見えない背中
1975年4月時点で、厳龍乗員が入れ替わって10年が経った。戸村艦長を含め、定年が近づいている乗組員は、20人近くに昇った。
またしても、乗員を入れ換える必要性のある時期になった。もちろん、艦長の戸村大佐とて、ただ、時を経て来たわけでなく、後継者を誰にするかを考えていただろう。それに加えて、厳龍があとどのくらい現役でいられるか、という見通しは経っていただろう。
幸いにして、日本周辺で戦争は行っていなかったし、あったのは大地震くらいのもので、先々の事を考えるには、充分な時間があった。
厳龍が日本海軍に飛び込んで30年。当時の艦長沖田少将はもうこの世にはいない。あの頃の士官はほぼ全員退役して、下士官や兵隊だった人間が、士官になって久しい。新たな下士官や兵隊もすっかり板についた。
そうやって守ってきた厳龍は、彼等のホームであり、日本を守ってきたというよりは、厳龍を守ってきたといっても過言ではない。血の繋がりはないため、そう考えるのも無理はなかった。
厳龍自身に自覚はないが、歴戦を乗り越えてきた艦船・船体はボロボロになっていた。整備の為、ドックに入る回数も目立って増えてきていたし、毎日の小さな無理の積み重ねが、厳龍を蝕んで行った。
戸村大佐の手元には、それらマイナス要因を統合的に判断する資料があった為、厳龍の艦船としての寿命がどのくらいなのかは、容易に予測出来たし、その資料には穴があくほど目を通している。
厳龍の船体データは、船のメンテナンス時におおよそ分かる。戸村大佐は、自分の退官年齢が近づいている中で、後継の日本初の新型原子力潜水艦にシステムを移行する準備を、進めていた。
誰に後を託しても困らないように、亡き沖田譲りの厳龍マニュアルを本格的なサブマリナーズの指針として完成させた。戸村大佐は亡き沖田の見えない背中を追っていた。




