表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
95/152

第94話:頬の傷跡

 マチオの薬局は、きっかり朝9時に開き、きっかり夕方6時に閉まる。

 昼食の時間は正午から、きっかり2時間。その間、店には「休憩中」の札がかかる。

 時計の針と寸分の狂いなく送るマチオの生活は、リディ達が思わず時計代わりにするほどだった。

 薬局を訪れる客は、店の片隅で薬を調合しているフィゲラスを見かけると、「助手を雇ったのかね?」とマチオに尋ね、マチオが「田舎から出てきた甥夫婦を新居が見つかるまで置いとります。」と答えると、それ以上は何も聞かなかった。「名前は?」とか、時折上階から聞こえる赤ん坊の声を聞いて「男の子か女の子か」などと尋ねたりすることも、一切なかった。マチオの愛想が悪いわけではない。上級階級の者とは、下世話な世間話など口にしないのか。

 貴族出身のフィゲラスは、いくらマチオが「調査済み」と言っても、暫くは(知り合いが来店するのでは?)と気が気ではなかった。だが、この薬局を利用するのは貴族専属医師の中でも、本当に限られた一握りだった。所詮、フィゲラスが住んでいたヴェルデ郊外の中流貴族や、その専属医師には関わる余地もない。その点では、心配は要らないようだ。

 一方リディは、部屋に用意された着替えがすべて女物でも、今度ばかりは文句を言わなかった。肩より伸びた髪も、普段なら短く切り落とすところだが、今回はハンカチをリボンがわりにして、首の後ろでひとまとめにした。だが、スカートの下にズボンをはき、腰の中に武器を隠すことは忘れなかった。

 リディはヴェルデマールの世話をしながら、朝から晩まで薬局以外の場所の掃除をし、食事の準備をした。洗濯もしたが、中庭に干すのはフィゲラスが引き受けた。マチオは、いわゆる一国の首長をはるリディが、家事の一切を率先して引き受けるとは思っていなかった。もっとお高くとまって、フィゲラスを鼻先で使い、ヴェルデマールの世話も嫌がると思っていた。

 額に汗を浮かべながら階段を一段ずつ磨くリディを見て、マチオは静かに瞼を閉じた。

 アンドリューが、なぜ、ここまで敵の王女を構うのか。

 少し、わかる気がした。


 こうして、瞬く間に一週間が過ぎた。


 事態が動いたのは、いつもどおりの昼休みだった。

 その日、マチオは昼食の後、食料の買い出しに出かけていた。

 リディは自室でヴェルデマールを寝かしつけながら、自分も微睡んでいた。

 そこへ。

 マチオは薬局へ戻ってくるなり、入口に吊るした「休憩中」の札を「臨時休業」にかけかえ、扉の鍵を閉め、カフェカーテンを降ろした。

 店内で粉薬を調合していたフィゲラスは、驚いて立ち上がった。

「どうかされましたか?」

「リディ様の部屋へ一緒に来て下さい。あの部屋だけ二重壁になっとりますので。」

 

 マチオは、ノックの返事を待たずにドアを開け、飛び起きたリディに目もくれず鎧戸を閉めると、ランプに火を灯した。

 薄暗い部屋で、三人はテーブルを囲んで頭を寄せ合った。

 マチオは、抑えた声で言った。

「明朝、国境が閉鎖されます。」

「!?」

 リディは、大きく目を見開いた。

「それは、プラテアードとの国境がですか?」

「いいえ、すべてです。」

 フィゲラスは、マチオの顔を覗き込んだ。

「その情報は、もう国中に?」

「まだです。明日の朝、一斉に御触れが出るそうです。」

 リディは、口元で両指を組んだ。

 一体、どういうことだ。フィリシアが殺された事と関係しているのか?

「フィゲラス、城の中で遭った事を話して。」

「・・・。」

「話して。どうせ、遅かれ早かれわかることなのだから。」

 フィゲラスは呼吸を整えると、一気に記憶を辿った。

 薔薇城に突然現れた黒づくめの男がフィリシアを切りつけたこと。

 次に揺りかごで眠っていたヴェルデマールに襲いかかろうとしたため、寸でのところでフィゲラスが抱きかかえ、庇ったこと。

 そこへアンドリューが現れ、黒づくめの男と戦いながら、自分達を逃がした事。

 リディは思わず、顔を横へ背けた。

 それは、マチオも同じ気持ちだったようだ。苦い顔で俯いている。

 リディには、黒づくめの男がフィリグラーナの隠密のジェリオであるとすぐにわかった。フィリシアが死ねばマリティムが黙っていない。王妃の故国プリメールとの断絶のために、すべての国境を閉鎖するのか。

 マチオは、立ち上がった。

「情報を集めてきます。お二人は、何もなさいませんように。私が戻るまで薬局は休業のままにしてください。誰か来ても、決して扉を開けてはなりませぬ。」

 リディは、マチオの腕を掴んだ。

「黒づくめの男は・・・王妃の隠密と思われます。」

「ああ・・・、噂だけは耳にしとります。」

「王妃が命令しない限り、彼は無駄な殺生はしません。だからアンドリューは、無事だと思います。」

 何の確証もない。

 だが、そう口にすることでマチオを励ましたかった。いや、自分に言い聞かせたかった。

 マチオは、窪んだ眼でリディを見つめた。

「・・・かつてエンバハダハウスに住んどった奴らの一部は、今もヴェルデのそこここに散っとります。アンドリュー様の安否も含め、必ず情報をもって帰ります。」

 

 翌朝になっても、マチオは帰らなかった。

 やがて、閉ざされた窓の外から、国境閉鎖のニュースを知った街のざわめきが、さざ波の様に押し寄せてきた。


 次の朝の事だった。

 リディとフィゲラスは互いの自室で、帰らぬマチオを心配していた。

 突然、店の入り口を激しく叩く音が4階まで聞こえてきた。

 二人は、同時に部屋を出た。

 フィゲラスは、リディに向かって首を横に振った。

「私が様子を見てきます。リディ様は部屋から出ないでください。」

 リディの返事を待たず、フィゲラスは音をたてないように静かに階段を降りて行った。

 1階まで降り、廊下から店の入り口の様子をうかがった。

 生成りのカフェカーテンに、複数の人影が透けて見える。

 フィゲラスは固唾を呑んだ。

 マチオの言いつけは忘れていない。誰が来ても、決して扉を開けないようにと。

 だが、扉は更に激しく叩き続けられる。

 人の気配を消すために、マチオが出かけてから暖炉の火を灯すことをやめているというのに。

 いい加減に、諦めてくれないだろうか。そんな思いとは裏腹に、扉を叩く音はますます激しくなっていく。

「ジェード軍第三部隊だ!中に誰かいるのはわかっている!扉を開けねば、こちらから打ち破るぞ!!」

 ジェード軍が、王室御用達の薬局に対して、この乱暴な扱いは何だ?しかし、本物の軍隊かどうか、フィゲラスには判断する術もない。

「あと一分待ってやろう!それでも出て来なければ、強制的に中を検めさせてもらう!!」

 フィゲラスは、思わず階段の上を見た。

 リディの姿は見えない。

 無視し続けても、逃げ果せそうにない。

 どうせ中に入ってこられるなら、自分から出て行った方が被害が少ないのではないか。

 フィゲラスは、心臓の鼓動を喉元で激しく感じながら、決断した。

 とにかく、この店より奥へ踏み入ることのないようにしなければ。

 フィゲラスが店の鍵を外すや否や、軍服姿の男が10人程店の中へ流れ込んできた。

 全員、銃を構えている。

 フィゲラスは、全員を睨みつけると自らを奮い立たせるように大声をあげた。

「一体、早朝から何事ですか!?ここは王室御用達の薬局です!軍隊に踏み入れられる覚えはありません!!」

 すると、小隊の隊長と思われる背の高い男が一歩、前に出てきた。

「失礼だが、あなたはこの店の店主ではありませんな?」

「・・店主は留守です。私は、留守を預かっている親類の者です。」

「親類?そんな話は、聞いたことが無い。」

 隊長は、フィゲラスの言葉を全く信じていない様子だ。

「昨日、国境が前面閉鎖されたことは聞いておりますか?」

「ええ、知っています。」

 隊長は、一歩、フィゲラスににじり寄った。

「現在、国中の警戒を強めているところです。その中で、この家の主人が余所者に監禁されているのでは――― という垂れ込みがありましてな。」

「!?」

「国王の命令です。これから、この館を検めさせていただく。」

 一瞬、フィゲラスの脳裏に(騙されたのか―――?)という思いが走った。

 マチオが、軍隊を差し向けたのか?

 留守中に、リディが軍隊に連れて行かれたとアンドリューに言い訳するためか?

 否、そもそもアンドリューの企みなのか・・・!?

 何にせよ、リディを守らなければ。

 フィゲラスは、両腕を広げた。

「国王の命令だという証拠はあるのですか!?ここは私の叔父の家です。勝手に踏み入ることは、許しません!」

「抵抗すると、許されないのはそなたの方ですぞ!」

 その時だった。

 微かに。

 微かに、上から赤ん坊の泣き声が!

 マチアは、リディの部屋だけ二重壁になっていると言った。確かに、店まで泣き声が聞こえる事は稀だった。

 だが、この階下の騒ぎが伝わったのだろう。

 隊長は、天井を見上げた。

「赤ん坊か?」

「・・・私の子です。怯えて泣いてるのです。」

「まさか、一人きりではあるまい?」

「妻が面倒を見ています。」

「そうか。では、そなたの妻の顔も拝ませてもらおう。」

「やめてください!私が叔父と一緒に働いているところを、何人もの客が見ています。そんな私が、叔父を監禁などするはずないでしょう?」

「やましいところがないのなら、大人しくしていればよい。その焦り、反って疑わずにはいられない。」

「・・・そんな!」

 フィゲラスの背中に冷や汗が伝った。

 その時。


 ――― 何事です!? ―――


 フィゲラスは、驚いて後ろを振り返った。

 そこには、ぐずるヴェルデマールを抱いたリディが立っていた。

 リディが身に付けた鮮やかなブルーのスカートが、くすんだ色だらけの空間に異常に映えた。

 リディは厳しい目つきで、フィゲラスの前に立った。

「薬局のお客様とは思えない騒ぎですこと。この子が目を覚ましてしまったではありませんか!?」

 フィゲラスは、思わずリディを守る様に腕をのばした。

 隊長は、リディの頭の先から爪先まで舐める様に見回した。

 リディは、不機嫌そうに眉をしかめた。

「ジェード軍も、随分おちたものですわね。店主が監禁?そんなデマに踊らされて、こんな強引なことをするなんて。」

 フィゲラスは、気が気ではなかった。

 人前に出るだけでなく、こんな挑発的な発言までするなんて、リディは何を考えているのだろう?

 隊長は、リディに近寄ると、見下すような目つきで凝視した。

「デマかどうか確かめるのが我々の務めでしてな。」

 と、隊長の分厚い眉間がピクリと反応した。

 隊長の視線は、リディの頬に注がれた。

「その頬・・・銃の傷跡か?」

「!!」

 リディは、ヴェルデマールを抱く手に思わず力を入れた。

 隊長の大きな親指が、リディの頬の傷に触れた。フィゲラスがそれを止めようとすると、周りの軍人につかまり、羽交い絞めにされた。

「確かに、銃がかすめた傷だ。そなた、何者―――?」

 リディは、隊長の親指から逃れるように顔を背けながら言った。

「田舎の林で、猟銃の流れ弾に当たっただけです。手を離してください!」

「・・・まあ、いいだろう。――― やれ!!」

 隊長の一言で、軍人達はリディの脇をすり抜け、館の中へ押し入った。

 軍人の手が離れたフィゲラスに、リディは目で「上へ」と合図した。家中を荒らされるにしろ、その動きをしっかり見ていろということだ。

 フィゲラスは、階段を駆け上がった。

 リディは、泣きじゃくるヴェルデマールをしっかりと抱きしめ、一人残った隊長と距離をとって床から感じる振動を受け止めていた。隊長は天井を睨みつつ、リディの様子もうかがい続けた。その突き刺すような視線に、リディは息を殺して耐えた。スカートの中に隠した銃は、いつでも握れる。だが、今は、それがかえって危険を招くことを知っている。

 フィゲラスは、軍人達が乱暴に家具をなぎ倒し、カーテンを破り、床を鉄砲で突いて穴を空ける様子に、「ここは叔父の家です、叔父の持ち物です!乱暴に扱うのはやめてください!」と無意味な叫びをあげるしかできなかった。だが、フィゲラスの部屋に残された、ただ一つの持ち物に軍人が手を触れた時には、流石に飛びかかった。

「これは医療道具です!私の商売道具です!!」

 その異常な反応に、軍人はバッグを抱えて階下へ降りた。

 フィゲラスも、それに続く。

 軍人は隊長にバッグを渡した。

 隊長は無遠慮にバッグを開くと、逆さにした。バッグの中身が、ガチャガチャと音をたてて床に散らばる。

 フィゲラスは、落ちた聴診器を拾い上げると、隊長に向かって叫んだ。

「私は医者です!ヴェルデで開業するために、田舎から出てきました!土地と家が見つかるまで、妻と子と叔父の家に身を寄せているだけです!これでもまだ、お疑いですか!?」

 隊長は、軍人と二言、三言言葉を交わすと、踵を返した。

「館の中に、店主が監禁されていないことは確認した。今日のところはこれで退散しよう。―――だが、」

 肩章越しに振り返った黒い目は、再びリディの頬に注がれた。

「その傷は、忘れないでおく。またどこかで、お目にかかるかもしれないからな。」

 

 扉の閉まる音が、どれほど有難かったことか。

 フィゲラスは思わずリディに駆け寄り、赤ん坊ごと身体を抱きしめた。

「人前に姿をさらすなんて・・・!もうこんな危険なことは、二度となさらないでください。」

 フィゲラスの大きな手が、震えている。

 リディは、その腕に額を委ねて言った。

「心配をかけてすまない。・・・ヴェルデマールの存在を隠し通せない以上、ほかに選択肢がなかった。」

「あの隊長は、リディ様の顔を絶対に忘れませんよ。」

 アンドリューが撃った銃弾で傷ついた頬は、リディにとって大切な傷だ。いつも見ているせいか、そこまで目立つとは思っていなかった。だが、他人にとっては、個人を判別する特徴になってしまうのだ。

 二人が改めて見つめる先に広がっていたのは、まさに嵐が過ぎ去った後のように凄惨な光景だった。

 泣きじゃくるヴェルデマールを軽くゆすりながら、リディは努めて明るく言った。

「とにかく、片づけよう。こんな光景、とても『マチオ叔父様』には見せられない。」

「・・・はい。」

 今回のことが、マチオの陰謀だとは思わない。何もかも知っているマチオが絡んでいたなら、家を荒らしただけで立ち去るなんてことはしない。脅しをかけたかっただけというなら、随分見くびられたものだ。

 疑いたくない。

 マチオを疑うということは、アンドリューを疑うことになる。

 今、実感する。

 いつの間にか、こんなにもマチオを頼っていたことを。

 (早く、戻ってきてほしい。)

 二人は砕けたガラスを拾い、破れたテーブルクロスやカーテンを片付けながら、ただひたすらに、マチオの一刻も早い帰りを願った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ