午前零時の鐘 4
日比野さんがこのマンションを引越し、ジャカルタへ行ってからひと月が過ぎた。
私とマールの同居生活も、もう一ヶ月以上になる。
日比野さんの部屋はまだ家具やマールのための物が残されていて、また合鍵を渡された。
「でも、日比野さんはもうここでは暮らさないんでしょう。ご主人が戻らない部屋にマールを残しておくのも可哀想な気がします」
「なら瑠衣の部屋で飼う?マールを連れて行ってみようか」
日比野さんに連れられて私のいる部屋に来たマールは、最初ウロウロと歩き回ってあちこち匂いを嗅いでいたけど、まもなく慣れて涼しい廊下の上で身体を伸ばした。
今では私が仕事から帰ると玄関に現れて出迎えてくれる。
初めて日比野さんの部屋を訪ねた日のように。
仕事終わりに疲れていても、部屋でマールが待っていると思うと嬉しくなる。
ふわふわの毛並みを撫でたり喉を鳴らす音を聴くととても癒される。
日比野さんもきっと同じ思いだったに違いない。
私もいつか猫を飼おう。
異動先の渋谷のショップにも馴染んできたし、キョウとの動画も続けている。
でも最近、それとは別にやりたい事ができた。
好きな洋服を売るだけじゃなくて、自分がデザインした物を作りたくなってキョウと服や雑貨のアイデアを出し合ってる。
キョウとの動画を通じてショップ勤めとは別にお金が入るようになったし、そのおかげで将来について夢が持てるようになった。
九月には二十歳になるし、モデルとしても進化して女性らしい綺麗な体型になりたい。
そう思って食事に気をつけながらボディメイクを始めたので、筋肉と脂肪が少しついて体が変わってきた。
今暮らしているこの部屋は日比野さんが日本に戻ったら引っ越して、都内に部屋を借りる。
半年以上もここでお世話になったし、今はやりたい事が多くて通勤に費やす時間がとても惜しい。
長く入院していた私の母は、病状が安定して障がい者向けの共同住宅で暮らすことになった。
それも私がY市を出ることを決めた理由だった。
職員の人や仲間が常に居て一人きりではないから、気が滅入ってまたお酒を呑んだり、その為に体調を崩すこともないだろう。
これまで私はいつも母を心配しながら、同時に一人置き去りにされたり家族として守ってくれないことに悲しんできた。
今はまだ、母と向き合うと気持ちが波立って辛い時がある。
いつか私がもっと大人になったなら、この気持ちも穏やかなものに変わるだろうか。
何かをきっかけに変われることもあるだろうか。
日比野さんは時々ジャカルタから電話をくれた。
「瑠衣、元気か?」
「私もマールも元気ですよ」
定番の挨拶から始まって、お互いに色々なことを話す。
「最近は街を出て郊外に行ってみたりしてる。街を少し離れると田舎、と言うより自然の中なんだ」
そう聞くと私は熱帯の森やジャングルみたいな所を想像するけど、実際はどんな場所なんだろう。
そうしてひとしきり話してから「じゃあまた電話する、元気でな。おやすみ、瑠衣」と日比野さんが言う時、「日比野さんも元気で。おやすみなさい」と私は努めて明るく答えた。
本当はもっと彼の声を聴いていたい。
とりとめのない話でも続けていたいし、次はいつ話せるの、とつい聞きたくなってしまう。
そんな気持ちを滲ませないように、いつも明るく別れを告げていた。
一人の心細さとも寂しさとも違う気持ち。
それが募っていくことに気付いたのは、日比野さんが慌しく引越して行った後だった。
それは大志くんとの恋が始まった時の甘くドキドキする感じとも違う。
もっと重たくて、日毎に胸の中に積もっていくようで切なくなる。
そんな時はバッグに入れた合鍵を取り出してみる。
青いキーリングとそこに刻まれたエンブレムが、日比野さんと彼の愛車の記憶を呼び覚ます。
高いエンジン音と窓の外を目まぐるしく飛び退る風景に、自分を縛る見えない鎖が千切れて何からも自由になれる気がした。
心のままにそう言うと、『そうだな。俺もそう思うことがある』と日比野さんが言った。
それは私が十九歳を迎えた日の記憶。
あの時の日比野さんの言葉を今はもっと深いところで理解できる気がする。
これまでいつも私を支えてくれたあの人を困らせたくはない。
だからこの想いは秘密。
それでも私、日比野さんに会いたい。本当はとても、とても会いたい。
八月の終わり。
あと少しで日比野さんが帰国するというある日。
シフトの休憩時間に何気なくスマホに入って来たニュースを見た私は、休憩室の椅子から跳ねるように立ち上がった。
『ジャカルタで大地震発生。震源は近海の浅い場所でマグニチュード……最大震度は……』
「うそ!」
思わず呟いた時ちょうど休憩室のテレビにも速報のテロップが流れた。
「どうしたの、大丈夫?あなたの知ってる人がいるの」
休憩を取っていた別の売り場の女性に訊かれたけど、私はスマホを掴んで部屋を出るとすぐに日比野さんに電話した。
繋がらない。
また掛け直したけど同じだった。
また掛け直す、けれど今度は全く呼び出し音すら鳴らない。
繋がらない、どうして。
いや、今は安否の連絡が多くなって回線が混んでるのかも。
休憩時間が過ぎ仕事に戻ってからも心配で、良くないと分かってるのにトイレを口実に電話をしに行った。
けれどやはり同じで呼び出し音すら鳴らないままだった。
今日に限って私はショップのリーダーで締めの仕事をこなさなければならず、それ以上どうすることもできない。
キョウと海斗にチャットして何か分かったら知らせて欲しいと伝えた。
日比野さん、無事で居て。
冷静に、と思いながら接客していても心配のあまり胃がキリキリする。
仕事を終えて歩きながら、電車に乗ってからもスマホで地震の続報を探した。
ジャカルタ市街でも震度六程度の揺れのために、古い建物の倒壊や火災が起きているようだった。
停電があり交通機関もストップして、空港も今は使えない状態だなんて。
そんな、そんな。
マンションの部屋のドアを開けると、廊下をトコトコ歩いて来たマールが金茶色の瞳でこちらを見上げた。
「マール」
そう呼ぶと「ニャー」と返事をするように啼いた。
「マール、私怖いの……」
体を擦り寄せたマールを抱き上げて私は居間に向かった。
居間の床に座り込んでマールを膝に抱え、その温もりを確かめる。
「マール、日比野さんが無事でいるか知りたい。それだけでいいの」
そう言いながら目の前が急にくもり、パタパタと涙が溢れた。
辛くても、一人でも泣かない。
もう悲しみに溺れたりしない。
一人で立って生きていく。
そう心に決めてこれまで来たのに、タガが外れたように涙が止まらない。
しゃくりあげて私は泣いた。
抱えたマールの毛並みにも涙が落ちて転がり、ムクッと起き上がったマールは私の膝を降りて前脚で顔を洗う仕草をした。
『瑠衣、お前しっかりしろよ』
日比野さんにそう言われたような気がした。
「ごめんねマール。お腹空いてるよね、ご飯にしようね」涙を拭って私は立ち上がった。
マールにご飯をあげたらキョウから電話が来た。
「瑠衣、大丈夫?何か分かった」
「私は大丈夫だよ。でもまだ連絡がつかないの……」
「そうか。でも裕也さんはきっと大丈夫。だから瑠衣落ち着いてよ。こっちは編集でずっと起きてるし、眠れなかったらチャットも電話もオッケーだからね」
「キョウごめん。ありがとう……」
「ねえ、もしかして泣いてたの?随分鼻声だね」
キョウは耳がいい。
「バレた?さっき泣いちゃった。でも今はマールにご飯あげてた」
「あーあ、全然大丈夫じゃないじゃん。あのさあ、瑠衣」
「なあに」
「瑠衣は裕也さんのこと、好きなんだね」
「え?」
「私は裕也さんがすっごくタイプだし、前から憧れてるし好きだよ。わかる?」
「わかるよ」
「でも瑠衣も好きなんでしょう、裕也さんが」
「どうして急に、キョウ」
直球で切り込むキョウに動揺する。
「だって、はっきりさせなきゃ瑠衣は自分の気持ちに蓋するとこあるからさ」
「そんな。キョウはどうなの」
「もう瑠衣、そこ言う?裕也さんから見たら私は一ミリも女の子じゃないの。とっくにわかってるよ。私のは推しに捧げる「好き」で瑠衣とは違うの」
「日比野さん推しってこと?」
「そうだよ。ねえ瑠衣、最近の動画のコメント読んだよね?大人っぽくなったって書かれてる」
「そうだったね」確かにそういうコメントが多かった。
「リスナーさんて見てるよね。私もそう思ってた。瑠衣は可愛いけど、最近は綺麗になってる。そうなんだよ」
「ねえキョウ、どうしてそんなグイグイ来るの。私が泣いちゃったりしてたせい?」
「瑠衣ごめん。でもさあ、気持ちを大事にして欲しいんだよ」
大志くんと別れた時もキョウには苦しい気持ちを打ち明けた。
人の気持ちに敏感なキョウには、もう秘密にできないかも。
「ありがとうキョウ、本当のこと言うよ。私、日比野さんが好きなの。だから今、心配でたまらないの」




