厳龍沖縄へ
近田中佐が抜けたとしても、こうして厳龍乗組員を見てみると、代役を勤められるメンバーがいる事が分かる。水雷長や航海長よりもえらい階級がいても、専門分野が異なる為に、このような配置になってもおかしくはなかった。こう見ると、人事もバランス良く置かれている事がよく分かる。
今後各隊員が物語に顔を出す事になるが、その時は第14話の乗組員一覧を参考にして欲しい。物語の中心で活躍する沖田や近田中佐、倉沢少佐、井浦少佐、戸村先任海曹の5名である事は言うまでもないが、この辺りで物語に戻る事にしよう。
1945年3月30日、沖縄防衛の為連合艦隊は、戦艦大和を筆頭に戦艦扶桑、空母飛龍、巡洋艦5隻からなる(史実とは異なる)この時期の日本海軍が持ちうる、手持ち戦力からしてみれば、最大規模の陣容陣容の中に厳龍も秘かに組み込まれた。そして出撃の準備が行われていた。
厳龍の兵装は来た時のままだったが、6門中4門は従来型の魚雷で、量産の為にお預りとなっている89式魚雷とハープーン級USM一本ずつは、日本海軍のお預りとなった。空いている二門の所にはこの時代の酸素魚雷が、2本登載された。もちろん、厳龍搭乗員64名にとっては、初めての実戦だった。
「手を動かしながら聞いて欲しい。これよりわが艦はアメリカ海軍機動部隊と敵航空機の制空権のある海域へ向かう事になる。これは模擬戦闘ではない。心してかかるように。」
と、沖田は短めの訓示を行った。
2週間以上の水中持続力がある厳龍にとっては、一度潜航したら次に浮上する時は、戦闘が終わり基地に帰投する時を意味していた。
積み込めるだけの食料を積み、油を積み、艦を整備すれば出撃準備完了である。6門しかない魚雷やハープーン級USMの発射目標はあらかじめ大本営から、沖田に指示が行っていた。その内容は、空母又は戦艦を発見したと海上より、連絡が来た場合のみ魚雷を使用せよとの事だった。厳龍が見つかっては決してならなかった。




