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第95話:滲む思い

 マチオが家を出てから、5日目の朝を迎えた。

 リディが起きる前に、台所に立ったフィゲラスは、食糧が限界にきていることに項垂れた。食事を作っているリディは何も言わなかったが、日に日に量が少なくなっていることは明らかだった。とうとう昨晩、リディは保管してあった紙袋の中の肉桂のシナモンをすり潰し、湯に溶かして飲むだけで終わった。

 フィゲラスの心の奥に仕舞っておいたマチオへの疑いが、再び首をもたげる。

(マチオさんは、この状況を狙っていたのか―――?)

 だが、リディやフィゲラスはともかく、ヴェルデマールに害が及ぶようなことをするとは思えない。

 そこへ、リディがヴェルデマールを抱いて降りてきた。

 リディは、フィゲラスが台所で何をしていたか、聞くまでもないと思った。

 二人は、お金をまったく持っていない。店の金庫にお金があることは知っているが、例え金庫の暗証番号を知っていても、人の金に手はつけられない。ヴェルデマールの絹のティアラに縫い付けられた無数の小さな宝石なら換金できるが、これはヴェルデマールの財産であって、リディ達のものではない。

 フィゲラスは、木箱の底にへばりつく程度のライ麦を見つめて、覚悟を決めた。

「医療道具を売りましょう。それで当面は食いつなげます。」

「駄目だ。フィゲラスが、今まで決して手放さなかった大切なものを、売ってはならない。」

「しかし、間もなく限界は来ます。」

「あと1日。あと1日待とう。それで駄目なら、次の手を考える。」

 窓の外を伺えば、昼夜関係なしに軍人が見張っている。疑いが晴れたわけではないのだ。

 リディは、不安になるといつの間にかヴェルデマールを強く抱きしめるようになっていた。だが、リディ自身はそんな自分に気付いていなかった。


 その日の夜中だった。

 4階の自室で眠っていたリディは、階下の僅かな振動で目を覚ました。

 リディは、どんなに小さな音や気配でも、俊敏に感じ取るための訓練を受けている。

 ヴェルデマールがよく眠っているのを確認して、リディはそっと部屋を出た。

 素足のまま、音をたてないように、慎重に階段を下る。

 階下の物音は、聞こえなくなった。

 だが、確かに。

 確かに、人の気配がある。

 マチオが帰ってきたのだろうか?

 1階まで辿り着いた時。

 リディは真っ暗な廊下に、人影を見た。

 正体はわからないが、廊下にかがみこんでいるようだ。

 リディは腰の銃を手に取ると、一気に廊下に躍り出た。

 「誰だ!?」

 引き金にかけた指が、強張っている。

 すると、

「・・・リディ?」

 聞き覚えのない声だ。

 リディは正体を確認するため、慎重に階段脇のスイッチを指ではじいた。首都中心部に建つこの館は、1階だけ電気が通っている。

 パッと明るくなった視界の中で、声の主の男が両手をあげて立っていた。

 緊張のリディとは対照的に、男は笑顔を見せた。

「やっぱりリディか。本当に女だったんだなぁ。」

「?」

「まあ、覚えてねぇだろうなぁ。俺はエンバハダハウスの2階に住んでいた、道化師のジャックだよ。よく中庭で芸を見せてやったろう?」

 確かに、ジャックはいた。覚えている。しかし、今や頭頂部が禿げて、腹部が前につきでた中年男に、かつてのスリムな面影がない。リディの戸惑いの表情に、ジャックは苦笑した。

「参ったなぁ。・・まあ、いいや。今はそれどころじゃないからな。」

 ジャックは、背負っていたマチオの身体を、廊下に降ろした。

 マチオは苦悶の表情で、口もきけない状態だった。

 リディは驚いて、駆け寄った。

「いったい、どういうことです?」

「マチオ爺さんは無理をし過ぎてな。王宮に潜入しようとしたところを、銃で撃たれた。自宅に戻れば医者がいるって言うから、連れてきたんだ。」

 左足に巻きつけた布に、どす黒い血が滲んでいる。

 リディは、ジャックを見つめて言った。

「2階の右手がマチオさんの部屋です。そこへ運んでください。」

「わかった。」


 フィゲラスが治療をしている傍らで、リディはジャックの話をじっと聞いていた。

 マチオは、ジャックをはじめ、かつてのエンバハダハウスの住人の間を走り回り、情報を集めていた。しかし、どうしてもアンドリューの行方がつかめない。マチオは最後の頼みの綱である、王宮にいるであろうレオンとの接触を試みた。―――が、王宮の見張りに怪しまれ、逃げ出そうとしたところ、足を撃たれたという。

「マチオ爺さんの必死さが危険に思えてね。こっそり後をつけてたら、案の条さ―――。」

「この館へは、どうやって?鍵が開く音は聞こえませんでしたけど。」

「表から入ろうとしたら、軍がしっかり見張ってるじゃないか。・・・この館には、エンバハダハウスの頃から引き継がれた地下の隠し通路がある。それにしても、軍からここまで怪しまれているなんて、異常だよ。」

 マチオは、フィゲラスの処方した薬で眠りについた。

「弾は貫通していましたが、骨を砕いてます。しばらくは車椅子が必要ですが、元通りになるでしょう。」

 ジャックは安堵の息を吐き、フィゲラスの手を握った。

「ありがとう。あんたがいてくれて、本当に良かった。」

 リディは、ジャックを階下へ見送りながら聞いた。

「アンドリューの行方は、本当にわからないのですか?」

「・・・わからないから、こんなことになったんだ。レオンとは定期的に街で会って情報を交換し合うんだが、しばらく途絶えてる。」

「アランは、どうしてるか知っていますか?」

「アランも王宮だよ。・・・アンドリューの運命も、アランの運命も、リディは知ってるんだろう?」

「・・・ええ。」

「エンバハダハウスにいた連中にとって、アンドリューは守るべき存在だったが、それ以上に親友とか家族に近い存在だった。でも、今は覚悟をしているよ。二度と話しかけられない程、遠い存在になってしまうことを。」

 リディは、下唇を噛みしめた。

 階段を降り切ったところで、ジャックは廊下の灯りを消した。

 暗闇の中で、ジャックの囁きだけが聞こえた。

「マチオ爺さんのこと、頼む。あと、爺さんが立てなくても店は開けた方がいい。余計な疑いをかけられないようにな。」

 リディの目が暗闇に慣れないうちに、扉が開いて閉まる音だけがして、次に灯りをつけた時には、1階の廊下はまるで何事もなかったかのように静まり返っていた。

 

 フィゲラスは、一晩中、寝ずにマチオを看病した。

 朝、リディがジャックに言われた「店を開けろ。」という話をすると、フィゲラスは首を振った。

「車椅子で店に出たら、怪我をしていることがすぐばれます。その情報を軍が掴めば、マチオさんが危険な目に遭います。」

 そこへ口を挿んだのは、マチオだった。

「ジャックの言うことは最もです。誰がくだらんデマを飛ばしたかわからんが、疑いは晴らさないと。」

「しかし、」

「心配は無用です。小さな店の中くらい、歩き回れます。」

「とんでもない!」

 フィゲラスは、身を乗り出して反対した。

「足を床に着くことさえ、無茶なのに!」

 すると、マチオは小さな瞳に厳しい光を宿した。

「私は、退役軍人です。しかも、いくつもの戦火を潜り抜けてきた。戦いの渦中では、このくらいの怪我、手当したらすぐ戦いに戻るのが当たり前です。歳をくったとはいえ、見くびらんでください。」

 リディが不安そうな表情を浮かべると、マチオは首を振った。

「そんな顔をしてはなりません。私は、敵なんですから。」

「敵・・・。」

 リディがそう口にすると、マチオは上半身を起こした。

「支度をします。・・・フィゲラスさん、外見からはわからないように傷口をしばってください。」

 マチオを止めることなど、フィゲラスにもリディにもできない。

 マチオには、マチオの意地がある。

 リディはヴェルデマールを背負って、朝食を作るために台所に立った。

 残った麦を一粒残らずかき集めて、何とか一人分の粥を作った。

 今朝は、マチオ一人とヴェルデマールだけ満たされればいい。

 

 薬局を開店すると、早速、常連がひっきりなしに訪れた。

「臨時休業なんて、どうしたんだね?」

「定期的に与える薬がきれて、困っていたんだ。」

 棚から薬瓶を取り出したり、客を見送ったりと、動く必要がある事はすべてフィゲラスが行い、マチオはカウンターに立って薬を渡すだけ、という状態にした。また、人目に付かない部分で杖を使う事で、だいぶ負担は軽減できる。

 マチオは休業していた理由を「手に入りにくい薬の調達に出ていて、思ったより手間取った」と説明した。客がそれ以上追及することはなく、無事に昼休みを迎える事ができた。

 フィゲラスは、入り口の鍵を閉めると、マチオを長椅子で休ませた。

 マチオは、用意しておいた財布をフィゲラスに渡した。

「食糧が尽きているのでしょう。申し訳なかった。3ブロック先に、店があります。そこで必要な物を買ってきてください。表にいる軍隊とは目を合わせないように。」

 フィゲラスが薬局を出ると、マチオは再びすぐに鍵をかけた。

 マチオはフィゲラスから、この館が軍隊に荒らされたことを簡潔に伝えられていた。通りに面した部分の被害は少ないが、それ以外の壁や床の穴は、塞ぎきれていない。

 と、その時。

 店のガラス扉が、乱暴に叩かれた。

 4階で表の様子を窺っていたリディは、ヴェルデマールの様子を確認すると、すぐに階下へ降りた。

 マチオはリディの姿を見ると、「ここは私が対応します。リディ様は、上へ。」と囁いた。

「いいえ。私の存在は、既に認知されています。どのみち逃げられません。」

 リディは、できるだけマチオを歩かせてはならないと思った。それには、自分が出て行くしかない。フィゲラスの帰りを待ったからといって、事態は変わらない。それに、今回は敵の人数が少ない。影からして―――、3人。

 リディは、扉を開けた。

 そこには、二人の兵士が立ち、その奥に先日の隊長がいた。

「・・・休憩中は、御遠慮願いたいのですが?」

 隊長の分厚い胸板が、リディの目の前を塞いだ。

「店主に、会いたい。」

「叔父は、昨夜戻りました。御心配には及びません。」

「我々は24時間入口を見張っていたが、店主が戻った形跡は認められなかった。」

「それは、残念でしたわね。夜もふければ、軍人も目が霞む時間があるのではありませんか?」

――― やめなさい、ルフィ。―――

 マチオは、リディの後ろに立った。

 杖は、ついていない。

 隊長は、マチオを見下ろした。

「これは、店主。御無事なようで。」

「要らぬ心配をおかけしたようですな。甥夫婦から話を聞いて、驚いとります。」

「休業中、どちらへ?」

「地方へ遠出して、薬草を採取しとりました。思ったより手間取りましてね。・・・もう、よろしいでしょう。休憩をとらせてください。」

 強引に扉を閉めようとしたマチオの腕を、隊長が掴んだ。

「その前に!」

 リディは、思わず息を呑んだ。

「実は昨晩、王宮に忍び込もうとした輩がおりまして、街中捜索しているのです。協力していただけませんか?」

「・・・協力?」

「足を見せていただきたいのです。」

 マチオは眉一つ動かさず、隊長を凝視した。

「足、ですと?」

「そうです。銃弾が当たったはずなので、それがマチオ殿ではないと、陛下へ報告したいのです。」

 リディは、声をあげた。

「王室御用達の薬局の店主を疑うとは、どういう領分ですか?叔父が王宮へ忍び込む理由など、あるわけないではありませんか?」

「こちらの店主だけでなく、昨夜の所在が明らかでない者すべてを当たっております。拒否すれば、犯人だと白状しているのと同じこと。」

 マチオは、リディの肩を叩いた。

「隊長殿にも任務があるのでしょう。」

 マチオは、立ったまま、片足のズボンを膝までめくった。

 黒い長靴下で皮膚は見えない。が、それは撃たれた方ではない。

「・・・もう片方もだ。」

 リディは、冷静さを保つよう必死に努めた。息遣い一つ、乱してはならない。

 リディは、もはや、マチオ達を正視できなかった。

 ためらいなく、もう片方の裾もめくったマチオは、流石だ。度胸が据わっている。

 隊長は、右足と左足の状態が同じであることを確認して、「いいだろう。」と言った。

 リディは、さりげなくマチオの腕を支えるように隣に立ち、隊長を睨みつけた。

 隊長は「生意気な。」とつぶやくと、突然、その大きな手で、リディの頬を殴りつけた。

 鈍い音と共に、リディの身体は床に叩きつけられた。

「ルフィ!!」

 マチオは、すぐさま床に片膝をついて、リディの身体を起こしてやった。そして、

「申し訳ありません。田舎からでてきたばかりの世間知らずの嫁でして。」

 隊長は、二人を侮蔑の表情で見下ろした。

「では、店主がよく躾られよ。軍にたてつくと、どうなるか。館を荒らされたくらいではわからぬ程、愚かな女のようだからな。」

「よく言ってきかせます。」

 隊長らが立ち去ると、リディはマチオを長椅子へ座るよう、誘った。

 マチオの額には、汗が噴き出している。

 リディはハンカチを取り出し、そっと拭ってやった。

 マチオは、そんなリディの顔を見て驚いた。

「・・・リディ様、口元が・・!」

 リディの頬は口元にかけて赤く腫れ、唇の端から血が流れて白いブラウスに染みを作っていた。うまく口を開ける事ができず、リディは「心配ない」と言うように口端をちょっとだけ持ち上げてみせた。マチオの方が、よほど無茶をしたのだ。

 マチオは、自分も心配要らないのだと言うように、胸を張った。

「怪我が大腿部でよかった。ズボンを脱げと言われない限り、大丈夫とわかっとりました。しかし・・・もう、あんな敵意丸出しの態度は控えとってください。あの隊長は、荒くれ者で道理の通じない男です。まともに相手をしてはなりません。」

 リディは、手の甲で口の血を拭いながら、思った。

 隊長は、わざと、自分を殴ったのだ。

 あの状況で、マチオがリディに近づかなかったり、近づく過程で動きが不自然だったら、怪我を疑っただろう。きっと、マチオもそれをわかっていて、リディを助ける行動に出たのだ。

 そこへ、フィゲラスが両手一杯に荷物を抱えて戻ってきた。

 フィゲラスは、二人の只ならぬ様子に、思わず荷物を落しそうになった。

 事情を聞くのもそこそこに、フィゲラスは、マチオとリディの手当てに追われた。

 「二人して無茶をするなんて。」

 フィゲラスの小言を笑って聞くことができたのは、マチオを疑う気持ちが、ほぼ無くなりつつあるから。

 リディは、血で汚れたブラウスを着替えるため、自室に戻った。

 大人しく待っていてくれたヴェルデマールを抱き上げると、リディの顔がいつもと違うと気付いたのか、すぐに泣き始めた。

「ごめんね・・・大丈夫。きっと、もうすぐ迎えが来るからね。」

 リディはまだ、マリティム国王が殺された事をしらない。

 まもなく、国境閉鎖から一週間。

 理由も無く異常事態を長引かせるようなリスクを、ジェードが冒すはずはない。

 フィリグラーナ王妃をどうするのか。

 偽とはいえ、人質のプラテアード王女が死んだ後始末を、どうするのか。

 その結果次第で、リディは様々な事を即断しなければならない。

 気付くと、ヴェルデマールがリディの腫れた頬に向かって、その小さな手を必死にのばしていた。

「痛いのがわかるの?優しい王子様ね。」

 差し出された人形のような指を握りしめると、愛しい気持ちが滲んで、それは想像以上に切ない感情だった。


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