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午前零時の鐘 5

「瑠衣。今いいか?」


 地震から二日たった夜、ようやく日比野さんの声が聴けた。


「日比野さん……!あの、怪我はないですか?どこに居るの」

「ジャカルタ市内の自社ビルだよ。俺は大丈夫、無事だよ」


 待ちわびていた声に言葉に耳を傾ける。


 地震直後の大規模な通信障害と、すぐに職場の状況確認に動き出した為に連絡が取れなかったこと。

 彼が生活拠点にしているホテルは一時停電したけど建物は無事だったこと。


「自社ビルは新しくて水道も電源も生きていたから、今は一階フロアを避難場所にして地域に解放しているんだ」

「そうだったの、良かった。じゃあ今はまだお仕事中なんですか」

「いや、仕事の後で少しボランティアして、これからホテルに戻るところ」

「お疲れ様です。良かった、無事で本当に」

「連絡が遅れてごめんな。瑠衣は元気か?」

「はい、心配しましたよ。地震の後も津波のニュースが入って来るし、電話が繋がらないし。あ、でも、もう平気です。今話せたから」


「ごめんな」

 また彼が謝る。

「そんな。マールも元気です。もうじき日本に戻れるんですよね」

「ああ。ただ職場が落ち着かないし、当初の予定よりは遅れると思う。あと少しマールと待っていてくれな」

「はい。待ってます」


 涙が出そうになるから必死でこみ上げる思いを抑え、スマホを握りしめていつものように話した。


 良かった、本当に良かった。

 日比野さんが無事に帰ってきてくれるならそれ以上のことはないから。

 その日まで私、マールと待っています。


 彼の声が聞けたことで、この二日間の苦しかった時間が泡のように消えた。




 日比野さんの帰国は当初の予定よりも二週間以上ずれて九月の半ばになった。


「帰国の翌日にはマールを迎えに来るから」と言っていて、その日は私の二十歳の誕生日と重なっていた。それは彼に伝えてないけれど、誕生日に再会出来ることは特別に思えた。


 一年前を思い出すから。


 無事に戻れた彼に会えるのが嬉しいけど、でもそれはまた別れに繋がるだろう。

 私もS町の部屋を出るから今度こそ別々になってしまうし、もう簡単には会えなくなる。


 だから嬉しいのに辛い。

 その日が怖くて胸が痛い。


 でも再会できるその日を目一杯楽しんで、その幸せだけを全身に受けとめよう。


「私、その日シフトが入ってるのでS町に戻るのは夜遅くになりますよ」

「瑠衣の上がりは何時?仕事の後で合流すればいい。迎えに行くから」

 そう日比野さんが言って、ショップのあるビルに入っているカフェで待ち合わせする事にした。




 心待ちにしていた再会の日の仕事終わり。

 私は緊張しながら鏡を覗いてメイクを直し地階のカフェに向かった。


 店に近づいていくとカウンターの席でスマホを手にする日比野さんを見つけた。


 二ヶ月半振りに見た彼は白シャツのスーツ姿で、首元は赤地のネクタイを少し緩めている。

 左手首には黒い文字盤にシルバーの腕時計が見えて。

 でもまだ私には気づいてない。


 ああ日比野さんがすぐそこに居る。


 私、毎日あなたを想っていたんですよ。

 会いたくて、会いたくて。


 そっと盗むように目に焼き付けた姿に気持ちを急かされながら、カフェオレのトレーを手に私は声を掛けた。

「日比野さん、お帰りなさい」


 振り向いた彼が笑顔になった。

 肌が日灼けしてる。


「瑠衣か、気づかなかった」

 左眉の方が右側より少し上がるその笑顔で、束の間見つめられた気がした。

「しばらく見ないと感じが変わったな、髪色?いや全体的に」

「髪色は夏の間明るくしてました。あの、今は前より少し体重があるから。太った感じでしょう?」

 真面目に取り組んだボディメイクの影響が気にかかる。

「いや、太ったとは……。俺はいいと思うけど、その位が」


 それから少し話して和食が食べたいという日比野さんと天ぷらを食べて、彼が運転する車でS町の家に戻った。


 助手席に座ると懐かしくて、嬉しくて途中何度も彼の横顔に視線が流れてしまう。

 一度目が合って、日比野さんが無言で少しだけ微笑んだ時はとても恥ずかしかった。



 部屋の扉を開けるとマールが玄関でちゃんとお出迎えしてくれた。


「マールただいま。いい子にしてたか?」

 日比野さんにそう言われたマールは尻尾を立てて、ちょっと興奮気味で彼に擦り寄る。

 彼はマールを優しく撫でてやってから、自分でご飯を準備してあげた。


「日比野さん、しばらくぶりにモフモフできて嬉しい?」

「ああ、至福だな」

 マールを眺める端正な横顔がすっかりにやけてる。


 さっきカフェで見たのは素敵でドキドキさせられる大人の笑顔。

 でも今は無防備で子供みたいな笑顔になってる。


 日比野さんをこんな笑顔にしちゃうマールが羨ましいと思った時、彼が言った。

「瑠衣、やっとここに帰って来られて良かった。すごく長かった気がする」

「そうですね。マールもすごく喜んでるし」

「ああ。でも瑠衣、お前が一人で心細い思いをしてるかと思うと、俺は気が気じゃなかった」

「私が?」

 見上げると彼は真面目な顔でうなづいて私を見た。


「そう。大切なものをここに残したままだ、何があっても戻らなきゃって、ずっと思っていた」

「私を大切って思ってくれてるの?」

「大切だよ、はっきり気づいたんだ。それに瑠衣が泣いてる気がした。俺に涙を見せたこともないのにな」


 日比野さん、なぜそう思ったの。


 でも本当に私は泣いていたの。

 一人で泣いてました。


「俺が勝手にナーバスになってたせいかな。だから早くって……ん、どうした瑠衣?」


 今はもう日比野さんがよく見えない。

 堪えていた涙が流れ、床にしゃがみ込んで私は泣いた。


 日比野さんに出会えて良かった。

 私を置いてどこにもいかないで。お願いです。

 そう言いたいけど言葉にならない。


 何も言わず日比野さんは頭を撫でてくれて、体を丸めて泣きじゃくる私を包むように腕に抱いた。




 それから間もなく、私はS町のマンションを引っ越して都内で暮らし始めた。

 あの部屋も日比野さんが暮らした部屋もすぐに買い手が見つかり、別の人の手に渡る事になった。


 新しい日比野さんの部屋にはもうあの古い木製のダイニングテーブルはない。

「子供の頃から家にあって、あれだけずっと処分できずにいたけど、やっと手放す気持ちになれた」

「色々思い出があったんでしょう」

「そう。でももういいんだ」



 今日は二人揃って休日。


 日比野さんの部屋で、彼が淹れてくれたコーヒーを飲むところ。

「いい香り、これはどこのコーヒー?」

「そうだろ。どこのだと思う」

「どこのお店?でもわかんない。どこのって言えないな、香りが特別で。飲むのは多分初めてかな」

「ふうん、なかなかの推理じゃないか。これが前に話したジャカルタのコーヒーだよ」


 あ、思い出した。

 ジャコウネコだっけ、糞から取り出すっていう。


「これがジャコウネコのコーヒー?」

「当たり。いい香りだろ」

「はい。いい香りだし、普通に美味しい」


 けどこんな風に何食わぬ顔で勧めてくるところ、やっぱり日比野さんもあの海斗の友達なだけある。


「瑠衣、お前に見せたいものがあったんだ」


 そう言うと彼は取ってきた濃紺色の小箱から、青い色石を嵌めた指環を取り出した。

 それを部屋に光が差し込む方に向けた。


「こっちにおいで。見えるか?」

 青い石の中に六筋の白い光が現れている。

「これはスターサファイアだよ。光を受けると星型に反射して見える物なんだ」

「本当。綺麗です」

「これは俺の母のものだった。瑠衣が使うには古臭い形だけど、お守り代わりに持っていてくれ」

「お母さんの形見でしょう。それは駄目ですよ」

「これは瑠衣に似てるから。この星型の光がなぜ見えるか知ってるか?」


 知らない。私は首を横に振った。


「石の中にいくつもある傷が光を反射してこの形を作るんだよ」

「中に傷があるの?」

「そう。石だって傷つく。でもそれが星みたいな光に変わる。綺麗だろ、お前に似てる」


 石の中の消えない傷、それがこんなに美しい光を作るなんて。

 私の心にいくつもある傷。

 今も残るそれが日比野さんには見えるんですか。


「お前の涙を見た時、ああクリスタルみたいだと思った。それからこの石のことを思い出した」

「クリスタル、そうだったの」

「俺はそのままの瑠衣が好きだから。これはそう思う俺の心でもある、それでも無理?」


 過去は変えられないけど、それでもいいの?


 これが日比野さんの見た私で、あなたの心。

 その形だと言うのなら私に預けて欲しい。


 あなたの心のかけらを下さい。


「わかりました。でも日比野さん、もし俺の心を返せって言われても私、嫌って言うかも知れませんよ」

「言わないよ。この先ずっと」


 音もなくそばに来たマールが隣り合って座る私たちの前の床に寝転ぶと、金茶色の瞳でこちらを見上げる。

 そのお腹を撫でて日比野さんが言った。


「瑠衣、いい加減『日比野さん』はよせ。俺を敬ってるのはよく分かったから」

「あ、そうか。でもどうしよう」


 なんだか困るな。

 キョウみたいに『裕也さん』ってサラッと呼べない。


「じゃあ……、裕也って呼んでいい?」

「え、何?聞こえなかった」


 名前を呼ぶのがとても恥ずかしくて小声になったら、ぶっきらぼうに言われた。

 でも彼の瞳が笑ってる。


「もう嘘。わざとでしょう、大人げない裕也」

「いいね。そのくらいの勢いで呼べよ」

 そう言って彼は笑った。


 ジャコウネココーヒーを飲みおえたら、彼の青い車でドライブに出かける。

 裕也に私の心を預けて、秋風の声と流れる風景にもっと大きな自由を探しに。




 完


お読みいただきありがとうございます。

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