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小さな熱い舌 1

「全部燃えちゃったんだ、そう。もうないの、あの部屋」

 入院中の精神科病院に面会に行って、アパートの火事のことを話すと母はそう呟いた。

 先に電話で話してはいたけど、その目で火事の現場を見ていない母は実感がわかないようで、瑠衣はスマホで撮影した写真を見せた。

「こんなになっちゃった。母さんの大事なもの、何も持ち出してあげられなくてごめんね」

「別に大事なものなんか、まあ母さんの写真と位牌くらいだし」

 確かに、可愛がってくれた祖母の写真すら手元に残らなかったのは寂しかった。

「あんた今どうしてるの、私はここにいるから別に困らないけど」

「S町のマンションに住んでる知り合いの人が自分で持っている空き部屋を貸してくれたの。使っていいって」

「S町なんて高級住宅地じゃない、知り合いってどういう人」

 母の言葉にドキッとした。

「T地区の再開発をしている会社に勤めてる日比野裕也さん。お父さんが会社の偉い人みたい」

 日比野さんのこと、改めて聞かれるとよく知らなかった。

 彼の会社の名前さえちゃんと言えない。

 あの時は彼の言うことが正しいと思ったから、部屋を使わせてもらうことにしたけど。

「S町に遊んでる部屋だなんて。いくつくらいの人、瑠衣の彼氏?」

「違うよ。火事の時に偶然家の前で会って、住む場所がないならって助けてくれただけ」

 それに恋しているのは別の人。

 柳井大志くんという人。

 いつも優しくて一緒にいると心の底から温かくなれる、とても素敵な人。

 そう言えたらいいのに、母と話していると心がささくれ立ってきて冷静でいられない。

「瑠衣は仕事始めてから垢抜けて綺麗になった。もともとあんたは私に似なくて美人だしね」

 なぜか母は昔からよく自分が醜いせいで父が浮気して出て行った、と言っていた。

 お酒を呑むと何度も何度も言った。

 だから母にそう言われると、どうしても心から素直に喜べない。

 大志くんに『可愛いよ』と言われた時でさえ、この母の言葉がよぎったほどだ。

 最近やっと嬉しいって思えるようになってきたのに。

 ただ生まれついた姿で生きてきただけ。

 それで誰かを利用してるみたいに言わないで。

「別に隠さなくたって瑠衣、日比野って人の世話になってるんじゃないの」

「違うっ、そういうんじゃないっ!」

 弾け飛ばないように、心に固く結びつけていた糸が切れて思わず大きな声が出た。

 世話にってそういうお金が絡んだ関係って、母さんまでそう思ったの。

 絵菜みたいに言うの。

 私を信じないの、そんなんじゃない。

 違う。私そんな事していない。

「ごめん母さん、違うの。日比野さんはね、一昨年の夜中に私が家を出た時に助けてくれた人だよ」

 胸に手を当てて呼吸を落ち着け、焼けるような心の痛みをなだめながら言った。

 母は急に言葉をなくして視線を逸らした。

 そう、私と母さんが別々に暮らす引き金になった秋の雨の夜。

 お互いに忘れたいって思ってる事。

「日比野さんは人助けと思ってしてくれただけ。多分すごいお金持ちで、きっと全然別世界の人。新しい部屋も探すし、この先ずっとお世話になるつもりないから」

 落ち着かなきゃ、責めちゃだめ、母さんは病気なんだから。

 お酒に負けてしまう心が弱い人なんだから、私が感情的になっちゃいけない。

 瑠衣が病棟の談話室に置かれたパイプ椅子から立ち上がると、母の声が追いかけてきた。

「瑠衣ごめんね、ごめん。悪かった、見捨てないでよ」

「うん、私は大丈夫。見捨てたりなんかしないよ、でも今日は帰るね。また来るから大事にしてね」

 瑠衣は何とか母にそう言った。




「あー、大志と話すとなんか落ち着く」

 白ワインのグラスを手にした伊原咲香(いはらさきか)が端正な横顔で微笑んだ。

 今夜は都内での仕事の後に食事をしている。

 ワインに合うおでんがあるというこの店は彼女が選んだ。


 元旦に魚の骨が喉につかえた祖父を当番病院に連れて行った時、診察した医師が咲香だった。

 紺色のスクラブに白衣の若い女性医師が咲香だと分かった時、彼女も大志に気がついた。

「咲香、ドクターになったんだね」

「まだ研修医だけど。大志、今度ご飯でも行こうね」

 そう言い合って別れた後しばらくして、咲香からチャットアプリで連絡があった。

 彼女とは高二から大学一年の途中まで付き合っていて、改めて会うのはその時以来になる。


「咲香、毎日ストレス溜まってるんじゃないの」

「患者さんと話す時はやっぱり緊張する。研修医では一番の下っ端だし、女だし、全てが厳しいよ」

「大変だね。咲香は真面目で人の話を真剣に聴こうとするよね、だからだよ」

「うーん、要領よくこっちのペースで聴けないだけ。大志はどんな仕事してるの」

 黒髪をショートボブにして小柄な咲香は大人しそうに見えるけれど、女子高時代は生徒会長だった。

 色白で凛として、高嶺の花という雰囲気。

 初めて見たときから吸い寄せられるように視線が外せない事に気付いた。

 生徒会がらみの他校交流行事で出会って一緒に活動して、大志の方から告白した。

 真面目でひたむきなところは瑠衣に似ている、と思った。

 華奢なのに頑張り屋なところも。

 いや、それは逆で瑠衣ちゃんが咲香に似たところがある、のかな。


「大志は色んな人と組んで時代の先を行く仕事してるのに、全然ピリピリしてないよね。柔らかくて本音を出せるの。変わんないね昔から、そういうところ」

「僕は咲香と真逆で自分の芯がないだけ。企画でも自分のプランより面白い方向のが上がればコロッとそっちにいくしね」

「ううん。大志はね、天然の人たらしなの。いい意味で、だよ」

 二人でグラスを重ねる。

 医大に進学した咲香とは別の大学になり、やがて一緒にいる時間が減り、別れを切り出したのは咲香の方だった。

「専門が決まるのっていつになるの」

「まだ後一年ちょっとかかるの。私、循環器内科志望なんだ。大志が居るY市の病院になったら、またご飯一緒にしてくれる?」

 咲香がワインの酔いにうっすらとピンクに染まった頬で尋ねてきた。

 僕が断るなんて思いもしないという口調で。


 家族みんなに大切にされてきたお嬢さん育ちで、二人きりの時のワガママも『ねえ大志、いいでしょう?』という言葉と笑顔で通してしまった咲香。

 けど、今の僕には瑠衣ちゃんがいる。

「うーん、僕は今彼女居るからね。咲香は付き合ってる人居ないの」

「私はいない。そっか、大志がモテないはずがないよね。ねえ、どんな子か聞いていい、写真は?」

 さっきの牽制を理解してくれたのか、どうか。

 テーブル越しに咲香は大志のスマホに目線を流すと、少し身を乗り出した。

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