抱いていた人間…ってことですか?」
長沼は頷く。
「ああ。その可能性が高い」
すると、竹澤は不思議そうな顔をした。
「でも、それだけだと不十分ですよ。爺を殺した犯人が今月上旬に起こった事件の犯人と同一人物である根拠は? いくら手口が同じだとはいえ」
「この話の肝はそこだよ。まあ、今から説明するけど」
長沼は二ヤリと笑った。
「8日に死体で見つかった男、彼は元裁判官だ」
「裁判官?」
「ああ。新聞に書いてあったよ。裁判官の仕事は、罪を犯した人間を法に基づいて裁き、刑を下すこと。一方で検察官の仕事は、下された刑を執行することだ。その裁判官と検察官でをやっていた人間が、それぞれ1人ずつ殺されたんだ。しかも同じ手口で。……それが何を意味するか、分かるよな?」
「……」
「まあ、今の話はあくまでも、俺の個人的な意見だから。素人の推理として受け止めてくれよ」
そう言うと、長沼は便所へ立っていった。その後、便所から戻ってきた長戸を含めて4人は会計を済ませ、店を出る。飲食代は年長者である長沼持ちだった。エレベーターで1階に降り、ビルの外に出る。夏の夜風は蒸し暑い。歓楽街の雑音に紛れて、虫の声も聞こえていた。
「んじゃ、おつかれさん」
タクシーを拾い、三島は帰路につく。
「〇〇まで」
「……わかりました」
運転手に行き先を告げると、車はゆっくりと動き出す。電車はまだ残っている時間帯である。しかし、混雑した各駅停車には乗りたくなかったので、三島は敢えてタクシーを拾ったのだ。
しばらく車に揺られながら、懐からスマホを取り出す。プロ野球の試合結果や株価と外国為替の値動き、現政権の支持率、国際情勢など、様々なニュース記事を読んだ後、三島は検索エンジンを起動させる。
『事件』
語句を入力し、画面をタップすると、いくつかの記事が出てきた。
『都内で殺人事件相次ぐ いずれも絞殺 同一人物による犯行の可能性も』
記事を詳しく読んでいると、酒席で長沼が語っていた推理が的中している事に気づく。こんなこともあるのか、と感心しながら記事を読んでいった三島は後半の記述に目が止まった。
『これまでに遺体で発見された被害者はいずれも、ストッキングのようなもので首を絞められて殺害されている』
初めて読んだ文章だったが、どこかで読んだような気がした。タクシーに揺られながら、三島は記憶の引き出しを開けた。
「あっ!」
小宮山のことを思い出したのだ。小宮山の娘は、ストッキングで首を絞められて殺された。それは10年以上も前の事件なので、現在起こっている事件に関係している可能性は低い。だが三島にとっての問題は、そこではなかった。神田の事務所で新聞スクラップを読んで以来、小宮山のことは忘れようと思っていた。ほぼ忘れかけていた。だが、この時にスマホのニュース記事を読んだことで思い出してしまったのである。
三島を再び、不快な感覚が襲う。得体の知れない後味の悪さが全身を駆けめぐる。
小宮山は既に死んでいる。
既に死んでいる人間が、自分の前に現れた。
自分のカウンセリングを受けに来た。
この事実が、恐怖感と共に三島の脳内に蘇ってきたのだった。
「……お客さん?」
さっき思わず声を出してしまったので、運転手がバックミラー越しに三島の方を見ていた。不思議そうな目をしている。
「いや、何でもありませんよ」
三島は胸を抉るように駆け抜ける不快な感覚に、作り笑いを浮かべながらじっと耐えていた。翌日になると、出勤早々オフィスのPCと向かい合った。患者に関しての記録を調べたのだ。三島は自身のカウンセリングについて、事細かに記録していた。患者の身なりや言動、さらにはカウンセリングの内容に至るまで、レポートのようなものを作成するのだ。
「あれはいったい……」
この日は独り言が外に漏れたか気にならなかった。意識をじっと集中させながら見つめるPCの画面に映っていたのは、小宮山泰之の記録であった。その時、コンコンと部屋の扉がノックされ、扉の向こうから女性の声が聞こえた。
「三島先生!」
声の主は広瀬だった。
「どうした?」
「先生……」
ドア越しに聞こえる広瀬はいつになく、よどんだ声だ。
「何かあったの?」
「警察の方が来てます」
「警察? どうして?」
三島は思わず失笑した。なぜ自分のところに警察の人間が来るのか分からなかったのである。
「さぁ……」
「言っとくけど、俺、捕まるようなことは何もやってないからね?」
「それは分かってます」
「警察相手に居留守は使えないしなぁ。広瀬さん、その人をお通しして!」
「わかりました」
しばらくすると、再びドアがノックされた。今度はドンドンという荒々しい叩き方であり、ノックの主が男性であることが分かる。
「どうぞ、お入りください」
扉を開けて部屋に入ってきたのは、やや小柄な男だった。髪型はオールバックで、夏だというのに背広のジャケットを羽織り、ネクタイまできっちりと絞めている。三島はその姿を見て、この人は本物の刑事だと悟った。
「お仕事中失礼いたします。三島涼平さんですね?」
「ええ。あなたは?」
「私、警視庁捜査一課の堀口と申します」
男は胸元のポケットから、黒い手帳を取り出し、三島に開いて見せた。紛れもない、本物の警察手帳だった。その手帳には『警部補 堀口明彦』と記されていた。
「捜一の刑事さんが私に何の用です?」
「本日はいくつか、お伺いしたい事があって参りました」
そう言うと、堀口は室内のソファにどかっと座った。人の仕事場に踏み込んでおいて、勝手に座る。ドラマ顔負けの嫌な刑事だな、と三島は思った。
「三島さん、お兄様と最後にお会いになったのは、いつですか?」
「兄って?」
「あなたの兄。三島秀明さんのことです」
「それは……私が子供の頃に兄が家を出ていったっきり、会っていませんよ」
三島には年の離れた兄の秀明がいた。しかし、現在までどこで、何をしているのか、まったく知らなかった。
「本当にそうですか?」
「本当にそうですとも。ずっと音信不通でしたから。刑事さん、もしかして兄が何かやったんですか?」
「単刀直入に申し上げます。あなたの兄・三島秀明さんを本日、殺人容疑で逮捕しました」
「は?」
言葉の意味が、三島には分からなかった。
「どういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味なんですが、良いでしょう。説明いたします」
堀口の口調は、ひどく無機質だった。
「裁判所から出された逮捕令状では、秀明さんは今月8日、都内に住む川田康彦さんを首を絞めて殺害し、25日には同じ市内に住む石谷勝久さんを同様に、首を絞めて殺害した容疑がかかっています。ここまではいいですね?」
「続けてください」
「秀明さんが逮捕されたのは今朝。署に自首してきましてね。取り調べにも、素直に応じています」
次々と突きつけられる現実に、三島は頭が追いつけなくなっていた。
「三島さん。本日、ここにやって来たのには理由があります。それは、秀明さんの今月に入ってからの動向を調べるためです。あなたは先ほど『兄とは長い間会っていない』と私の質問に答えましたが、それは嘘です。三島さん、あなたは今月に入ってから秀明と会っているはずです」
「はい?」
「まぁ、無理もないでしょう。あなたはその時、話している相手が兄だとは思いもしなかったでしょうから」
「おっしゃっていることの意味が分かりませんが」
三島の困惑はピークに達していた。堀口はお構いなしに話し続ける。
「秀明さんは現在までに、取り調べに対して『7月5日の夕方、偽名を使って“ながぬまクリニック”を受診。医師であり、そして弟である三島涼平さんのカウンセリングを受けた』と供述しています」
「偽名? まさか……」
「ええ。秀明さんがその際、名乗った偽名は『小宮山泰之』です」
三島は頭の中が真っ白になった。
「次に秀明さんが川田さん達を殺害した動機です。これは単純に、彼らに恨みがあったからだと本人が語っています。あなたもご存じかと思いますが、秀明さんは少年時代、傷害致死の前科がある。少年院に送られた経歴もあるようですね。その際、秀明さんの少年審判を担当したのが、当時、家裁の判事であった川田康彦さん。そして、検察官だった石谷勝久さん……ですよ」
三島は黙り込んでしまう。次々と明らかになる真実に、彼の頭が追い付くことはない。そんな三島とは対照的に、堀口は話すのを止めない。
「秀明さんの動機は怨恨だったとして、何故一連の犯行に及ぶ前に、どうして偽名を使ってまで弟である貴方の元を訪れたのか。それは『止めてほしかったから』だと秀明さんは供述しています」
三島はようやく、口を開く。
「止めてほしかった? そんなのおかしいですよ。止めてほしいなら、どうして偽名なんか使うんですか。素直に本当のことを話せばいいじゃないですか!」
「それについても、これから説明しますよ」
西口の無機質な口調は変わらない。
「秀明さんが名乗った『小宮山泰之』という偽名ですが。これはだいぶ前に起こった、ある殺人事件の被害者の父親と同じ名前です。なぜ、秀明さんがこの名前を使ったか。本人曰く『自分と同じように、小宮山泰之という人もまた、川田と石谷に恨みを抱いているだろうから』と。当時の記録を調べたのですが、本物の小宮山泰之さんの娘が殺された事件、担当した検察官は石谷で、一審の判決を下した地裁の裁判官は川田でした」
「つまり、本物の小宮山泰之さんも、川田さんが下した判決に不満を持っていた……と? しかし、どうして兄は、小宮山泰之さんのことを知っていたのでしょう? あの日、兄が語った過去は、本物の小宮山さんのものだったと思いますが」
「それは私にも分かりません」
腕の時計をちらちら見ながら話す西口の態度に、三島は少々不愉快な気持ちになった。
「秀明さんが偽名を使った理由ですが、これは『長らく会っていなかったので、ばつが悪かったから』だそうです。だから偽名を使ったのだと」
「もう、結構ですよ!」
三島は西口の言葉を遮った。もうこれ以上、聞きたくなかった。聞きたくなかった、というよりは、あの時会ったのが秀明だと信じたくなかったのである。彼の中にある秀明との思い出は、良いものばかりではない。
年が離れていたせいか、小さい頃は秀明にいじめられる事も多かった。兄弟間の喧嘩では勝った試しが無い。三島が小学生の頃、中学生だった秀明は警察に補導された。他校の生徒を殴り殺してしまったと聞かされた。
秀明はその後、少年院に収容され、家庭から姿を消した。そして二度と、戻ってくることは無かった。それは父親が秀明を勘当したから、だと後になって分かった。以来、三島は兄はいないものとして生きてきた。秀明が犯した罪のことで、頭を下げ続ける両親の姿を見ながら、三島は大人になったのだった。
兄は、もういない――。
あの日、自分の元を訪れた患者が秀明であると三島は気づかなかった。それは、ずっと『兄はいないもの』として生きてきた三島の心が『この人は秀明だ』と気づかないよう、本意とは関係なしに心に麻酔をかけていたのだ。
「……刑事さん」
「何でしょう?」
「もう話すことはありません。任意でって事なら、これ以上はノーコメントです」
「わかりました。でも最後に、勾留中の秀明さんから、伝言を預かっています。本人曰く、あなたと『話せて嬉しかった』とのことです」
伝言を受けた三島は顔を背けたまま、静かにため息をつく。そして吐き捨てるように言った。
「では、兄によろしくお伝えくださいな。『弟は、もういない。そうやって、心に麻酔をかけてみてはどうか』と」
「……了解しました」
そう言い残すと、堀口は静かに部屋を出ていく。診察室には、エアコンの動作音だけが無機質に聞こえていた。