第8話 婚約発表
父バールベルト国王が威厳に満ちた声でそう言うのを聞くと、ラナハルトは歩き出した。
ルーナはラナハルトが手を取りやすいよう、貴族達の最前列ですまして待つ。貴族が自然と両脇に分かれて露わになった赤い絨毯の上を歩いてきたラナハルトは、しかし、どうしたことかルーナの前を素通りする。もう少しで「えっ?」と声を出しかけたルーナは、怪訝な表情でラナハルトの行く先を見る。
ラナハルトはまっすぐに絨毯を進むと、穏やかな表情で階段を上がり、帝国の姫の前まで来ると跪いた。そして、姫の手を取りその甲に優しい所作で口づけをすると、微笑む。
「我が姫、こちらへ」
セリアはラナハルトに手を引かれ、檀上の中央へと歩いて行く。そして2人がそろうと、再びバールベルト国王の声が響いた。
「我が国カトラスタは、第1王子と帝国の姫との婚約をここに認める」
すると、帝国皇帝オスラも声を発する。
「我がバルト帝国は、姫と王子の婚約をもって友好の証とする」
その途端、貴族達から「おおっ」というどよめきと、割れんばかりの拍手の音が響く。そして、楽隊は再び晴れやかで力強い音楽を奏で始めた。
その様子を見て、ラナハルトは心底嬉しそうな顔をセリアに向ける。
……ふふ、そのベールで顔が見えないが……笑顔か?……
……ええ、とても嬉しいわ……
無言で見つめ合う2人にアイーダが、他には聞こえないよう小さく声をかける。
「うむ、少し心配しておったが、その様子だと心配は無用であったようだな」
「ええ、お祖母様、私ようやく想い人の意味が分かったわ」
セリアも小声でそう言うと、恥ずかしそうに笑った。
ルーナは一連の様子を、じっと見つめていた。煮えたぎるような怒りを抱いて、扇子は折れそうなほどにしなっている。それは、かつて感じたことがないほどの怒りと憎しみであった。
いつもと違い、部屋へ戻って来ても何も言わないルーナの様子に、ベルラはただならぬ気配を感じていた。ベルラがルーナ姫の侍女であると覚えている者がいるといけないので、ベルラはほとんど部屋からは出ないようにしており、その為外の様子も全然分かっていなかった。しかし、戻ってきたルーナの、声を掛けるのも躊躇するような狂気じみたようにすら感じるその気配に、ベルラは何かとんでもないことが起こったのだということは分かる。
「……ベルラ、あの女を殺してきなさい」
このまま無言で今日は終わるのかと思っていたベルラの耳に、そう言う声が聞こえてきて、思わず「へっ?」という情けない声が出てしまう。
「す、すみません姫様、殺すとおっしゃいましたか? ど、どなたをです? ご冗談ですよね?」
冗談ではない響きであったと理解しながらも、思わずそう訊き返していた。
「冗談なわけないわ。これは命令よ」
「あの、どなたのことですか?」
「帝国の女に決まっているでしょう?」
これまでに聞いたこともないくらいに冷ややかで凄みを帯びた声色に、ベルラは思わず「ひっ」と声が出る。
「む、むりです」
「何が無理なの?」
「できません、人殺しなんか……」
「貴女に選択権はないの。ふふ、ちょうどね、いいものがあるのよ」
そう言うと、ルーナはベルラへ液体の入った小瓶を渡す。
「それはね、何かの役に立つかと思って集めさせておいたビッグアントビーの毒よ。死骸から採らせたの。それだけの量があれば、きっと人間にも効くわ。食事に混ぜるくらいはできるでしょう? それとも貴女か貴女の家族が飲みたいかしら?」
ベルラは、その言葉に目を見開くと、故郷の親や兄弟達のことを思った。今の狂気じみたルーナの様子からは、それを本当にやりかねないと思わせるほどの暴力性が滲み出ている。視線を床に落とし、カタカタ震える手をなんとか押さえると、ベルラは部屋を出て行ったのだった。
部屋を出たベルラは、次第にどこを歩いているのか分からなくなっていた。どうすべきか分からないまま、家族の顔が頭をよぎり、気が付けば泣きながら歩いていた。「なぜこんなことに……」そんな言葉ばかりをつぶやく。
「おやっ、貴女は……ベルラさんでしたっけ?」
その声にビクッとして顔を上げると、目の前にラナハルト王子の従者ピスナーがいた。ベルラの顔を見たピスナーは、その取り乱した様子に気づいて駆け寄る。
「どうしたんですか?」
「う……私……どうしていいか」
「私に話せますか?」
ベルラはピスナーの顔を見た。話してはいけないことは分かっている。しかし、その穏やかな薄茶色の目に見つめられると、ベルラの中で何かがふっと解けた――。
ベルラがコクリと頷くと、ピスナーは人目に付かないよう別の部屋へ移動する。ベルラを椅子に座らせ、落ち着く作用のあるハーブティーを飲ませて話しやすい態勢を整える。ベルラは持っていた小瓶をテーブルの上に置くと、静かに話し始めた……。
ベルラの話を慎重に聞いていたピスナーは、話が終わると難しい顔をベルラへ向ける。
「この件は明らかに犯罪です。その毒以外の事も……ミーリア姫がルーナ姫であったということは皆を欺いていたことになりますし……1国家への侵略という事にもなるでしょう。ルーナ姫は罪を免れないでしょうが、問題は貴女です。知らない間に起こっていたということですが、貴女の関与も疑われるかもしれません」
「私は……いいのです。詳細は知りませんが、何かおかしいと思いつつも、これまで姫様の言うままに動いていましたから。でも、家族には咎がかからないようにしたいのです」
「そうですか。まあ、貴女もその分ですと積極的にというわけではなく主に従わされていたという風に見えますね。しかし、私は専門ではありませんし、いずれにせよ裁きを受ける事になるでしょう」
「はい」
「では、この瓶と共にこの件は預からせてください。それから、貴女がこのまま部屋へ戻ってはまずいので、別の場所で隔離させてもらいます。よろしいですね?」
「はい」
ベルラは、正直ほっとしていた。人殺しなんて考えるだけで手が震えてくるようなことができるわけはなかったし、そんなことをしたらいずれにせよ生きていくことはできないほど後悔することになっただろうと思う。そこは踏み外してはいけないラインだということは、はっきりしていた。結果的に仕える主を裏切ることになってしまったが、その前にルーナから家族を楯に脅されたことで、罪悪感は幾分か減っていた。ピスナーにあそこで会って良かったのだ……そう思いながらも、ベルラは流れ落ちる涙を止めることはできなかった。
ベルラの隔離を終えたピスナーは、足早にラナハルトの部屋へと向かった。




