第93話:ヴェルデマール
ジェード王国の首都、ヴェルデ。
ミルク色の朝霧に包まれた街に、馬車の音だけが静かに響いている。
昔、リディが新聞記者レオンの小間使いをしていた時、靴底がすり減るほど走り回ったヴェルデの街。
記憶の地図を辿りながら、エンバハダハウスへ真っ直ぐ向かっている―――つもりだ。
霧で視界が開けないため、リディは自分の方向感覚に自信を失いつつあった。
霧が晴れるまで、止まっていた方がいいか、迷う。
ゆっくり進んでいると、時折、パン屋のかまどから立ち昇る小麦の香りが鼻をくすぐる。
豊かで、平和な朝の香り。
薔薇城で起こった殺戮も、今、自分達が置かれている立場も、まるで遠い夢のようだ。
馬車の中のフィゲラスは、赤ん坊特有のミルクの匂いを抱きながら、薔薇城での出来事を反芻していた。
黒ずくめの男。銀の刃。
男は躊躇なく、フィリシアに向かって剣を振り下ろした。
宙に舞った血の色が、脳裏にこびりついている。
戦っているアンドリューを、一人、置き去りにしてきた。フィゲラスは言われるままにリディを連れて、ただ、逃げた。
フィゲラスは、きつく瞼を閉じた。
アンドリューのことだ。無事だとは思う。思うが――― リディには何も話す気になれない。
気付くと、いつの間にか霧が晴れていた。
青く澄んだ空気の中、リディは馬車を止めた。
王宮方面に伸びるアバスカル通りから一本裏に入った一角――― そう、ここがエンバハダハウスのあった場所だ。
リディは、吸い寄せられるように御者台を降りた。
見上げたのは、煉瓦の洋館。通りに面した壁の幅は、かつてのエンバハダハウスの半分もない。4階分の窓はすべて鎧戸が閉まっているが、三角屋根からのびた煙突の煙が、人が生活していることを証明している。
左手には、灰色の壁のいかめしい風貌の建物が「銀行」の看板を重そうに掲げている。
リディは躊躇なく、軒先に小さな金属製の看板が吊り下がっている煉瓦の洋館に近づいた。
フィゲラスは、馬車の中からリディの視線の先を追い続け、ハッとした。
(この看板は・・・!)
緑の十字に蛇が絡みついている絵柄は、薬局の印。十字の交差部には小さな緋色の飾りがついている。ジェードにとって、緋色は王室を表す色。ここが、アンドリューが示した「エンバハダハウス」なのか。
リディは、店の入口であろう、カーテンの降りたガラスの扉を左手でノックしながら、右手で腰の銃に手をやった。
何が起こるかわからない――― 、その覚悟だけはいかなる場合も忘れない。
扉は、すぐに開かれた。
中から現れたのは、灰色の髪をオールバックに整え、口髭をたくわえた60代くらいの老紳士――― いや、「老」などと付けては失礼なほど、背筋も肩も膝もしっかり伸びている。
「ハンス爺さん・・!?」
リディの口から、思わず声が漏れた。
かつて、エンバハダハウスを管理していたハンス爺さんに、目元や口元がそっくりだったのだ。
リディより少し背が高い老紳士は、リディの肩越しに、馬車の中にいるフィゲラスと赤ん坊をまじまじと眺めた後、恭しく頭を下げた。
「わたしは、マチオと申します。かつてエンバハダハウスの管理をしとったハンスの弟です。」
そして、建物の中へといざなうように、腕を差し伸べた。
「アンドリュー様から、あなた方を匿うよう申しつかっております。 ―――リディ様。」
磨き抜かれた高級な木材の長いカウンター。その片隅に、試験管や天秤、薬皿などの小物が整然と並べられている。背後の壁一面には、作りつけの棚。縦横に整列した無数の小さな引出しには、一つ一つに飾り数字が焼きつけてある。
医師のフィゲラスが見るに、ここは噂に聞いた王室御用達の高級薬局だ。王室をはじめ、限られた上級階級の顧客のオーダーに応じたり、王族や貴族専属の医師が直接注文に訪れる仕組みになっている。首都ヴェルデのみに存在し、一介の町医者や、フィゲラスのような若い医師が利用できる場所ではない。
マチオは、数年前にマリティムの命令で地方から召還され、薬局を営みながら情報収集活動をしている―――など、素性を話しながら、どこからか大きな籐の籠をもってきて、柔らかなガーゼを敷き、赤ん坊を寝かせる場所を作ってくれた。その流れで店の奥のダイニングにいくと、はちみつ入りのハーブティーを二人に振る舞った。かと思えば、店の外へ出て、リディ達が乗ってきた馬車を中庭の厩に繋いできた。
リディの記憶にあるハンス爺さんは、いかにも「偏屈」で、腰も前かがみで、服も継ぎのあてられた古いものだった。すべて世間の目を欺く芝居だったのかもしれないが、弟のマチオは顔かたちがハンスを彷彿とさせるものの、「爺さん」など決して呼べない品格が漂う。灰色のオールバックはオイルできれいに整えられ、口髭も形が整っていて清潔感がある。アイロンのかかった白いシャツに黒いズボン。仕事の時に着るであろう白衣は、染み一つない状態でハンガーにかかっている。
「さて。」
一息ついたところで、マチオは口火を切った。
「4階に住まいを用意しとります。ただし、匿うとはいっても、赤ん坊の泣き声は隠しきれませんので、お二人は、私の下に身を寄せた親戚夫婦ということにさせていただきます。まったく姿を見せないのも不自然ですから、フィゲラス殿には薬局を手伝ってもらおうと思っとります。」
その提案に、リディが反応した。
「フィゲラスは、ジェードでは死んだことになっているはずです。」
「今までこの薬局を利用した者の中に面識者がいないことは、調べがついとります。新しい客が来たとしても、紹介状で身元を確認するまで店には入れません。」
その時、ずっと眠っていた赤ん坊がぐずりだした。
リディが、籠の中から赤ん坊を抱き上げると、マチオが立ち上がった。
「4階の右手の部屋に、赤ん坊の世話に必要なものが揃っとります。」
「わかりました。」
リディと共に4階へ上がろうとしたフィゲラスの腕を、マチオが掴んだ。その力強さは、およそ老人のそれではない。マチオは無言で、フィゲラスを部屋の中に留めた。
リディの足音が聞こえなくなるのを待って、マチオは椅子に腰かけた。
「武器は、お持ちですか?」
フィゲラスは、思わず背筋を伸ばしてマチオのグレーの瞳を見つめた。そんなことを聞いて、どうするというのか。
フィゲラスが回答に戸惑っていると、マチオは頷いた。
「まあ、いいでしょう。事前に知っといてほしいのは、私はアンドリュー様からあなた方を匿うように言われとりますが、それ以上の保障はできんということです。」
「それは・・・、」
「アンドリュー様は、アンテケルエラのスパイにも警戒する様言っとりました。この店に出入りする者の素性が確かです。しかし、裏の繋がりまでは保障ができません。リディ様は、部屋から出ない方が賢明でしょう。」
マチオは、深いため息を吐いた。
「本当は、敵国の王女を匿う事も、敵国の王女にマリティム陛下の御子を一時でも預ける事も、賛成できんのです。それでもお引き受けしたのは、そうせざるを得ないほど悪い事態に陥っていることが、わかるからです。」
フィゲラスの脳裏に、薔薇城の惨劇がフラッシュバックした。
マチオはさらに厳しい光を帯びた瞳で、フィゲラスに告げた。
「リディ様は私を警戒してか、この部屋にいる間中、腰に隠した武器に手を触れておりました。もし―――、もしもその武器でリディ様が御子に何かしようものなら、私が容赦しません。遠慮なく、成敗いたします。」
フィゲラスは、固唾を呑んだ。
わかってはいたが、マチオは只者ではないし、この場所は安住の地でもなかった。さっき自分の腕を握った力からも、その手腕に疑う余地はない。
「心しておきます。ですが、リディ様は、アンドリュー様の信頼を裏切る様なことは絶対になさいません。」
マチオの刺すような視線に負けじと、フィゲラスも真正面から見返した。しばらく視線を合わせた後、マチオはフッと力を緩めた。
「アンドリュー様のなさる事に、ケチなぞつけたくはありません。しかし、常に最悪の事態を想定して動くのが、わたしの使命ですから。」
マチオはそう言った後、何もなかったかのようにカップを片付け始めた。その背に向かって、フィゲラスは尋ねた。
「それで・・・いったい私達は、いつまでここに居ればいいのですか。」
「今は、何とも。アンドリュー様から次の命令がくるのを待つのみです。」
そして最後に、付け足すように言い添えた。
「お二人とも、私のことを『叔父様』とお呼びください。私はお二人をミドルネームから『アルバート』と『ルフィ』と呼ばせていただきます。」
マチオから、今日一日はゆっくり休んでよいと言われたため、フィゲラスは重い脚で4階まで上がった。上りきった正面の大きな窓からは、隣の建物の屋根しか見えない。踊り場の両脇に一つずつ扉があり、左側がフィゲラスの部屋だと言われたが、右側の部屋で赤ん坊の激しい泣き声が聞こえたため、放っておけずに扉をノックした。
部屋の中では、赤ん坊を抱いたリディが、困った顔で歩き回っていた。
赤ん坊の世話は、フィゲラスの方が手慣れている。だが、本物の母親を亡くした赤ん坊は、何をどうしても納得できないようだった。
リディは少女の頃、近所の小さな子供達を集めて一緒に遊んだり、文字を教えてやったりしたことがある。だが、流石に赤ん坊を世話した経験はない。努力や根性ではどうにもならない現実に、リディはやるせない気持ちになった。
フィゲラスは、赤ん坊の方へ手を差し伸べた。
「リディ様。赤ん坊の世話は、私がします。薬局の手伝いはお断りしましょう。」
フィゲラスの申し出に、リディは首を振った。
「とんでもない。未婚の父にできたことだ、娘の私ができないなんて、恥ずかしい。それに、事情はどうあれ私達は居候なのだから、少しでも役立たないと。」
リディは、赤ん坊の薄い産毛が生えた頭を優しく撫でた。
父は、王妃の腹から取り上げた自分を、どれほど苦労して育てた事か。騎士だったアドルフォが、初めから家事が万能だったとは思わない。自分を育てるために森の中の一軒家に移り住み、何もかもを一人で切り盛りしていたのだろう。
武骨なアドルフォの手を、気付けばリディはいつも握りしめてきた。アドルフォの死に際まで、ずっと。この赤ん坊にとって自分がそのような存在には決してなりえないが、預かっている以上は出来る限りの事をしたい。母親を奪われたことを理解できないほどの赤ん坊に、敵も味方もないだろう。
「そういえば、この子、名前は?」
「さあ・・・?フィリシア様は、『私の坊や』と呼んでいました。」
「そうか・・。」
リディは、赤ん坊の瞳を覗き込んだ。
マリティムの瞳と同じ湖色に、うっすらとフィリシアの緑が混じりあったような、紺碧色の瞳。
「ヴェルデマール(紺碧)・・・。」
思わず、口をついて出た。
「うん、瞳の色なら素性も問われないし、あくまで仮だし、許されるだろう。」
リディは自らを納得させるように頷くと、ヴェルデマールを高く抱き上げた。
思い込みかもしれないが、目元が少し、アンドリューに似ていると思った。
リディには、それだけで十分だった。
いかなる疑問も、いかなる将来への不安も、今は心の奥に押し込めておく。
今できること、今すべきことを着実にこなすことが、次の扉を開ける鍵になる―――そんな父の声が、なぜか耳元で聞こえた気がした。




