外務大臣ヲサポートセヨ
日本海軍だけでなく、陸軍や空軍も合わせた日本軍として見た場合に、現在の戦力は決してバランスの良いものではなかった。
そこで、求められるのが、兵力の見直しであり、ひいてはバランスの取れた、より強固な日本軍を作るというものであった。
力のない下っ端にそんな大仕事が、出来るはずもなく、上層部の人間達が、機械的に振り分ける事になるのだが、一応下の者の意見を聞いていますよ‼という体にしておかねばならなかった。
そこで、考え出されたのが、意見箱ならぬアンケートBOXであった。実際には体裁を繕う為のあて犬に過ぎないのであるが、この箱に投函された一枚の用紙が、今後の日本軍を大きく動かす事になろうとは、誰も微塵たりとも思っていなかった。
一方、ワシントンで日・米・英・仏・露など、主要8ヶ国の要人を集めて、秘密裏に進められてきた第一回の軍縮会議(1957.10)は、順調に進んでいた。
日本側は佐竹外務大臣と、新川陸軍大将の二人に全権を任せた布陣で臨んでいた。
沖田と近田大佐は、彼ら(佐竹外務大臣、新川陸軍大将)に同行する海軍担当の言わば、知恵袋のようなものであった。他には、空軍や陸軍の将官クラスが、何人かいた。
その中で士官は近田大佐のみと言うから、その力の入れ具合が分かる。
議長国はアメリカで、会議の主導権を握る事になるが、専門家揃いの日本としては、何でも来いというような情勢下にあった。堂々とはつらつと会議に臨んだ。
会議は一週間の長丁場となったものの、特に大きな混乱もなく、粛々と会議は進められて行った。
前半の三日間が、勝負の山だと踏んでいた日本にとっては、ひとまず山は越えたという思いが強かった。
沖田や近田大佐にとっては、初の外遊(?)というものになるが、肩の力が抜けて、良い状態で会議に臨めていた。
まぁ、それは他のメンバーも同じ状態であり、日本側としては最高の状態で、軍務の事はまるで分からない、佐竹外務大臣の補佐に務めていた。




