第16話 クグの町
夕暮れの中、メリー王国の東の端にあるクグの町では、長く伸びる家々の影の中を1人の男が跳ねるように歩いていた。その小柄で奇妙な男は、薄汚れた深緑色のマントを頭から被り背中は丸まっている。しかし、下から覗けばその異様に光る赤い目だけが見えて、思わず悲鳴を上げる者もいただろう。
「ヒヨッ、ヒヨッ、ヒヨッ! 奥様に褒めてもらえるぞーぅヒョ!」
一見すると、野生動物のようにも見えるその男は、しかし町の人に「意識」されることはなかった。気配を消して目立たないように生きることは、この男が生まれてからずっと仕込まれてきた技である。
男がピョンピョン跳ねるように移動していくその先には、まるで男の被っているマントで覆ったかのような蔦の絡まった家があり、男はその家の中へ滑り込むよに入って行った。
「奥さーま、ヒヨッ! 成功したヒョーイ!」
薄暗く気味の悪い玄関でそう叫んだ男に、2階からねっとりとした声が返ってくる。その声は、濃い紫色の髪を膝まで垂らし、レースで装飾された黒いドレスを着た老婆から響いていた。
「ビョードルかえぇー? 成功となぁ?」
「成功! ヒョッ! 褒めるヒョーイ!」
「こっちに来なえ~」
ビョードルと呼ばれたその男が階段をピョンピョンと上がって近づくと、老婆はぐしゃぐしゃとフードを被ったままの頭を撫でる。ビョードルはヒューッと喉の奥から不思議な音を出して喜んだ。
そんな2人に後ろから声を掛ける者がいた。
「お祖母様……ぅげっ、ビョードル……」
「何かえぇ~、ペルガー?」
「い、いえ、なんというか、その……お祖母様には行先のない所を保護していただき、感謝しています。しかし、そろそろ私も外へ出て働こうかと……」
「今はダメなえ~。苛める者を消すまで待つなぇ」
その赤茶色の髪の青年は、アリスト王国の先王バラクの息子であり、セリアの従兄でもあるペルガー・アリストであった。ペルガーは、妹と両親がカトラスタで逮捕されて1人になった後、ビョードルに声を掛けられ、半ば強引にこの家まで連れて来られた。そして、出迎えたのが自身の祖母を名乗るキリエラ・アリストであったことに驚いたのだった。
ペルガーはそれまで祖母に会ったことはなかった。会った時にも、名前を言われなければ祖母だとは実感できなかっただろう。父バラクの母であるはずの祖母の顔は、頬の肉は削げ落ち、目は窪んでおり、とてもその顔から父を連想することはできなかった。そして、特徴的なことにキリエラの額には、入れ墨のような黒い模様があった。
ペルガーはここへ来た直後からずっとどこかへ行きたいと思っているのだが、祖母はまだだと言い、神出鬼没で不気味なビョードルという存在がいるせいで、ペルガーは出て行けずにいた。
そして、この家にはもう1人滞在者がいる。
「ビョードル、上手くいったんですね!」
嬉しそうな顔をしてやってきた青年を見て、ペルガーは顔が歪みそうになる。
それは、クレマン・スートラスであった。クレマンも一家がカトラスタの牢に投獄され、ペルガーと同じようにビョードルによってここへと連れて来られていた。しかし、ペルガーと違うのは、クレマンがこの家での生活を楽しんでいるということだ。それどころか最近では、ビョードルやキリエラと協力して何かをやっている。ペルガーはなんだか気味が悪い感じのするその計画のことは知らなかったし、別に知りたくもなかった。次第にのめり込んで、祖母を崇拝するかのような態度になっていくクレマンへ、嫌悪をすら感じていた。
「キリエラ様、あとは第1王子ですね!」
「そうなえぇ~、なぜ効かぬのえぇ?」
「何かが邪魔するっヒョエー!」
ビョードルがキンキンと高い声でそう言うのを聞いて、ペルガーは耳を塞ぎたくなる。
「キリエラ様、あの女はどうするのですか?」
「セリアと言うたなぇ~?」
「アレにも効かないヒョーッエー!」
耳を塞ぎたいのを我慢して、ペルガーは今聞こえてきた言葉に驚き、つい訊きかえす。
「お祖母様、セリアというのは?」
「あぁ~、お前の従妹だったなえぇ~?」
ペルガーの頭に、あの美しかったセリアの姿が映し出された。
「お祖母様、セリアに何かしようとしているのですか?」
「お前は知らなくていいなえぇ~」
キリエラはそう言うと、落ちくぼんだ目をキョロリと動かし、肉のない頬を僅かに動かすのだった。
ペルガーは自分の部屋へ戻ると、自分が嫌な汗をかいているのに気付く。これまで、祖母達が何かをしている事は分かっていたが、特に興味もなく気味が悪かった為敢えて避けていた。しかし、今セリアの名前を聞いた途端、なぜかとても身近なことに感じて焦る気持ちが大きくなる。
「お祖母様達は何をしているのだろう……セリアには効かないと言っていた……それは危険が及ばないということだろうか……」
ペルガーは、カトラスタの城で2度ほど見たセリアの姿を思い出す。その姿は、これまで見たどんな女性より美しく、その瞳に見つめられると時が止まったかのように感じたのだ。そんなセリアの姿を思い出したペルガーは、自然と祈るように胸に手を当てていた。