第97話:密談 ―その1―
深夜0時。
ヴェルデの街は、通りに面した街灯の灯りが、ポツ、ポツと浮かぶだけで、静まり返っている。
ベッドの中でぐっすりと眠っていたマチオは、階段の足音で目を覚ました。
上体を起こし、ランプに灯りをつける。
怪我をした左の太腿を引きずるようにして立ち上がろうとした時、部屋の扉が開いた。
「・・・アンドリュー様・・・!」
秘密の地下通路から建物の中に入ったアンドリューは、頭を覆っていた黒いフードを脱いだ。
プラチナブロンドの長い前髪を手で掃いながら、マチオの足に目をやる。
「その足、どうした?」
「・・・お恥ずかしい話ですが、王宮に忍び込もうとしたところを番兵に撃たれました。なに、フィゲラスさんに診てもらっとりますんで。」
「そうか。・・・リディは?」
「アンドリュー様のお言いつけ通り、4階の右の部屋に、ヴェルデマールと暮らしとります。」
「ヴェルデマール?」
「マリティム様の御子の事です。名前がわからなかったので、リディ様が仮につけられました。」
アンドリューは、ベッド脇の椅子に腰かけた。
「外で見張っている軍人がいるが、あれは何だ?」
「それが、――― 。」
マチオは、これまでの経緯を手短に説明した。アンドリューは、リディの顔が隊長に覚えられた事を耳にすると、思わず眉を顰めた。一通り聞き終わると、アンドリューは身をのりだした。
「奴らの事は、俺が何とかする。今日ここへ来た理由の一つは、エンバハダハウス時代の仲間を招集してもらうためだ。だが、マチオのその足では、自由はきかなそうだな。」
「それでしたら、ジャックがおります。ジャックは怪我をした私を助けて以来、毎日未明に、様子を見に来てくれとります。」
「では、ジャックが来たら伝えてくれ。朝6時までに、集められるだけ集めてデレチャ橋の下へ来るように、と。あと、今朝の招集に間に合わなかった者は、俺の次の指示があるまで、この薬局で待機させておいてくれ。」
マチオは、この「招集」が何を意味するのか、以前から聞かされていた。だから、アンドリューが決定的な事実を口にしなくても、すべて悟らなければならなかった。
アンドリューは立ち上がった。
「赤ん坊は、リディになついているのか?」
「はい。・・・初めは敵国の王女にジェードの大事な王子を預けるなど不安でしたが、リディ様は本当にヴェルデマールを愛しんでくださって・・・。」
アンドリューは、マチオの言葉に返事をせず、背中を向けた。
「俺はリディに話がある。赤ん坊とフィゲラスをここへ来させるから、朝まで一緒に過ごしてくれ。」
リディは、階下の振動で目を覚ましていた。
息を殺して有事に備えていたが、リディの部屋をノックしたのはフィゲラスだった。
「リディ様、起きてらっしゃいますか?」
リディは、慎重に扉を開けた。
「深夜に申し訳ありません。ヴェルデマールをお預かりします。」
「なぜ?」
その答えは、フィゲラスの背後から現れたアンドリューが示していた。
突然の来訪に、リディは息がとまりそうだった。
フィゲラスは眠っているヴェルデマールをそっと抱き、アンドリューと視線を交わすと、早々に部屋を出て行った。
リディは、何をどう切り出していいか、わからなかった。
まさか今夜、アンドリューが来るなんて。
この深刻な夜に、リディは自分の髪が乱れていないかとか、スカート姿を笑われないかとか、そんな心配に心を奪われている自分を、浅ましいと思った。
リディが落ち着かずに視線を泳がせていると、アンドリューは部屋の鍵を閉め、持っていたランプをテーブルに置いて、椅子に座った。その様子がとても疲れている様に見えて、リディはポットに残っていた湯でシナモンの粉と樹蜜を溶き、ブランデーを一滴落して、アンドリューに差し出した。
アンドリューはテーブルに腕をついて、差し出されたカップに口をつけた。
リディは黙って向かい側に座り、アンドリューの伏せがちな瞼を見つめた。
やつれた顔、というのは、こういうのを言うのだろう。表情に力がない。
リディが何をどう切り出していいか言葉につまっていると、アンドリューが一言
「・・・マリティムが死んだ。」
そう、言った。
リディは机の上で握った拳に力を込めた。
「それは、フィリシアが襲われた事と関係がありますか?」
「フィリシアを殺したのは王妃の隠密ジェリオだ。ジェリオは俺が追い詰めて、自害した。マリティムは、王妃自らの手で殺された。」
リディの脳裏で、王妃の美しい赤い唇の記憶が砕けた。
「それで・・・王妃は、今?」
「城の奥に軟禁している。あの女は狂っている。マリティムが死んだ後は、俺と一緒にジェードを率いる気でいるんだからな。」
リディは、フィリグラーナがアンドリューに気があったことを知っている。
「どうするつもりですか?」
「近い将来、ヴェルデの広場で公開処刑だ。」
「その後、アンドリューは即位・・するのですね。」
「そうだ。だが、その前にもう一つ、決めておきたいことがある。」
ずっと俯いていたアンドリューが、顔をあげた。
「プラテアード王女が、表向きジェードに人質にとられているという事実をどうするか、だ。」
リディは、アンドリューの瞳を真っ直ぐに見返した。
「・・・ジェードとしては、偽物を掴まされていたなんて、示しがつかないでしょう?」
「そのとおりだ。だが、今のプラテアードは、真実を暴露してジェードに喧嘩を売る様な真似もできないはずだ。」
「真実を知るもう一つの国―――、アンテケルエラの出方も気になります。」
「今の国王は戦いを好まず融和的だが、最近、あまり体調が良くないと聞いている。近い将来、エストレイが実権を握れば、本気でリディを獲りに来るだろう。」
リディが眉間に皺を寄せたのに、アンドリューは眉一つ動かさない。
それは、当然のこと・・・なのに。
リディは奥歯をギュッと噛んで、話を進めた。
「ヴェルデマールはどうするのです?まさか、拉致したプラテアード王女の子だとは公表できないでしょう?」
「・・・赤ん坊に仮の名前をつけたんだって?」
「名前がないのは不便だったんです。でも、瞳の色を意味しているから、不自然じゃないと思って。」
「赤ん坊は神使の洗礼前で、未だ名前がないのは確かだ。とりあえず構わない、俺もヴェルデマールと呼ぼう。・・・ヴェルデマールの処遇は、ずっと悩んでいる。それに、他の幼い子供たちに、両親を同時に失っただけでなく、母が父を殺したなどと知らせたくない。だが、王宮にいれば嫌でも知ってしまう。人殺しの母の血をひいていると、冷たい目で見られるかもしれない。」
「では、ヴェルデマールはフィリグラーナ妃の子ではないと、公表しますか。」
「ヴェルデマールだけは、紋章を持つ正統な跡継ぎだからな。白い目で見られるわけにはいかない。ただ、迷っている。マリティムが愛妾との間に設けた子とするか、いっそ、俺の子としてしまうか―――。」
リディは、息も言葉も詰まった。
アンドリューが父親だというなら、母親は誰だと言うのか?
未婚で子供だけいるなんて状況を、国家が認めるのか?
母親の血筋が不明なままなど、許されるのか?
それとも、「母親」の女性を早々に仕立て上げるのか?
――― 訊けない。
答えも、聞きたくない。
結婚の予定があるなど言われたら、全身から血が噴き出す程の苦しみに襲われる。
視線を落したリディの思いを知ってか知らずか、アンドリューは続けた。
「赤ん坊は、ジェードの紋章を戴く以上、ジェードの跡継ぎだ。しかし、敵であるプラテアードの血が半分流れているとなると、ジェード国民に不審を抱かせることも否めない。」
「プラテアード側にとっては、プラテアードの血が半分流れているのだから、便宜を計れと主張する材料になります。」
「そうだ。どちらにせよ、国家運営の舵取りの障害になるだろう。できることなら、真実は封印したい。しかし、真実とはいつか明白になるものだ。・・・リディの本当の親が暴かれたように。」
リディは、アンドリューから真実を告げられた夜を思い出した。
同じような思いを、他人にさせたいとは思わない。
「ヴェルデマール本人はともかく、世間体を欺くにしても、あまり現実離れしていない方が、万一真実が明るみに出た時でも、騙された感は少なくて済むのではありませんか?」
「・・・確かに。やはり、マリティムがジェード人の愛妾との間にもうけた子で通すか。愛妾は、嫉妬に狂った王妃に殺されたということにすれば、ほぼ真実だ。」
「そうですね。実際殺されているのですから、素性の追及にも限界があるでしょうし。」
リディは、安堵した。
とりあえず、アンドリューが世間を誤魔化すために結婚するということは無さそうだ。
「それで、リディは?プラテアードに戻る決心はついたか?」
アンドリューは、リディに『ジェードに残れ』とは、絶対言わない。リディの使命は、アンドリューの中では決して揺らがない。それに、プラテアード人のリディに、ジェードでの居場所はない。
「戻ります。アドルフォ城には入れなくても、プラテアードの独立には何らかの形で携われますから。」
「馬鹿を言うな。プラテアード王家の血筋を何だと思っている?キールやソフィアがどんなに頑張っても、お前の名声には絶対敵わない。そんなこと、二人だって百も承知だ。リディは首長の座を降ろされたと言っているが、そんな事実はどこにも公表されていない。今でも首長は、ジェードに拉致された『アドルフォの娘』『プラテアード王女』なんだ。」
リディは、意を決したように顎を引いた。
「では、国を追われて今は『何者』でもない私ですが、取引の交渉に応じてもらえますか?」
アンドリューの蒼い瞳が、深く、リディの顔を捉えた。
「――― 俺は、そのためにここへ来た。国家の正念場で、ただの女に会いになど来ない。」
その頃。
階下のマチオの部屋では、フィゲラスがヴェルデマールを寝かせた揺り籠を片手で揺らしながら、上の様子が気になって仕方ないように、30秒に1度は天井を見上げていた。揺りかごを揺らす手の動きがゆっくりだったり早くなったりして、マチオはヴェルデマールが泣き出すのではと、気が気ではなかった。
「・・フィゲラス殿、籠を揺らすのは、もう結構ですよ。」
フィゲラスは、ハッとしたように手を離して、今度は手持無沙汰で10秒に1度は天井を見上げはじめた。
ベッドで上半身だけ起きているマチオは、ため息交じりに諌めた。
「リディ様の事が、気になりますか?」
「・・・」
「王族同士の話は、庶民が決して耳にしてはならんことです。」
「わかっています。私は、ただ・・・。」
そこへ、小さいノックの音が聞こえた。
無遠慮に入って来たのは、ジャックだった。
ジャックは、マチオ一人でなかったことに、多少驚いたようだった。が、「ジャック、火急の用件が。」と声をかけられると、すぐにマチオの脇に跪いた。
「アンドリュー様の御命令だ。すぐに仲間を集めて、朝6時、デレチャ橋の下に行っとくれ。」
ジャックは、グッと下唇を噛んだ。
エンバハダハウス時代の仲間を再結集する日が、本当に来るとは。
それは、アンドリューが即位する時に限ると、言われていたのに。
「わかった。すぐ動く。」
ジャックはマチオとフィゲラスに一礼して、足音一つ立てずに立ち去った。
フィゲラスは、アンドリューの采配を待っている身だった。
リディを、プラテアードに戻すのか。
フィゲラスを、本当にヴェルデマールの教育係にする気なのか。
ヴェルデマールを田舎にやるのか、それとも王宮に引き取るのか。
いずれにしても、マチオとフィゲラスに共通しているのは、主人の命令が下れば、すぐに動く心の準備をしておくこと。
今はただ、その時を、固唾を呑んで待つだけ。