冬の陽射し 4
再び市街に戻り職場のビルに近いファミレスで、瑠衣は日比野と差し向かいで食事をしていた。
ここまでは彼がつかまえたタクシーで戻って来た。
「街中に戻る。ほら乗って」と彼は瑠衣を促し、乗り込むのをためらっていると「ここに居ても仕方ない。飯が食える場所も泊まれるところだってないだろ」と言った。
付近には食堂やラーメン屋さんがあるけど、今夜は既にどこも店じまいしていた。
「はい」と答えて乗りこむと「参ってるのに急かして悪い。怖かったか」と低く尋ねられた。
「日比野さんが。いえ、怖くないです」
それは別に気を遣って言ったわけではなく、彼の口調は素っ気ないのだけど怖くはない。
そう、初めて声を掛けられた一昨年の秋の夜も。
次の行動に向けてスイッチが入ると言うのか、そういう感じなのだ。
「酷い目に遭ったな。まず好きな物食べて落ち着けよ」そう言われて素直に甘えることにした。
「まさかあそこで日比野さんと会うなんて思いませんでした」
「俺もだ。ここらで人と会って用が済んだと思ったら、うちの再開発区域の方から煙が見えたからタクシー拾って向かったんだ」
「私も仕事が終わったところで。慌ててなぜか普通にバスに乗ってました」
「そりゃ焦るよな。でも、あんた一人ってことは家族とは別なの、入院してるって言ってたか」
「そうです。母が今も」
「年明けはいつから仕事?」
「二日の初売りからです」
「忙しいんだな、なら今日明日はちゃんと休まないと。じゃあすぐ本題に入ろう、提案がある。食べながら聞けよ」
熱いグラタンを食べている瑠衣に日比野が言った。
「S町に今夜からすぐ暮らせてセキュリティーもちゃんとしていて、あんたの職場からも近くて便利な物件がある。しかも無料で期限もない。そこならこの後俺が案内できる。ほかにプランがないのならそこに決めたらどうだ」
日比野さん、T地区の都市開発の仕事って前に言ってたっけ。いきなり物件の紹介なんて。
それにS町は昔からある高級住宅地で、私が住める場所じゃない。
「すごくいいお話しとは思うんですけど、それはお仕事関係の物件ですか。S町なんて私のお給料で借りられるような場所じゃないです……」
「部屋を借りろなんて言ってない、ただで自由に泊まれる避難場所さ。マンションの俺の部屋だから」
「え、日比野さんの」
そんなの無理、できるわけない。
大志くんの部屋だってこの前初めて入ったのに、彼でもない人の部屋になんて絶対いや。
瑠衣の困惑を察知したらしい日比野が言った。
「ええと、今のは誤解を呼んだな。S町のマンションに俺名義の部屋が二つある。一つは俺が住んでて、もう一つが空き部屋で人が住める状態になってる、分かる?」
「わかりました。でも、どうして」
「あんた確か未成年だったよな」
「十九です」
「年齢はいいとしてもネットカフェに泊まるには身分証が要る。保険証とか持ってるの」
「ないです。あー保険証、家に置いてたんだ」
瑠衣はまたショックだった。迂闊に病気もできないし身分証になるものがない。
「この上まだ理由を説明させる気か。今あんたが困ってるから、たまたま居た俺ができる事をするだけだ」
日比野は真剣な表情だった。
それなのに、瑠衣は急に胸の奥が温かくなって気持ちが緩み、クスクス笑ってしまった。
「人の好意を笑うとは、あんた性格悪くないか」
「ごめんなさい、笑うつもりじゃなくて。私なんかのために真剣に考えてくれてって思ったら」
「いや、わかってる。性格が悪いのは俺の方」
少し顔をしかめてそう言うと日比野はメニューを取り上げた。
「食後に俺は珈琲を飲むけど、お前は?甘いものは疲労回復になるし、何かデザートを頼めば」
呼び名が『あんた』から『お前』になった。
彼にとって自分はきっと後輩みたいな扱いなんだろう。へたな遠慮は瞬時に切り返されてしまうのが目に見えているので、もうやめることにした。
「そうします。じゃあ私はこのフルーツを添えたカタラーナをお願いします」
今手元にある物以外失くしてしまって先が見えないのに、不思議と肚が座って何とかなりそうな気がしてくる。
すごくショックだったし疲れてるし私、ちょっと変なテンションなのかもしれない。
日比野の提案は突飛だけど彼の善意を信じて受けよう、と瑠衣は思った。
「日比野さんは、S町のマンションにご家族と住んでいるんですか」
「いや、実家は都内」
「本当は今日帰る予定だったんじゃないですか」
あの時自分と出くわしたせいで、今夜帰るはずの予定が変更されてしまったのじゃないだろうか。
真剣に心配してくれた日比野なら、ありえないことではない気がした。
「いや、そもそも今日は帰る予定じゃない。お前が気にしなくていい」
急に彼の口調が素っ気なくなった。
ファミレスを出ると「付いてきて。近くに車を置いている」と日比野はコインパーキングに向かった。
駐車場のライトの下に、以前見たあの鮮やかなブルーの車が停められていて「乗って」と彼がドアを開けてくれたのは右側の助手席だった。
ブルーのステッチが掛かった硬めの感触の黒い革のシートに座ると、瑠衣は去年の誕生日の出来事を思い出した。
小気味好く耳を抜けるエンジン音と、飛び退る緑色の風景。
でも今夜は車はおとなしく市街地を抜けて坂道を登り、重厚な造りの邸宅が立ち並ぶS町に入った。
そこは同じ市内なのに瑠衣がこれまで足を踏み入れたことのない場所。
坂の途中のライトアップされたレンガ調のゲートがあるマンションを指した日比野が「ここだ。地下の駐車場に入る」と言った。
駐車場入り口のシャッターが彼の手にしたリモコンに反応してキリキリと捲き上り、その金属音を聴いた瑠衣は急に緊張した。




