君という名の僕
生きていれば誰だって、嘘をついてしまうこともあるだろう。自分の口から流れ出てきた言葉は、いずれ本当になってしまう。そんな嘘に惑わされ、本当の自分を忘れてしまうことがないように、願いを込めて。
からん。
空き缶の転がる音がした。またひとつ、空いてしまった。幽霊が空き缶を転がして遊んでいる。まるで思ってもない幻想を思い浮かべては、ちらりとそちらを見る。風に背中を押され、ころころと力なく転がっていく空き缶をしばらく見つめ、大きくため息をついた。
夜の公園は冷たい。漆黒の闇にすべてを飲み込んで、何も解決していない世界を、解決済みのように認定してしまう。そんなどうしようもない世界がなんとも居心地よくて散歩に来ている僕は、解決済みになれるのだろうか。僕の化身はきっとそんなことを求めてはいないけれど。ため息と一緒にこぼれた涙に気付かぬフリをして、すべり台に寝そべる。昔はすんなりと滑れたはずなのに、大きくなってしまった僕は、しっかりとハマって身動きが取れなくなった。そう、大きくなってしまったのだ。体の成長に心が取り残され、こんなにも夜に怯えている。狭い世界で動けなくなって、いつしか酒がないと眠れないようになって、そうやって、正常だった頃を忘れていく。正常、を忘れていく。冷たい金属で出来たすべり台の温もりを探しながら、空を見上げる。これだけ距離があるのに、見知らぬ僕に、星は優しい。
ふいに、ちかっと何かが光った。不規則なリズムを刻みながら、何度も光った。空き缶の転がる音がピタリと止んで、星が降ってきた。
目を覚ますと、僕は家のベッドで寝ていた。昨日の深夜3時頃に、眠れない夜から逃げるように散歩に出かけて、それからどうやって帰ってきたのか、何も覚えていない。不思議に思いながら時計を確認すると、朝の8時を回ったところだった。
急いで起きて、ご飯を食べて、バイトに出かける。正常な生活を僕は淡々とこなしていった。世界に色はあるし、僕は生きている。そんなことをいちいち確認しながら、帰宅する。夜ご飯を食べたかどうか、曖昧な記憶に流されながら、1日を終える。何を考えるでもなく、ふらりと昨日の公園に行くと、今日は珍しく先客がいた。隅にあるベンチで、足を組んで空を見上げている。僕は3秒くらい彼女を見つめ、昨日とおなじくすべり台へ向かった。声をかけたりはしない。コンビニで買ってきたビールを飲みながら、風を頬に感じていた。ふと、昨日の夜の空を思い出した。星が、降ってきた。途切れた記憶をかき集めていると、いつの間にかベンチにいた女の人が隣にいた。
「そのビールひと口ちょうだい。」
まるで10年来の友達のような気軽さに、僕は驚いてしばらく黙っていた。
「ありがとう。」
何も言ってないのに、彼女は美味しそうに飲み始めた。ひと口の概念を僕は間違っていたようだ。彼女は半分以上残っていたそれを、一気に飲み干してしまった。
「美味しい。」
呆気にとられている僕の隣に座りこむ。
「いつもここに来ているの?」
「眠れない日はね。」
落ち着きを取り戻した僕は、やっと声を発することが出来た。平和を好み、穏便な生活を愛する僕は、誰とでもそれなりにうまくやっていくことが出来た。おもしろくない話にも笑い、相手が求めている反応をして、良い人を演じることは、僕の得意分野だ。そうやって可も不可もない人生を生きてきた。
しばらく他愛もない話をしていると、時刻は深夜2時を回った。
「帰らなくていいの?家の人心配しない?」
そう尋ねると、彼女は空を見上げ呟いた。
「そうだね。帰るね。」
すくっと立ち上がったかと思うと、振り返りもせずに、去っていった。僕はその後ろ姿を見つめていた。闇に飲まれてしまった彼女のしゃんとした後ろ姿、美味しそうにビールを飲む彼女、頭から離れなかった。あのビール、あんなに美味しかったかな。いつの間にやら味に無関心になってしまった僕は、闇に飲まれかけているのだろうか。
どちらからともなく、夜は公園に集まるようになっていた。僕は必ずビールを2つ買って向かった。すると彼女は温かいお茶を2つ買ってくるようになった。お茶とビールか、と斬新な組み合わせに困惑していると、彼女はいっぺんにビール2缶を飲み干した。顔色ひとつ変えずに飲み干すその姿は、まるで感情を飲み干すような悲しさと偉大さを映し出していた。仕方がないから、余ったお茶をひとつ、貰うことにした。温かい味がした。
彼女は不思議な人だった。喜怒哀楽が激しい。彼女のする他愛もない話に僕が笑うと、彼女は「嘘くさい。」と怒った。「笑い声と笑顔が合ってない。」と。そんなアホな、と思いながら「ごめん。」と謝ると、彼女は泣いた。普通、相手の言うことを否定せず、同調していれば丸く収まるはずなのに、彼女はそうではなかった。あたふたしていると、彼女は僕を抱きしめた。もう良く分からなくなって呆然としている僕を見て、彼女は笑った。
「ほら。」
いつの間に僕の頬を伝っている涙を優しくぬぐった。僕はもう自分を自分でコントロール出来なくなっていた。
次の日の夜、いつものように彼女の話を聞き終え、僕は尋ねた。
「そういえば、君の名前はなんていうの?」
まるでそれが合図だったかのように、空が光りだした。正確に言うと、静かに瞬いていた星が、急に強い光を伴って降ってきたのだった。僕はそれが何か突き止めようと、空を凝視した。
「わたしは、君なんだよ。」
慌てて隣を見たら、もうそこに彼女はいなかった。強い風が、吹き抜けていった。
自分の心の中に潜むもう1人の自分。どうしようもないこの世界で生きていくには偽らねばならない時もあるだろう。それでも、自分の心の声に耳を傾けてほしい。泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒る。嬉しい時は嬉しいと声をあげてほしい。ありのままの自分をどうか見失いませんように。そしてそれが許される世界でありますように。