冬の陽射し 3
瑠衣が振り向くと、声の主はスーツにコートを羽織った日比野裕也だった。
「日比野さん、どうして」
「近くに来てた。あんたは仕事だったの?」振り向いた瑠衣の姿を一瞥して彼は言った。
「そうです、急いで帰ってきたらもうこんなことになってて」
「まあ、怪我はないみたいで良かったけど、家がな」
「そうですよね。どうしよう……」
そう言ったきり瑠衣は呆然と燃える建物を眺めていた。
燃えていくのは建物だけじゃない、この場所で過ごした日々も。
物心ついた時には両親は離婚していて、瑠衣は母親と二人この古いアパートで暮らしてきた。
その頃の母はまだ何とか仕事をしていたし、地方で暮らす母方の祖母が時折訪ねてくれた。
クリスマスや年末には人形を買ってくれたり新しい手編みのセーターを着せてくれたりと、無口だけど優しかった祖母は、瑠衣が小四の時に心臓病で他界した。
人の死が悲しいという思いはまだ漠然としていた気がする。
それよりもこの頃から家で人に包まれ何かを分かち合うことが無くなっていき、いつも寂しかった。
その頃から母が鬱的になり、よくお酒を飲むようになっていたせいだ。
暗い表情で無気力に座っているか寝ているか。
だんだんお酒の量が増えて仕事にも行かなくなり、瑠衣にも家のことにも無関心になっていった。
家の中は荒れて散らかり洗濯も滞って着替えが無かったり、食べるものが無かったこともある。
小学校から帰宅すると瑠衣は部屋に散乱したゴミを拾い掃除機をかけ、洗濯機を回した。
母は病気で元気が出ないのだから、自分が手助けしなきゃと思っていた。
でもお酒を飲んで酔いが回ってくると今度は様子が一転して、テンションが上がるというか無茶苦茶になる。
そういう時は大抵、瑠衣が帰宅すると炬燵テーブルの上に千円札が一枚置かれていて母の姿はない。
コンビニで食べ物やお菓子を買って来て、ラジオを聴きながら夜を一人で過ごし、常夜灯を点けて一人で眠る。
明け方に物音がして、居間か自分の部屋に母が着の身着のまま倒れ込んでいればいい方で、玄関や外扉の前で寝ていて隣の住人の手を煩わせることもあった。吐物で体が汚れていることも。
家族だから、他に誰もいないのだから。
そう思って泥酔した母の顔をタオルで拭いたり、衣服を着替えさせてやったりしていると、瑠衣はいつの間にか涙が溢れていた。
声を上げて泣いたら何かが壊れて戻らなくなりそうで、そうしてはいけないと思い込んでいた。
小六の頃にはもう近所でも母の事が噂になっているとわかっていたし、生活が破綻して瑠衣は児童擁護施設にしばらくいた事もある。
母は精神科に入院して、アルコール依存症の治療を受けるようになった。
治療が進むと精神的にも安定して、顔つきも元の元気だった頃の母に戻った。
「やっぱり瑠衣と暮らしたい、だから頑張ります。もうお酒飲まない、絶対。瑠衣、頼むから見捨てないでよね」
瑠衣の手を握って涙を浮かべる母は懇願し、たった一人の家族を失いたくなくて言った。
「いいよ母さん、瑠衣もお手伝いするから頑張ろうね」
それなのに中一のあの日、母はまた泥酔して……。
急に瑠衣の中に激しい思いが込み上げてきた。
私は裏切られた。
それでも寂しくて、一人になりたくなくて母のそばに居たくて、なかった事にした。
こんな記憶こそ全部焼けてなくなればいいのに。
建物と一緒に自分の一部も焼け落ちたらいい、無くなったらいい、消えたらいい。
燃え盛る火がようやく鎮火した時には既に二時間あまりが経っていて、急に寒さを感じた瑠衣は身震いした。
建物の残骸と張り巡らされた立ち入り禁止のテープにあっけなく締め出されて、もうなすすべが無いと思い知らされた。
気がつくと、日比野が現れた時のまま瑠衣の隣に立っていた。
「日比野さん、どうして」
「それ、さっきと同じ事聞いてる」日比野が苦笑して言った。
「え、そうですか」
「あんたこそ、これからどうする?あてはあるのか、親類とか友達とか。さっきも同じ事聞いたけど、聞こえてなかったんだろ」
「そうだったんですか、ごめんなさい」
燃えていくアパートを見ながらいろんな記憶が現れて、彼に話し掛けられていたことに全然気がつかなかった。
良いことだって少しはあったはずだけど、今日は辛いことや忘れたいことばっかり次々出て来た。
日比野さん、きっとそばで心配してくれてたんだな。
「何からすれば良いのかわかんなくて」
そう言えばお財布に現金いくら持っていたっけ。
クレジットカードは持っていないし。
身寄りはないし、大晦日の二十時過ぎにいきなり今晩泊めてほしいなんて言える人も居ない。
ショップの仕事仲間も実家で暮らす子はいるけど、この時間は家族と一緒に過ごして紅白とか見たり団欒してる頃だよね。しかも今夜だけ、と言うわけにも。
困ったなあ。
何日もホテル泊まりするようなお金はないし、何もかも無くした今はお金だって考えて遣わないと。
「そうだ、ネットカフェとか行けば泊まれるのかな」
でも、そういうところに泊まったことがない。
電車の駅の辺りにはあった気がするけど。
「それより飯でも食わないか。ここに居ても寒いだけだし、疲れてるだろう。俺も一緒に考えるさ。とにかく来いよ」
突然それだけ言うと火事の現場に背を向けて日比野が歩き出した。
確かに疲れてるし、とにかく寒いし『飯』って単語を言われたら急にお腹がすいて来た。
「はい」と彼の背中に返事をして瑠衣は後を追った。




