第96話:ジェードの薔薇
国境の閉鎖を命じたのはアンドリューだった。
マリティム亡き今、アランが影武者でこなせる公務には限界がある。謁見や晩餐会、舞踏会の類はすべて中止にせざるを得ない。当然、王室に何かあったことは、すぐ明白になる。この隙を他国から突かれる事は、絶対に防がなければならなかった。
何せ、王妃が国王を殺したなどというスキャンダラスな真実を、簡単に公言することはできない。二週間経った今でも、本当の事を把握しているのは、ほんの一握りの人間に過ぎなかった。
アンドリューは「そのタイミング」を、息を凝らして見定めている最中だ。
もう、限界が近い事はわかっている。
アンドリューは、その夜、意を決して、ハロルド伯爵(爺や)と共に執務室を出た。
まず訪れたのは、フィリグラーナを監禁している部屋だ。
この二週間、四六時中監視をしているのはレオン一人だった。せめて誰か一人交替できる体制がとれればよかったが、その役割を担える人材がいない。秘密を守れるかどうかだけでなく、フィリグラーナが自殺しようとしたり逃げようとしたりすれば、それを止めるだけの腕力がいる。アンドリューの存在が公になっていない以上、ハロルド伯爵には、アンドリューの代わりに王宮を飛び回ってもらう必要があったし、アランには腕力を求められない上、「マリティムは生きている」と思わせるための最低限の執務をこなしてもらうので手一杯。ヴェルデに散っているエンバハダハウス時代の仲間に援助を頼みたかったが、王宮の外と連絡をとりあう手段がレオンであったため、叶わなかった。
人気のない、蜘蛛の巣が天井から垂れ下がる埃臭さを、久しぶりに味わう。
レオンには、本当に申し訳ないと思う。
ハロルド伯爵が鍵を開けると、アンドリューは中に入った。
レオンはアンドリューを見ると、やつれた頬で頷いた。
アンドリューは、ハロルド伯爵に「レオンを外へ。少し休ませてやってくれ。」と言い、フィリグラーナと二人きりになった。
窓の無い暗闇の中、ランタンの灯りに照らされたフィリグラーナは、舌を噛んで自殺しないよう、猿轡をかまされている。両腕と両足は、椅子にくくりつけられたままだ。夜は、そのまま床に転がして寝かせ、朝になるとまた、起こす。牢屋以下の扱い。だが、国王殺しの罪は重い。
フィリグラーナは、老女のように乱れた髪に蒼い顔で項垂れていたが、アンドリューを見るなり、何か言いたげに呻いた。すべての体力を失ったような身体で、しかし、眼だけは異様に爛々と輝いていた。
アンドリューは、フィリグラーナの猿轡をはずしてやった。
「言いたい事があれば、言え。一度だけ聞いてやる。」
フィリグラーナは少し咳込んだ後、こわばった口を動かしづらそうにしながらも、かすれた声で話した。
「アンドリュー、あなたが来てくれるのを、待っていました。」
「なに?」
「陛下は、私との間に紋章付の跡継ぎをもうけることができなかった、だから、無用の存在なのです。もう、必要のない命だったのです。これからはアンドリューが国王になり、私が王妃として君臨すれば、今度こそ正統な跡継ぎが産まれるはずです!」
アンドリューは、片方の眉を吊り上げた。
「正気で言っているのか?」
「当然です。私はアンドリューを国王にするために、陛下を亡き者にしたのです!」
フィリグラーナは、身を乗り出した。
「あのあばずれ女も、その子供も、今頃地獄で喘いでいることでしょう。邪魔者はいなくなりました。さあ、私と一緒に、ジェードの未来をつくりあげましょう!」
ジェリオが自害したことや、フィリシアの産んだ子は生きている事を暴いてやったら、フィリグラーナはどんな顔をするだろう?
マリティムを殺した怒りを、どうやってぶつけてやろうと考えていたが、アンドリューはふと、口を噤んだ。
どちらにせよ、フィリグラーナの未来は決まっている。
国王殺しの罪を償う方法は、一つしかないのだ。
アンドリューは、力を落して言った。
「なるほど。そういう未来も考えられるのだな。」
フィリグラーナは、口端に不敵な笑みを浮かべた。
「そうですとも!ジェードの繁栄が、私達を待っています!」
哀れな女と蔑みたいところだが、アンドリューの思いは、もっと深いところにあった。
「色々と準備をしなければならない。すべて整うまで、この部屋で大人しく待っていてくれるか。」
「もちろんですとも、私の愛しいアンドリュー。」
「―――また、来る。」
アンドリューは部屋を出ると、廊下に座り込んで休んでいるレオンに声をかけた。
「相当疲れているようだな。」
「・・・なに、適当に寝ているし、食事も十分だ。アンドリューこそ、寝不足が顔に出ている。」
アンドリューは苦笑した。
「あと少しの辛抱だ。間もなく、すべてが動き出す。今、フィリグラーナと話をしてきた。猿轡は外したままだ。自害のおそれは、ないと思う。」
「大丈夫なのか?」
「あの女は、俺とこの国を継ぐ気でいる。暴れて発狂されても困るからな、否定しないでおいた。」
「いいのか?そんなこと、ありえないだろう。」
「当然だ。・・・レオン。俺は、マリティムを殺したフィリグラーナに、最も残酷な最期を用意している。そのためには、あの女が健全な心身でいる方が望ましい。後で、手足を自由にしてよい。部屋から出さなければ、普通の生活をさせてやれ。・・・どうせ、一月もない命だ。」
アンドリューの冷たい声に、レオンはその決意を呑みこんだ。
アンドリューが次に向かったのは、母のところだった。
父が亡くなって以来、表舞台から完全に身をひいた暮らしをしている母。
アンドリューは産まれてこのかた、その姿を遠目にしか拝んだことがない。
しかし、マリティムが死んだ事は、せめて自分の口で伝えたかった。そして、今後の王位継承についても。
まず、ハロルド伯爵が部屋に入り、召使達を部屋から下がらせた。
そして、
「どうぞ。アルティス様がお待ちです。」
「伯爵は廊下で待っていてくれ。そう長くはかからない。」
母は、寝る準備が整ったところだった。
大きな天蓋つきベッドのベールの奥に、白い寝間着を纏い、上半身だけ起きている女性が透けて見えた。
アンドリューは、母の顔をまともに見る事ができず、俯いたまま、跪いた。
「アンドリュー・プリフィカシオンです。」
母は、何も答えない。
アンドリューは、床の組木細工を凝視しながら、構わず続けた。
「どうしても、私の口からお伝えしたい事があり、ハロルド伯爵に取り次ぎを願いました。」
「・・・お前は、誰の許しを得て王宮に出入りしてるんだい?」
「申し訳ございません。国家の存続に関わる事ゆえ、お許しください。」
「国家の存続?」
「国王陛下が・・・マリティムが、フィリグラーナ王妃に殺害されました。」
「!な・・・!」
「陛下は、人質にとったプラテアード王女との間に、ジェードの紋章を戴いた王子を設けました。王妃は、自分が紋章付の子を設けられなかったことや、陛下の愛情がプラテアード王女に注がれたことに嫉妬し、精神を病んでいたこともあり、」
「黙れ!!」
母、アルティスは、ベッドから出ると、ベールを乱暴に剥いだ。
「嘘をつくな!マリティムが・・・あのマリティムが、殺されたなどと!お前がジェードを乗っ取るために仕組んだ嘘に決まっている!」
アンドリューは、視界に入った薔薇翡翠が縫いつけられた部屋履きを凝視しながら続けた。
「葬儀を執り行う必要がございます。その後、フィリグラーナ王妃を公開処刑したいと考えております。プリメールとの同盟は破棄、そして―――」
「して、何だ?次は、お前が即位するとでも、言いたいのか。」
「・・・。」
「ふざけるな!」
アルティスは、ベッド脇のガラスランプを掴み、アンドリューの背中に向かって投げつけた。
砕けたガラス片の幾つかが、アンドリューの首や手に刺さった。
それでも尚、アンドリューは母の顔を見る事はできなかった。いや、もはや、見たくなかった。どれ程鬼の形相をしているか、想像に難くないからだ。
アルティスは、叫んだ。
「マリティムを殺したのはお前だろう!お前が王位欲しさにフィリグラーナを唆してマリティムを殺させたんだ!・・・恐ろしい、だから紋章付の子など二人も産んではいけなかった!呪われた子・・・、お前こそ、先に死ねばよかった!軍人にしたのに、一度は死んだという噂を聞いたのに、しぶとく生き残っているとは!!」
「アルティス様!」
ドアの向こうで、部屋の中の異常な物音を聞きつけたハロルド伯爵は、堪らず部屋の中へ入った。
そこには、跪いたまま固まっているアンドリューに、手当たり次第、物を投げつけているアルティスの姿があった。アンドリューと同じプラチナブロンドの長い髪を振り乱して、喚き散らしている。
ハロルド伯爵は、アルティスの両腕を掴んだ。
「おやめください、アルティス様!」
「はなせ、ハロルド!」
「アンドリュー様は、大切なお身体なのです。今となっては、アンドリュー様しかいらっしゃらないのです!」
「ハロルドは知っていたのか?この者が、私のマリティムを殺したのを!!」
「違います、陛下を殺したのは、王妃様です!アンドリュー様は、何も知らないところで悲劇は起こったのです!陛下の事で責められるべきは、このハロルドでございます。罰せられるべきは、陛下をお守りできなかった、私めでございます!」
「違う!違う!!この者が、いけないのだ!やはり呪われた子だったのだ、生かしておいてはいけなかったのだ!!」
アルティスは、そう言って泣き崩れた。
ハロルドは、アルティスの身体を支えてベッドへ戻そうとした。アルティスは、尚も、ハロルドの身体を叩き続けていた。
アンドリューは、立ち上がった。
「・・・廊下で待っている。」
そう言い残し、部屋の扉を閉じた時、アンドリューの瞳が揺らいだ。が、思わず天を仰ぎ、唇を噛んで、耐えた。
アンドリューが思っていた以上に、母は、母でなかった。
これほどまでに、疎まれていたとは。
今宵、アンドリューは二人の王妃に接見した。
ジェードの王妃は、代々、国民から親しみを込めて「ジェードの薔薇」と呼ばれる。「薔薇」の愛称に恥じない、選りすぐりの美女がジェード国王に嫁ぐのが、習わしの様になっていた。
だが、一人は紋章付の王子を二人も産んだ事を呪い、もう一人は紋章付の子を一人も産めない事を呪った。
あれほど気高く、美しく、世の幸せを独り占めしているかのように見えた2輪の薔薇は、ジェードという国家に潰された。
しかし、そのことが何の免罪符にもならないということを、アンドリューは今一度、自分に言い聞かせた。