第91話:緋の国の運命 -その4-
アンドリューはジェリオと剣を交えながら、外から聞こえてきた馬車の音で、フィゲラス達が城を出たことを確信した。
車輪が轍を砕く音は、ジェリオの意識を窓の外に向けさせるのに十分だった。
アンドリューはその隙を逃さず、握った剣を思い切り下から振り上げた。
ジェリオの手から剣が剥され、宙を舞う。
アンドリューはすかさずジェリオに飛びかかり、棒のような長身を押し倒して馬乗りになると、喉元に剣先を突きつけた。
ジェリオの口元を覆っていた黒い布が、はらりと床に落ちた。
長い前髪を垂らして、アンドリューは息を切らしながら言った。
「フィリグラーナは、お前に何を命じた?偽王女と赤ん坊の殺害だけか!?」
ジェリオは顎を仰け反らせながら、「何も言うわけがない。」とばかりに薄笑いを浮かべた。
アンドリューは、奥歯を食いしばった。
「言え!フィリグラーナは何を狙っている?こんなことをして、プリメールとの同盟を白紙にするつもりか!」
ジェリオは、のけぞった喉で絞る様に声を出した。
「これは・・・フィリグラーナ様の、尊厳を賭けた戦いなのです。」
「尊厳?祖国を地獄に追いやることより大切だというのか!?」
「フィリグラーナ様をここまで追い詰めたのは、ジェード国です!」
「マリティムが、こんなことを赦すはずがない。」
「・・・赦すかどうかは、あなた次第です。」
「俺が?なぜ――― 」
ジェリオのオニキスのような黒い瞳にアンドリューの顔がはっきりと映り込み、
次の瞬間―――
ジェリオは、痙攣したように身体を震わせ、そのまま首を横に倒した。
薄い唇の端から、赤い血が垂れた。
歯の奥に仕込んでおいた毒を呑みこんだのだろう。
逃げ切れないと踏んだ時か、命令を成し遂げた後か、どちらにせよ自害する覚悟だったのだ。
ジェリオはかつて、カタラン派に捕らわれていたアンドリューを奪還するのに一助を成したと聞いている。その男がこのような形で命を落としたことに、アンドリューは眉を顰めた。
アンドリューは、開いたままのジェリオの瞼を、手のひらでそっと閉じてやった。
(フィリグラーナは隠密にこんなことをさせて、自爆する気か・・・?)
アンドリューは部屋を出て、フィリシアの部屋に入った。
俯せに倒れたフィリシアの周りには、赤黒い血溜まりができている。
フィリシアは既に、こと切れていた。
――― 私には、覚悟ができています。いつ殺されても仕方がないという―――
(この女が死んだことをマリティムが知ったら、どんなに悲しむか・・・。)
アンドリューは、せめてもの形見にと、フィリシアの耳から金に薔薇翡翠の飾りがついたイヤリングを外した。白い布にくるもうとした時、不意にアンドリューの指先からイヤリングが滑り落ち、床の上で薔薇翡翠が砕けた。
「!!」
アンドリューは、思わず息を詰めた。
嫌な予感が、心臓を大きく打ち付ける。
王家縁の薔薇翡翠が壊れるのは、不吉な出来事の前兆と言われている。今、現に国王の愛妾が殺されたが、この前兆はもっと別の事を予言している気がする。さっき聞いたジェリオの最期の言葉が、アンドリューの胸中に木霊した。
――― 赦すかどうかは、あなた次第 ―――
(・・まさか!)
アンドリューは、部屋を飛び出した。
螺旋階段の中央に伸びる鉄棒につかまり、一気に下へ滑り降りる。
馬に飛び乗るや否や、すぐさま王宮へと鐙を蹴った。
駆け抜ける林の中は、木々が醸す湿気と葉の匂いで、むせかえるようだ。
アンドリューの脳裏で、色々な考えが渦を巻いている。
いくつも。
いくつも、幾通りも、色んなパターンをシミュレーションしてきた。
最も深刻なケース、最もあってはならないケース。考えられる限り、対応策を練ってきた。
最悪のケース。それは、アンドリューの運命をも大きく転換してしまう。
(駄目だ!駄目だ・・・俺は、絶対にそんなこと許さない!!)
午前0時を告げる教会の鐘が、遠くで鳴り響いている。
王宮ではマリティムがレオンと共に、北の塔の密会部屋の前に来ていた。
「神使は、既に中でお待ちです。」
「10分後には、神使と爺やが入れ替わりで入る。レオンは廊下の曲がり角で見張りを。神使が部屋を出る前に爺やが来たら、足留めしておいてくれ。」
レオンは頭を下げ、踵を返した。
それと同時にマリティムは、重い扉の奥に姿を消した。
壊れた家具が無造作に積み重ねられた隙間から、ぼんやりと蝋燭の灯りが見える。
何度も利用はしているが、マリティムは目を凝らしながら、慎重に歩みを進めた。
蝋燭の灯りが照らす範囲が判明し始めた、その刹那。
「!!」
突然、目の前が暗くなり、マリティムの意識はそこで一度、途絶えた。
「・・っ・・!」
マリティムが次に見たのは、自分の胸にサーベルを突き刺したフィリグラーナの白い額だった。
フィリグラーナは、突き刺した刃に全体重をかけるように、さらに力を込めた。
マリティムは奥歯を食いしばりながら、フィリグラーナの身体を思い切り突き飛ばした。
フィリグラーナは、近くにあった椅子にぶつかって、床に倒れた。
倒れたフィリグラーナの奥に、神使のものと思われる絹の服からのびた太い足が、生気なく横たわっている。
――― そうか。
王宮の隅々まで自由に歩き回れる王妃なら、密かにこの場所を突き止め、合い鍵を作って忍び込むことは可能だ。いかにレオンが有能で点検を怠らなかったとしても、扉の前から離れた時間がゼロでない限り、阻止はできない。
マリティムは肩で息をしながら、刺された左胸を手で押さえた。
「フィリグラーナ、・・・なぜ・・・?」
フィリグラーナはウェーブがかった金髪を乱したまま、上体を起こした。
「なぜ?聞くまでもないではありませんか。あなたは、私との間には正統な跡継ぎが産まれないという結論を出したのです。でしたら、あなたはもう、要らない。」
胸元を掴んだ指の隙間から、鮮血がとめどなく流れる。
もはや自力で立つことができなくなり、近くにあったマホガニーのチェストにもたれた。
脳の動きが、徐々に鈍くなってくる。
ぼやけてきた視界の中で、フィリグラーナの紅い唇が微笑んだ。
「あなたのジェードは、アンドリューと私が立派に率います。何の心配もなさらず、安心して天に召されてください。寂しくはございませんわ、あなたをたぶらかしたあばずれ女と子供も一緒に、天国へ送り届けますから。」
「・・・!」
この密会部屋は、どんなに叫んでも外に声が漏れないようになっている。有事を外へ知らせるベルはあるが、その場所はフィリグラーナの向こう側。歩いて5、6歩ほどだが、とても、遠い。
マリティムは、最期の覚悟を固めた。
残りの力を振り絞ってできるのは、言葉でフィリグラーナを打ちのめす事だけ。
「愚かな女だ。・・・アンドリューが、そなたを娶ると本気で思っているのか。」
「当然です。私の美しさに心を奪われない男など、この世にはおりませんもの。」
「いや、少なくとも二人はいる。」
マリティムは、チェストの天板を指先で掻き毟りながら、必死に意識を保った。
「私達は、兄弟だ。私が惹かれない女には、弟のアンドリューも惹かれない。」
「いいえ!アンドリューは、出会った時から私のものです。アンドリューは、・・・私以外の女に惹かれるはずがない!」
「可哀想に。アンドリューと一緒になるどころか、国王殺しの罪で処刑される未来しかないことに気付かないとは。」
フィリグラーナは、唇を震わせて首を振った。
「いいえ!私はジェードの王妃です!今までも、これからも、ずっと!!」
悲しい女の叫びを聞きながら、マリティムの身体はチェストをなぞるようにして床へ崩れ落ちた。
フィリグラーナの白い指が、俯せに倒れたマリティムの頬に触れた。
「私の勝ちです。陛下。」
フィリグラーナの指は、氷のように冷たい。
マリティムには、もはや頭をもたげる力さえ無かった。
こんなところで人生が終わるなど、誰が想像できただろうか。
フィリグラーナは、マリティムの汗ばんだ額を優しく撫でた。
「生まれながらの王妃であるこの私が、この世のどんな女にも負けることなど許さない。」
「・・・地獄と、引き換えにしてもか。」
「ええ。」
「祖国を、見捨ててもか。」
「私はジェードの王妃です。私の祖国は、ジェードです。」
マリティムの瞳には、もう、何も映らなかった。
ゆっくりと瞼を閉じた時、突然、扉がノックされる音が響いた。
「陛下。・・・陛下!」
レオンの声だ。
時間をだいぶ過ぎても出てこないため、心配になったのだろう。
だが、残念ながら遅すぎた。
レオンとハロルド伯爵が部屋に入り、いかに血相を変えようと、叫ぼうと、蘇生を試みようと、もう、間に合わない。
レオンの悲鳴が近づいてくる。
爺やが、自分の名を呼んでいる。
しかし、マリティムが最期に聞いたのは―――
フィリグラーナの美しい唇から洩れた、笑いとも泣き声ともつかない、言葉にならない声だった。