我慢比べ
日本とアメリカの関係は、極めて悪化してはいたが、アメリカが開戦に踏み切った理由は、独善的で一方的なものであった。
だった数ヵ月しかもたなかった平和を、長期間持続させる為には、日米共に自国の持ちうる最大限の戦力を、結集して圧勝する必要があった。
先の大戦は、日本の奇襲攻撃という形で始まったが、今回は、アメリカの夜襲により始まった。
それにより、日本はアメリカへの憎悪のボルテージが、一気に上昇した。
戦いは、お互いに持ち直した部隊を出しあう展開で、日本側は不利な状況にあった。
物量で勝てない事は大本営も、よく分かっていた。そこで、登場するのが厳龍である。
時が立ち、相手も戦い方を研究していたものの、67年というタイムラグとテクノロジーの差を埋める事は、容易ではなかった。
第一次日米戦役が、南太平洋の島国を奪いあうような、局地戦であったのに対して今度の第二次日米戦役においては、アメリカは最初から日本本土に、狙いを定めていた。
アメリカ海軍太平洋艦隊の空母から発艦した攻撃機は、しつこく攻撃機を送って来た。日本はそれを迎撃するのに手一杯で、有効な反撃が出来ていなかった。
そこで、大本営はハワイ及び日本へ空爆の出来る、アメリカ軍の基地に対して、厳龍と空母機動部隊を送り込み、攻撃を元根から断つ作戦を決行する。
日本軍のこの作戦は、功を奏しアメリカ軍は、日本周辺海域で力を発揮する事が出来なくなる。日本は防空圏内の敵を激しく叩く事で、本土への攻撃を制する事に成功した。
そのやられた部隊を、アメリカ本土からやって来た部隊が、補填し戦うものの、連合艦隊と機動部隊が着て戦力を、そぐという正に文字通りの、タッチ&killであった。
日本とアメリカの我慢比べは、1947年10月~1948年3月の半年間という長期間続く事になる。これはもう、両国の根性を試す戦いになったと言ってよい。
日本もアメリカも、どうやって戦いを進展させていくのか、探りあいは続いた。




