第98話:密談 ―その2―
リディとアンドリューの密談は、三杯目のハーブティーが冷え切ってもなお、終わる気配さえ見いだせなかった。
アンドリューは、新国王即位に際し、恩赦としてリディを解放するつもりでいる。しかし、いくら恩赦とはいえ、賞金首にまでした危険人物を無条件で解放することはできない。プラテアードには、相応の代償を支払わせる必要があると言う。
相応の代償とは、何か。
その話し合いで揉めているのだ。
もともと、プラテアード側には殆ど分がないのだから、交渉らしい交渉になるわけがない。リディが納得できるような範囲の代償では、ジェードが国家としての体面が保てないとか、他の植民地に示しがつかないとか、国民の理解を得られないとか、そんな百も承知でいながらも理不尽な壁に苛まれ、話が進まないのだ。
――― 所詮、交渉とは名ばかりの『説得』に来たのではないのか?―――
リディはそう言いたいのを、何度も堪えた。それを口にしたら、完全に決裂することがわかっているからだ。
リディは暫く押し黙っていたが、気を取り直して、視線を戻した。
「洞窟で見つけた財宝の事ですが、」
「・・・あの出口は、再び固く閉じられている。少し前に、もう一度位置を確認しようと思って訪れたが、出口は岩壁で塞がっていた。」
「では、また入口から、やり直しですね。」
「どうする気だ?あれだけの薔薇翡翠とブルーアンバーを採掘するには、相当の労力がいる。入口から入るのは俺達二人だけ、あとの人間は出口から入れるか?その後は?どれぐらいの時間で再び出口が塞がるか、わからないんだぞ。」
「出口が開いたら、すぐに周囲の土を削って穴を空ければ、どうでしょう?あの場所は国境です、薔薇翡翠はジェードのもの、ブルーアンバーはプラテアードのもの、それは認めてくださいますね?」
「ああ、それに異論はない。」
「プラテアードの国民を、採掘に投入します。ブルーアンバーだけでなく、薔薇翡翠の採掘も請け負います。ジェードは、見張りだけで労せず財宝を手に入れられるのです。その代り、ブルーアンバーの権利すべてはプラテアードから奪わないでください。」
「・・・せめて、半分だ。」
「半分?」
「ブルーアンバーの半分は、プラテアードの財産としてジェードに納めて、納得の範囲だな。」
「ジェードの分までこちらが労力を払うと言ってるのに、それでも足りないと!?」
「そうだ。」
「植民地は・・・、戦争に負けた国は、そこまで従わなければならないのですか?」
「そうだ。」
リディは、我慢ならずに立ち上がった。
「だから・・・!!だから、独立したいんです!だから、革命を目論むんです!」
アンドリューは微動だにせず、蒼い瞳でリディを見上げた。リディの瞳に、ランプの橙色が映り込んでいる。
「ジェードがどれ程強大な力をもっているか、わかっています。でも、植民地の国民も、同じ人間です。生きる権利も、幸せになる権利もあるはずです。豊かに暮らしたい願望をもってはいけない道理もないはずです。ジェードのやり方は、生かさず殺さずのギリギリのラインで私達を苦しめて、逆らう気持ちを萎えさせるほど痛みつける。・・・でも、アンドリューが総督になって減税を試みた時、私は、ジェードのやり方に一石を投じてくれたのだと思っていた。時代の風向きが変わると期待しました。なのに・・・国王になれば、やっぱり今までとやり方は変わらないと!?」
「それは、植民地側の言い分だ。弱者の甘えだ。リディ、お前は、俺が言った事はすべて覚えていると言ったな?じゃあ、記憶にあるはずだ。独立を口にするなら、ジェードの庇護下になくても他国を敵にして戦えるだけの国力を蓄えなければならないと。」
「もちろん、覚えています。そのために、この10年、色々努力してきました。でも、国力を強化したくても、ジェードが片っ端から奪ってしまうではありませんか?」
「『奪う』という考えが、違う。それらは、当然の対価だ」
「対価?」
「ジェードの植民地である事で、他国からの侵入を逃れているのはわかっているはずだ。ジェード国王は、自国だけでなく、ジェードの植民地である多数の国を守るだけの国力を維持する責務がある。そのために必要な財源を植民地が負担するのは当然だ。」
「必要以上の負担を強いているから、反発を買うのです。正当な対価の範囲内であれば、問題にはならないはずです。」
アンドリューは、上目づかいでリディを睨みつけた。
「それが正論だとでも言いたいか?支配される国は、なぜ支配される側になったか、考えた事はあるのか?資源がないから、人口が少ないから、国土が狭いから、そんな言い訳ばかりを繰り返す!」
「すべてが、元々の条件の有利不利によるものだとは言いません。だからといって、強者が弱者を食い物にするのは、間違っていると言いたいのです!」
「支配されたくなければ、強い国づくりをしろと言っている、それだけだ。」
「植民地が強くなることを、望んでなどいないくせに!」
「・・・望むとか、そういう次元の話ではない。リディ、俺はジェードの国王としてプラテアードの首長と現実の交渉をしに来たんだ。個人的な思想や理想を語られても話にならない。」
リディは、唇を震わせて拳を握った。
アンドリューの言っていることは、ある意味正しい。思えば、リディは他国との交渉に慣れていない。今までは表舞台に出ない首長として、裏でキール達と話し合い、方針を決定していただけだ。実際の交渉はすべて、キール達幹部が行っていた。それに、今日この日まで、アンドリューは交渉相手ではなかった。アンドリューはジェード王室と一線を引き、あくまで第三者としてリディ達と接し、時に助言してきた。
だが、今は、明確に立場が違う。
リディは改めて、心に言い聞かせねばならなかった。
目の前にいるのは、敵国の国王であることを。
アンドリューの冷静な蒼い瞳を見つめながら、リディは再び椅子に腰かけた。
「プラテアードに手持ちの財産はありません。これ以上食糧を取り立てられれば、国民は生きていけません。今のプラテアードに、私と引き換えに差し出す財産はありません。・・・新たな財源は、あの洞窟の発掘でしか得られないのです。」
リディは、アンドリューの視線を真正面で捕まえた。
「ブルーアンバーの半分を、とおっしゃいましたが、3割までに抑えられませんか?」
「その2割を削減する理由は何だ?」
「理由はありません。その代わり、発掘が終了するまで、私を人質として捕えたままにしてください。」
「・・・何?」
「これ以上、プラテアードの財産は差し出せません。私に出来る事は、もはや自分の身を差し出す事しかないのです。」
アンドリューは、首を振った。
「それは、断る。」
「え?」
「はっきり言おう。俺は、リディを人質に捕る事に何の価値も見出していない。」
リディの呼吸が、止まった。
アンドリューは低い声で、言葉を繋いだ。
「伝説のアドルフォの娘は、正体がベールの奥に隠されていてこそ怖れられる存在だった。見えないものほど神と同じくカリスマ性を増していく。マリティムはだからこそ、その存在を怖れて捕える事に必死だった。総督府の一つを奪われた事でプライドを砕かれ、躍起になって追いかけた。すべては、マリティムがリディの正体を知らなかったからだ。だが、俺は、知っている。」
リディとアンドリューの視線が、まっすぐにぶつかった。
「俺は、リディを少しも怖れていない。リディがプラテアードに戻っても、二つ目の総督府を陥落することなど10年経ってもできないだろう。だが、プラテアードにとって、リディは紛れもなく首長だ。リディを待っているプラテアードへ恩を売った方が得策というものだ。」
リディの全身が、戦慄いた。
そんな風に、思われていたなんて。
価値がない ――― 自分の存在を否定されたような言葉に、喉が絞めつけられる。
反論の語彙が見つからず、リディは震える唇を噛みしめて思わず顔をそむけた。
リディの横顔が灯りに捉えられると、口端が赤黒く腫れている様子が浮き彫りになった。
アンドリューはその理由を、マチオから聞いている。少しの躊躇いを感じながらも、なお厳しい口調を緩めなかった。
「わかっているだろう?客観的に見て、今のプラテアードは何の脅威にもならない。」
「・・・。」
「理想を口にするのは勝手だ。だが、大抵の理想は自国にとってのみ都合のいい解釈に始終する。それでは、何も動かない。」
リディは胸元に当てた拳をギュッと握りなおした。
ここで、引き下がるわけにはいかない。少しでもプラテアードの利を捕らなければ。
「では、発掘には大きな機械や道具が必要です。プラテアードにはまともな器具がありません。取り分を減らしていただけないなら、せめて什器はジェードから提供していただけませんか?」
「・・・作業効率の為だ、いいだろう。」
「それから、作業中、労働者の寝食を保障してください。十分な栄養と睡眠をとらせる事で、最も高い費用対効果を得られるはずです。」
アンドリューの長い前髪の奥の瞳が鈍く光った。
「欲張りすぎだ、リディ。・・・それなら、フィゲラスをジェードに置いていってくれ。」
「え?」
「マリィティムの遺志どおり、フィゲラスをヴェルデマールの教育係にしたい。城の中でのみ暮らせば、俺の監視下における。下手な動きをすればすぐに処刑できるし、問題はない。」
リディは、強く冠を振った。
「言ったはずです、フィゲラスに軟禁生活などさせられません。」
「プラテアードにとって、かなり優位な取引だと思うが?あれだけの規模の発掘には長い年月がかかる。フィゲラス一人の身で、相当の労働者の寝食が何年も保障されるんだぞ。」
「それでも、私に忠誠を誓った者を、敵国へ売り渡す事はできません。アンドリューだって、どれ程大金を積まれても、レオンを売り渡したりしないでしょう?」
「・・・俺は、状況によってはレオンでさえも売る。」
「嘘・・・!」
「売り渡すさ。俺は人間の情など、何とも思わないからな。」
リディは、強く否定した。
「嘘です。そんなの、信じません!」
アンドリューは、話にならないと言うように、立ち上がった。
「信じる信じないは勝手だが、これが俺の本性だ。義理の姉を公開処刑することさえ、罪悪感を抱かないのだから。」
「フィリグラーナ王妃の事は、理由があっての事です。それは、あなたが人の情を何とも思わないからではありません。」
「・・・俺の言った言葉はすべて覚えているんだろう?だったら、わかるはずだ。俺は国のためなら、この世で一番嫌いな女とでも結婚できるし、親友を裏切ることもできる。こうして---」
「!!」
アンドリューは突然、胸元から小銃を取り出して腕を伸ばした。
机の向かい側に立つリディへ、まっすぐに銃口を向ける。
リディは、息を詰めた。
アンドリューの視線が、躊躇なくリディの白い額を突き刺す。
「こうして、命を救い、救われた相手さえ、撃ち抜く事ができる。」
突然、アンドリューに撃たれた時の情景が、リディの脳裏を突き抜けた。
「!」
リディの肺が、突如激しく波打つ。
肩が上がり、息が上がる。
動悸を押しとどめようと、ブラウスの胸元を握りしめた。
なぜだろう。ここで、アンドリューが撃つはずがないとわかっているのに、心臓の高鳴りが治まらない。
第一、ヒースの丘で再会した時は、たじろぎもせずアンドリューの胸に飛び込んでいったではないか。
リディは症状を誤魔化すかのように、アンドリューを睨みつけた。
「こんなことでは、何の証明にもなりませんよ。あなたの幼少期から忠誠を誓った人達を、あなたは手放す事はできない。国のためでも・・・人の心を踏みにじる事はできません。」
「まだわからないのか?俺達は、一人の人間としては生きられないんだ。すべてを国家の繁栄に捧げる運命にある。国家のためなら家臣だろうと親友だろうと親族だろうと、犠牲にする覚悟をもたねばならない!」
なんて、悲しいことを言うのだろう。
アンドリューは、まだ国王になる前から、ずっと、ずっと、こんな事を考えて生きてきたのか。
その孤独を受け止めたリディの体に、次の異変が現れた。
下肢全体に鳥肌が立ち、痺れだす。
口を大きく開けても、息が吸えない。
嫌、息を吸っても吸っても、肺に入っていかない。
苦しくて、意識が朦朧としてくる。
駄目だ。
こんなところで倒れたりしたら、交渉を放棄したことになる。
リディは自分の体に鞭打つように、片方の拳で机を力いっぱい叩いた。
「違う・・・!それは、違います・・・!」
銃口の先を再び視界に捉えたリディの耳に、今度は銃声が鳴り響いた。
聞こえるはずのない幻の音が、早鐘のようにリディの脳内を駆け巡る。
リディは思わず耳を押さえた。
何がどうなっているのか、理解できない。
足の力が抜け、とうとう、膝から崩れた。
「リディ!」
アンドリューは、リディの元へ駆け寄った。
リディは倒れたまま、隙間風の様な息で喘いでいる。
アンドリューは片足で跪き、リディの上半身を左腕の中に抱きかかえた。
「リディ、聞こえるか?」
リディは眉をきつく寄せ、苦しい顔で額に汗を浮かべている。
ただ必死に酸素を求めて、口を大きく開けるだけだ。
「深く息を吸うな。増々苦しくなる。」
しかし、苦しいからこそ必死になって息を吸おうとしてしまう。
「息は浅くするんだ。何か喋れるなら、喋った方がいい。」
「・・・。」
「え?」
「・・・フィゲ・・ス・・・っ駄目・・。」
リディはそう喋ったが、息を吐いた反動で、さらに深く息を吸おうともがき始めた。息を吸いすぎているから苦しいのだが、リディの体はそれがわからない。
アンドリューは、大きな掌でリディの口と鼻を覆った。
「っ!」
途端、リディが顔を背ける。
アンドリューの指がリディの腫れた口端を押し付けたため、痛かったのだろう。
横を向いたリディの口端から、血が滲みだす。
アンドリューは小さく息を吐くと、リディの頬を右手で支え、自分の唇でリディの口を強くふさいだ。
「!!」
リディは、息が吸えなくなったというより、驚いて息が止まった。
目を見開くが、すべてが近すぎて逆に何も見えない。
アンドリューは時間を確認するように、数秒して唇を離した。
「・・・少し楽になったか?」
リディは、別の意味で意識が遠のきそうで、返事ができなかった。
するとアンドリューは、もう一度唇をリディのそれに押し当ててきた。
リディは完全に呼吸を忘れ、ただ茫然としていた。
アンドリューは、リディの呼吸が落ち着くまで、何度も同じ行為を繰り返した。
リディは、今、夢の中にいるのではないかと思った。
どれ程願っても叶わないと諦めていた夢が、現実になっているからだ。
しかし、それは夢ではなく、また、夢見ていた甘い瞬間でもないことは、すぐに思い知る事になるのだが―――
アンドリューは、リディの症状が改善したのを確認すると、静かに言った。
「国家間の交渉がどういうものか、少しはわかったか?」
「・・・え・・?」
リディは、アンドリューの言葉の意味を確認しようと、その表情を見つめた。
「今まで首長として決定権は握っていても、交渉はキール達が行っていたのだろう?キールがお前を表舞台に出そうとしなかったのが、よくわかる。リディには、君主としての覚悟が足りない。」
アンドリューは、闇から闇へ葬られる人生から、一気に表舞台へと立つことになった。きっと、青天の霹靂だったに違いない。マリティムの死後、それこそ何もかも初めての実践で、かつ失敗の許されない決断ばかりを迫られているのではないか。この僅かな期間で多くの事を学び、気付き、脇目も振らず進み続けているのだろう。だからこそ、リディの甘さを窘めずにはいられなかったのかもしれない。
アンドリューはゆっくりと立ち上がると、リディに背を向けて懐中時計の時間を確認した。
「リディ。今日はもう時間がない。取り分の話は、実際に財宝の量を確認してから改めよう。あの洞窟には水晶も眠っている。その配分も考えねばなるまい。」
リディはアンドリューに続いて立ち上がったが、まだ太腿に力が入らず、よろめいてしまった。
倒れ掛かったリディの体を、思わずアンドリューが支えた。
図らずもアンドリューに抱きしめられるような形になり、リディは頭の中が真っ白になった。
「ごめんなさい。」
腕を差し込んで身体を離そうとすると、思いがけずアンドリューの指がリディの顎をつかんだ。
ドキリとして、何事かと、眼を見開いてしまう。
アンドリューの親指が、そっとリディの口端を擦った。
「血が出ている。後で、フィゲラスに手当してもらえ。」
「・・・。」
「・・・荒くれ隊長に殴られたって?」
「あ・・、ええ。」
「ああいう輩は少なくない。いちいち抵抗していては、身がもたないぞ。」
「・・・。」
アンドリューと、こんなに間近で見つめあったことがあっただろうか。
リディは元来、他人と視線を合わせることが苦手だ。だが、アンドリューだけは最初から視線を交わす事に抵抗がなかった。
とはいえ、こんな状況では平然としていられない。
恋人同士なら、次の流れは決まっているような体制で、でもそうではない自分達はどうすればいいのか。
戸惑いの色を隠せないリディに、アンドリューは言った。
「俺が今日お前に伝えた言葉は、すべてジェード国の言葉だ。リディも、これから発する言葉はプラテアードの言葉と自覚しなければならない。」
リディは、アンドリューの厳しい言葉が、アンドリュー自身の考えや思いでなく、ジェード国民が抱く現実的な感情であることを理解した。
アンドリューは、本当はここへ交渉に来たというより、互いの立場をリディに自覚させるために来たのではないか――― 。
リディは、しっかりと頷いた。
その紅茶色の瞳に、金色の光が宿る。
アンドリューは僅かに目を細めると、リディの後頭部に手を回し、自分の肩先に押し付けた。
「強くなれ。国家のためなら、いかなる犠牲も躊躇ってはいけない。その妨げになるなら、情や優しさなど、湖の底へ沈めてしまうがいい ――― 。」
思わず瞼を閉じると、自然と涙が零れた。
――― ずるいよ ―――
アンドリューがどういうつもりかわからないが、こんな事をされたら、断ち切るべき思いも、断ち切れないではないか。想いがないなら、思い切り突き放してくれれば諦めもつくというのに。
アンドリューはリディから離れると、振り向きもせず部屋を出た。
扉の閉じる音は、心の扉を閉ざす音に聞こえる。
だが、今だけは甘い余韻に涙を溶かしていたい。
一緒にいるだけで何もいらないと思えるような存在は、後にも先にもアンドリュー以外ありえない。
唯一無二の存在。
異なる国に生まれようと、宿敵だろうと、決して許されない相手だろうとも―――