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光の圏内 1

 港を臨む坂の街Y市中心のT区は、再開発で新築のタワーマンション群が立ち並ぶ一角と、それとは対照的に電車の線路沿いに木造アパートや昭和の風情漂う一軒家が連なる場所とが混在する。

 特にT区の古びた住宅地は、昼間でもどこか灰色にくすんで見える。

 晩秋の深夜、暗く眠りに沈むその街並みを江島瑠衣(えじま るい)は必死に走り続けていた。


 足がガクガクして怖い。

 でも今だけは絶対に振り返りたくない。止まるな動け、私の足。

 中一のあの時にはもう戻りたくない。

 緩い登り坂を駆け上ると、昼間時々買い物に行く見慣れたコンビニの看板灯と店内の照明が目に入った。

 店の周囲は静かで、入り口付近に青いスポーツカーが一台停まっている。

 その側でスーツ姿の若いサラリーマン風の男が一人、携帯を見ながら煙草を吸っていた。


 もう大丈夫、あの日とは違うんだ。

 私、今はもう一人きりじゃない。


 たとえ見ず知らずの相手でも、この夜の小さな光の中、自分が生きる世界の延長線上に誰かがいる。

 白いライトが照らす圏内にそれを噛みしめて瑠衣は安堵した。

 ひとたび安心すると両足が一気に重くなり、力の抜けた体が急にガタガタ震えて、瑠衣はその場に膝を折りコンクリートの上に崩折れた。

「あんた、どうしたの」

 男の声がして黒い革靴が音を立て、瑠衣の視界をこちらに向かってきた。

 目の前で靴は立ち止まり煙草の匂いがした。

「怪我してるな、どうした」

 男は身を屈めて尋ねてきたけれど咄嗟に言葉が出ない。

 ドアチャイムの電子音が鳴り響き、別の人影の赤いスニーカーがその黒い革靴に近づいてきた。

「お待たせ裕也(ゆうや)、何してんの。この人どうしたの、酔ってんの?」

「わからん、酔ってはないらしいけど。ほらあんた、これ羽織ってなよ」

 日比野裕也は、店から出てきた友人の柳井大志(やない だいし)に答えると、スーツの上着を脱いで目の前にいる荒んだ格好の女の子に着せかけた。

 荒んだ格好と言うか、余裕を失くして何かから逃げて来たとしか思えない。

 冷え込む秋の深夜に、パジャマ替わりなのか擦り切れたパーカーとスウェット姿で裸足にクロックス。

 しかもそれすら片方しか履いてないし、ホラー映画ばりにクシャクシャに乱れた長い髪。

 高校生くらいか、たぶん未成年だよな。

 ここでへたりこむ直前にちらっと見えた幽霊のように白い顔の口元には血が滲んで、破れたパーカーの胸元からは下着があらわになっていた。

「なあ裕也、この子。暴力事件ぽいよね」

 ざっと目にしたこの女の子の様子を解釈する裕也の耳元で大志が囁いた。


 きっと大志の言う通りだろう、この有様は異常だ。

 でも彼女がこのまま何も言わず這いつくばっているんじゃ、どうにもできない。

 具合が悪ければ病院に行くなり、何かされたというのなら逃げられる前に一刻も早く相手をとっ捕まえて警察に突き出すなり、俺たちで少しは力になれることだってあるはずだ。

 こんな場所で、ただ黙って泣いて人生踏み潰されているのはやめてくれ。


 うずくまって震える女の子に向かって裕也は言った。

「あんた必死で逃げてきたんじゃないのか。具合悪いなら救急車呼ぶし、酷いことされたなら通報する。泣いてるのか。黙ってちゃわからない、何か言えよ」

 まるで詰問する口調の裕也を大志が遮った。

「ちょっと待て裕也、言い方怖いって。どうしてもっと優しく言えないの。君、気分悪いの?名前は言える?」

 裕也のやつ、いつもは落ち着いてるのに何にイラついてんだろう。

 そう訝しく思いながら女の子に声を掛けて、そばに並ぶように大志は屈んだ。


 その時ようやく女の子が顔を上げて初めて口を利いた。

「あの、……黙っててすみません。名前は江島瑠衣です。救急車は、大丈夫です。具合は悪くないです」

 小声だけど口調は思いの外しっかりしていて、泣いてる様子もなかった。

「江島さん、て言うの。話せたね、僕たちにできることない?」と大志。

「しっかりしてるな。でもあんた顔に怪我してる、病院で診てもらおう。それに何があったか警察に話さなくていいの」裕也がそう言うと、

「……警察、ですか」

 小さな白い顔いっぱいに明らかな困惑の色が拡がって江島瑠衣は口ごもった。

 裕也は改めて正面から瑠衣を見た。

 痩せて華奢で顔色は悪いけど、瞳が大きく鼻筋が通って人形みたいに綺麗な子だ。

 なのに顔を殴られてか左の頬が腫れてアザになり、唇の端には乾いた血がこびりついている。

 一瞬目が合ったが、すぐに瞳を伏せた瑠衣は自分の衣服の破れに気づいたらしく、細い指で裕也の着せかけた上着を搔き合せて胸元を隠した。

 何を迷ってるのか。

 通報をためらうって事は家族との揉め事なのだろうか。

 何れにせよ、この子を見ているとやけに気持ちがひりついて、優しい言葉も態度も俺は取れない。

 どのみち他人の俺はあまり深入りしないほうがいいのだ、そう思いながら裕也は立ち上がった。

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