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午前零時の鐘 3

「裕也、何でまた急に引っ越しを決めたわけ?」


 そう海斗に訊かれて日比野さんは「お袋の十三回忌も済んだし、過去に一区切りつける時期かなと思って」と答えた。

 それは以前私にも話してくれたけど本当は別に理由があった。


「瑠衣、お前に聞いて欲しいことがある」

 食事の後、海斗達と別れると日比野さんが言った。

「何ですか」

「うん、戻りがてら話す。お前にはマールの事でも世話をかけるし、知っていて欲しいんだ」

 日比野さんは車の助手席側のドアを開けて私を座らせると、外で煙草を吸った。


 知っていて欲しい事って、何だろう。


「この前俺といた時に会った女を覚えてるか」

「ハルカさんて言っていた人ですか?」

「そう。彼女は兄の司の婚約者なんだけど、婚約を解消したいと言ってきた」

「え、婚約解消?なぜ」

「それは昔俺と彼女の間にあった事が原因なんだ。高校の頃俺は彼女と短い間だけ付き合っていた」

「そうだったんですか」


 何となくそんな気がしていた。

 やっぱり、あの人は日比野さんの元カノだった。

 大志くんと咲香さんとの事を思い出して苦い気持ちになってしまう。


「今は何もないし兄との交際も順調そうだった。けど結婚を前に彼女の気持ちが揺れて、俺の居場所を突き止めて訪ねて来た」


 あの日顔を合わせたハルカさんの射抜かれそうな強い視線。

『そばに居たい、裕也!』と言った声は悲鳴みたいに聞こえた。


「このままにして置けないから俺は親父にだけ本当の事を話した。俺はもうここに居ちゃいけない気がしてる。そして親父も同じ意見だ」

「だから日比野さんが引っ越してジャカルタに。あの人と距離を置くため?」

「ああ。司はこの事を知らない。一生知らなくていいんだ。これは過去の俺の行いが招いた事で、償うのは当然なんだ」


「そうまでして日比野さんが償わなければいけないんですか」

 お母さんと暮らしてきた思い出の場所を捨てて、大事にしているマールとも離れて。

 胸が詰まってそれ以上何も言えず、私は運転する日比野さんの横顔を見詰めた。


 しばらく沈黙が流れ、やがて前を見たまま日比野さんが言った。

「瑠衣、ジャカルタはいずれ数ヶ月か年単位で行く予定だった。それが早まるだけだ」

「年単位って、もしそうなったら?」

「その時はマールも連れて行く。今回はまた瑠衣に迷惑かけて済まない。ごめんな」

「謝らないで下さい。迷惑なんて、マールの事は安心して任せて下さい」


 でも、今の流れで日比野さんが日本を離れてしまうことになったら。

 あの場所に日比野さんが居なくなったら。


 これまでも別に決まって顔を合わせていたわけじゃないけど、心のどこかで彼がそばにいる事を意識してた。

 私がボロボロの時ばかり急に現れて、崩れそうな気持ちに号令をかけて前を向かせてしまう日比野さんが居ないなんて。

 そう思うと心細い。


「瑠衣、暫くの間離れるけど心配するなよ。俺がお前のお守り替りだって事は忘れてないからな」

 一瞬こちらに目線を投げて日比野さんは言った。

 その口調にこれがもう曲げられない事実だと思い知らされる。


 これから私、ちゃんと一人で立っていられるの。

 いや、そうしなきゃ。


 それから私は絵菜が黙って撮った日比野さんとの写真の事を話した。

「もっと早く話せば良かった。ごめんなさい」

「いや、それなら大志に聞いた。俺は気にしてない。大志は瑠衣が気にするかも知れないって心配してたよ」


 大志くんが。

 別れたのにそうやって私を気遣ってくれるんだ。

 温かくて素敵で、うんと甘やかしてくれて。

 でも今はもう遠い大志くん。


「大志くん、優しいから」と言葉が溢れたら、「アイツは無駄に優しい。昔から俺とは真逆」と日比野さんは言った。




 首都高を走る車のスピードに乗って流れる夜景。

 運転しながら日比野は助手席の瑠衣の気配を伺う。


 あれから瑠衣は黙ったままだ。

 遙の一件で実家はゴタゴタしていたし、引越しや長期出張の事をいきなり持ち出したから驚かせてしまっただろう。

 大志と別れた事も相当ショックだったに違いない。

 それは大志も電話で気にしていたし、瑠衣の華奢な身体が目に見えて痩せている。


 けど俺は大志のことを責めるような立場じゃない。


 実母の死を契機に日比野家の次男として中学生になった頃は、「日比野裕也」として生きることを受け入れる以前に「外崎裕也」としての自分を否定されたくなかった。


 日比野の父を好きだったが、その父の愛人の子という出自は思春期の自分には重く、多岐にわたる家業の後継者として求められるものにも否応なく気づかされる。

 当時は日比野の母とも司とも、うまく馴染めずにいたし、自分も亡くなった母も義母や司からただ恨まれているとばかり思っていた。


 かつて父親も司も通った学校に進学し、勉強でも何でも努力で自分を周囲に認めさせることはできても、影で『裕也は父親の愛人の子』と呼ぶ奴がいる。

 押し寄せる現実に溺れないように毎日を泳ぎ続けた。


 不安定な気持ちを押さえ込みクールぶって過ごす。

 そんな中サッカーを始めた俺に目を留めて騒ぐ女の子達や、近づいて俺が好きだと言う子が居た。

 そういう女の子達を気晴らしに冷たく心の無い付き合いを繰り返す。


 高校に進んでからもまだ俺はそんな調子で誰ともちゃんと向き合わず、『誰よりも裕也が好き』と言ってくれた大学生の遥までも傷つけた。


 ただその頃からやっと、家族ってのは生まれついてのものだけではなく、自分の意識の持ち方で築いていけると思い始めた。


 兄として俺を受け入れてくれた司の優しさや義母への気遣い。

 悲しみを乗り越えて父の不貞を許し、俺を息子として迎えた義母の忍耐と情愛。

 入り組んだ不確かな心の道筋をそっと辿って、諦めずにお互い歩み寄ること。

 それを続けていくこと。


 義母も司も、鷹揚に構えて見えた父でさえも。苦しんでいるのは俺だけじゃない。

 時間がかかったけどそう理解できた。


 もっと早く俺が大人になれていたら、周りの人間を傷つけずに済んだはずだった。

 俺は未だに相手を傷つけることしかできないんじゃないか。

 そう思うと、誰かに向けてこの手を伸ばすのが怖くなる。


 あの雨の日曜日、突然マンションに現れた遙を送る途中で彼女が言った。

『裕也、正直に言って。一緒に居たあの綺麗な子、本当は彼女なんでしょう?』

「違う。このマンションで暮らしてはいるけど大志の彼女なんだ」

『大志くんの?そうなの。でも……。裕也、なんだか優しい顔してた』


 優しいなんて。

 それは俺から一番遠い言葉だろ。


 瑠衣と出会った秋の夜。

 こいつは傷だらけで痛ましくて、でも必死に何かを掴もうとしている気がした。


 火事に遭った日も。

 全てを失って途方に暮れながらも、涙を流すより自分で立っていようと懸命で。


 幼く楚々として折れそうなのに弱みを見せようとしない瑠衣。

 自分の心が深く傷ついて血を流しても、そばにいる誰かを安心させる為なら瑠衣は微笑みで鎧って傷を隠すのじゃないか。

 こいつを見るたびそんな気がする。

 だから放って置けない、それだけだ。

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