後ろ手
ほっそりした左の中指とそれに劣らない華奢な親指で、ハンドバッグを持った右手の手首を後ろ手につかみながら、彼の四歩先を歩む女はもちろん知らない女性ではなくて、付き合っているかどうかは互いに言い交わしたことはないから定かではないけれど、かといって自分のほかに異性交遊があると仮定してみれば、嫉妬に似た苛立ちをあくまで覚えるだろうことも、さすがに認めずにはいられないくらいの関係性にはなっている。ただ彼にしても彼女にしても言い出すのが照れくさいというよりも、それを言ってしまったがために生じるだろう窮屈さをこれまでの経験から推測しきっているのにくわえて、この曖昧さにこそ恋愛遊戯の甘美さは存するのだということを、もう考えるともなく感じているだけである。そう、自分に都合よく、彼は考えていた。どんな手相が隠されているのか、彼女の小指だけピンとのびた右手の背景には、ゆったりとしたグレンチェックのボトムスが地面からほんのすこし浮いていて、ひとあし歩むごとに、パンプスと裾のあいだから覗く透きとおるようなたおやかな足に思わず視線をとられた刹那に彼の脳裏をよぎったのは、それから連想されるはずの彼女の肢体ではなくひとつまえの女の記憶で、けれどよくよく考えるまでもなく、いつだって似たようなかたちの女を追っているのには、我ながら可笑しくなってしまう。と、彼女がたちどまってこちらを向いた。彼は顔をあげた。
「ねえ、ちょっと遅いよ」
「いいよ、さき歩いてよ」
「なんで」
「いいから」
彼女はおどけるようにふんと言って向き直り、パンプスを踏み出して五、六歩進むと、足をとめた。振りかえり、斜めうしろのアスファルトに視線を這わせるまもなく、彼を見つめた。と、またすぐに向き直って歩きだす。裾から肌がひらめいた。両側に店がならぶ通りをふたりは歩んでいく。彼は黙っていた。彼女も黙っていた。もうすぐ目当ての店に着いてしまう。するとこの遊戯もじきに途切れてしまう、そう思ったそばから看板が目についた。彼女が先に扉に寄り、彼も数歩で追いついた。
「どうしたの?」と、彼のため息を聞いてか、彼女は訊いた。
「ううん、なんでもないよ、入ろう」
「うん、そうしたいけど、でも変だよ、ちょっと」
「大丈夫、なんでもないから。行こう」
「そう? 疲れてるならちゃんと言ってね」
彼は歩き足りないという想いをわずかに抑えてうなずくと、彼女の肩をやさしく押しながら、予約する店へと入った。
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