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第92話:緋の国の運命 -その5-

 夜空は灰色の雲に覆われ、隙間から遥か彼方に、数えるほどの星が細く瞬いている。

 丘の上にそびえる王宮のシルエットは、いつもと変わりない。

 アンドリューはいつも使用している、決して人が通らない裏口へ回り、馬を降りた。

 不気味なほど蔦が絡まった煉瓦の壁の一部が、秘密の扉になっている。

 蜘蛛の巣を崩さないよう塀の中に入り、いつも通りの経路で北の塔へ向かう。

 壁が入り組んだ一角に、雑草に隠れた鉄格子が地面に埋め込まれ、アンドリューはそこから地下へ潜った。

 床下を這い、開かずの間の床下収納から地上へ出る。

 夜明け前の時間、ランプなしでは何も見えない。

 ほとんど廃墟扱いの塔では、廊下を照らす壁掛け燭台の数も限られている。

 慣れない者なら、案内なしでは方向を見失うような同じ見かけの十字路の連なり。

 迷路のように入り組んだ袋小路。

 影の身のアンドリューがマリティムに会うためには、密会部屋を訪れるしかない。

 慎重に歩みを進め、最後の角を曲がった。

 「・・・!」

 無人のはずの廊下に、人影がある。

 アンドリューは思わず足を止めた。

 ハロルド伯爵はアンドリューに気付くと、仰々しく頭を垂れた。

 アンドリューは安堵して伯爵に近づき、

「マリティムが中にいるのか?調度よかった、火急の用がある。取り次いでくれ。」

「・・・―――。」

 伯爵は、眉をきつく寄せて視線を落した。

「どうした?急いでいるんだ。」

 答えが無い。

 伯爵の肩が、小刻みに震えている。

 アンドリューの押し込めておいた不安が、突如として膨らんだ。

「何が・・・あった?」

 不安が早鐘のようにアンドリューの全身をかけめぐる。

「伯爵、何があった!?言ってくれ!」

 激しく肩を揺さぶられ、伯爵は観念したかのようにアンドリューを見つめた。

「これを、お預かりしております。」

 伯爵はアンドリューの手に、何か握らせた。アンドリューが手の中を見ると、小さな金の鍵があった。

「これは・・・。」

「陛下からです。アンドリュー様に、お渡しするようにと。」

 伯爵の目尻の深い皺が、濡れている。


 もう―――


 もう、答えは出てしまった。

 最も聞きたくなかった答えが、出てしまったではないか。

 アンドリューは、乾いた唇を必死に引き締めた。

 伯爵が開けてくれた密会部屋の扉の音は、いつもより鈍く、重かった。

 中に入るなり、アンドリューは思わず腕で鼻先を覆った。

 すさまじい血の匂いが、鼻をつく。

 視線を遮る積み重ねられた家具をなぎ倒しながら、アンドリューは走った。

 この部屋は、こんなに奥行きがあっただろうか。

 箪笥や椅子の先にアンドリューが見たものは―――


「マリティム・・・!!」

 

 床の上に広げられた緋色の布の上に横たえられた、二つの遺体。

 一つは、金糸銀糸の縁取りがされた絹の重い衣装を身に付けた神使。

 そしてもう一つは、ジェード国王、マリティム。

 

 アンドリューは、金縛りにあったかのように硬直した。

 伯爵はアンドリューの膝元に回り込み、頭を床に擦りつけた。

「申し訳ございません・・・!私の首など幾つあっても償えないのは承知でございますが、打ち首の覚悟はできております!」

 アンドリューの全身が、小刻みに震えた。

「王妃か・・・?」

 拳を握ったが、震えが止まらない。

「王妃か?フィリグラーナが、マリティムを殺したのか!?」

 伯爵は、床に額を押し付け、すすり泣いた。

 アンドリューの胸の奥から、津波のように感情が溢れだした。

 この言い表しようのない感情を、どうしたらいいだろう。

 身体の底から湧き上がる咆哮を、吐き出せばいいのか?

 手当たり次第、何でもいいから床に投げつければいいのか?

 壁を殴りつけて指の骨が砕ければ、この気持ちは落ち着くのだろうか?


 引っ付きそうなほどの喉の渇きは、どうしたって癒えそうにない。


「アンドリュー様・・!」


 突然、足元から小さな声があがった。

 それは、蝋燭を灯し続けて死者を見守る役を与えられた、アランだった。

 アランは、初めて見る生々しい遺体を前に、ずっと震えていた。そこへ懐かしいアンドリューが現れ、もはや我慢の限界だった。

「アンドリュー様!」

 アランは、片足を引きずりながらアンドリューに近寄り、抱きついた。

「アラン・・・!」

 泣きじゃくるアランを抱きしめ、その頭を何度もなでてやった。

 アランと伯爵の泣き声を聞いていると、次第にアンドリューの感情は静まっていった。まるで二人が、自分の代わりに泣いてくれているようだ。

 ハンス爺さんが亡くなった時は、アランと一緒に涙が枯れるほど泣いた。しかし今は、状況が違う。

 伯爵は、擦れた声で経緯を説明した。

 アンドリューは、悲しみや怒りよりも、今からやらなければならない事に思考を傾けるべく、必死に脳を回転させた。今、別室でレオンが見張っているフィリグラーナの処遇も、早急に決断せねばならないだろう。

 アンドリューは、アランを伯爵に託した。

「明け方までは、俺がマリティムの傍にいる。アランは休ませてやってくれ。血だの死体だの、とても苦手なんだ。」

「かしこまりました。・・・よろしければ、薔薇の香をたきましょうか。今のままでは臭いがきつすぎます。」

「いや・・・薔薇の香りはフィリグラーナの香りだ。それは避けたい。それに・・。」

 アンドリューは、長い前髪の隙間から、マリティムの死顔を見つめた。

「多分俺は――― この臭いを、一生忘れてはならないと思う。」

 伯爵は、今アンドリューにかけられる、最も優しい言葉を考えた。

「・・・では、ブランデーをお持ちしましょう。」

 アンドリューは、僅かに目を細めた。

「ありがとう。その後は、伯爵も休んでくれ。『打ち首の覚悟』など余計な心配をしている暇はない。明朝8時に、もう一度来てくれるか。」



 アンドリューは一人、密会部屋に残った。

 緋色の布に横たわったマリティムの白い顔は、眠っているように安らかだった。

 フィリシアの形見の壊れたイヤリングを思い出し、マリティムの上着のポケットに仕舞ってやった。

 こうなることを、予想しなかったわけではない。

 フィリグラーナに注意しろと、レオンに言わなかった自分が悪い。

 もっと、何かできたはずなのに。

 もっと、―――もっと、できた事はあったはずなのに!

 アンドリューは床を拳で叩きつけ、項垂れた。

 後悔しても、元通りにならないことはわかっている。

 しかし。

 託された金の鍵は、国王の執務室の机の鍵。国王が代々受け継いできた、国王の証だ。マリティムから鍵の話を聞いたのは、最近のことだった。その時は、「縁起でもない」と軽くあしらった。真剣に聞いたら、それこそマリティムの死を予感しているようで、嫌だったのだ。

 蝋燭の芯が燃える音が聞こえるほどの静寂の中、アンドリューは実の兄と、最期の夜を過ごした。




 その頃、リディ達の馬車は林を幾つも抜け、間もなく岐路に差し掛かるところだった。

 アンドリューの言う「エンバハダハウス」がどこにあるのか見当もつかない中、フィゲラスの手綱が緩んだ。リディに聞けばいいのはわかっているが、どうも気まずい。

 ――― どうせ今までだって、散々犠牲にしてきたじゃありませんか ―――

 言ってはいけない言葉だった。

 だが、あの時は、どうしてもリディを黙らせたかった。

 あれ以外の言葉が、浮かばなかった。

「フィゲラス!」

 馬車の速度が遅くなった事を不思議に思ったリディが、御者台のフィゲラスに声をかけた。

 しかし、振り向く事さえ躊躇われる。

 リディは構わず声をあげた。

「フィゲラス、行き先は!?」

「エンバハダハウスです!」

「エンバハダ・・?」

 久々に聞く響きに、リディは驚きを隠せなかった。

「アンドリューが、そう言ったのか?」

「はい。」

「・・・では、首都ヴェルデへ。北へ向かえばいい。ヴェルデに入ったら、私が御者を変わる。」

「わかりました。」

 リディは、温かく湿気を帯びた赤ん坊の身体を優しく抱きながら、(なぜ、エンバハダハウスなのだろう?)と考えた。あの場所は火事の後更地になったと、キールから聞いていた。

 あれから9年。

 新たに建物が建てられたとしても、不思議はない。

 プラテアードへ帰れと言っていたアンドリューが指定したのだから、相応の意味があるのだろう。第一、この赤ん坊を連れてプラテアードへ帰るわけにはいかない。 

 とりあえず今は、アンドリューの言うとおりに動くだけだ。

 赤ん坊の額を見ると、アンドリューがはめたティアラは、紐が緩んで首に掛かっていた。

 リディは、この赤ん坊がジェードとプラテアード両国の血をひいていることが、希望にも絶望にも受け取られてならなかった。もちろん、ジェードの裏紋章を額に宿しているのだから、ジェード国の跡継ぎには変わりない。しかし、「血の縁」は決して絶つことのできない呪縛で、運命を翻弄する。

 赤ん坊はマリティムと同じ湖色の瞳を大きく見開き、宙を凝視していた。

 (大したものだ―――。) 

 どんな修羅場があったのか知れないが、この赤ん坊は一度も泣かず、声もあげなかった。普通なら、ありえない。まるで、「将来自分が治める国」の運命を見定めているかのようだ。自分の母が殺されたことなど露程もわかっていないだろうが、国の大事は、生まれながらにして本能が察知しているのか。

 リディは、猛スピードで移りゆく外の景色に、目を細めた。

 

 ――― エンバハダハウス。


 その名を繰り返せば、懐かしい日々が脳裏をよぎる。

 身分を忘れ、国を忘れかけた時もあった。異国の少年になりきり、アンドリューやレオン、アラン、ハンス爺さん達と過ごした愛しい日々―――

 運命の始まりの地に再び足を踏み入れることに、リディは胸が熱くなるのを感じていた。


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